後編
12
翌朝、ぼくたちはいつもより早く朝食を取った。
「溜石の総数は十二、妖気が抜けているのは六つで変わらずです。水虎の位置は、ここです」
「よし。出かけよう。長壁、お守りに入ってくれ」
「はいです」
「行こう、天子さん」
「うむ」
スニーカーを履いたぼくの頭に左手を乗せて、天子さんは呪文のようなものを唱えた。
「隠形をかけた。これで人の目にはつかんはずじゃ」
「ありがとう」
道中、ぼくたちは無言だった。
歩きながら、ぼくは考えごとをしていた。
どうして人を襲うときには、用水路の上流のほうにいて、少年の姿のときには下流のほうにいるんだろう。
いろいろ考えてみたけど、理由はわからなかった。
ずっとあとになって、あることを知った。用水路のなかには何か所か、落下した木切れや草やゴミをせき止めておくための、かなり丈夫な金属の網が設置してあるんだそうだ。そのことが、少年の姿の水虎が下流に出現していたことと、関係があるんじゃないかと思った。
地守神社の前を過ぎてさらに進んでいくと、用水路がみえた。
いた。
昨日と同じ場所に、水虎がいた。
「やあ」
「あ、おにいちゃん」
困ったような顔をしている。
「今ここに来ちゃだめだ」
「用事があったんだ」
「いけない、いけない。ここにいちゃ、いけない」
少年は苦しそうな表情をみせた。
「用事は君なんだ」
「すぐに帰って、おにいちゃん。でないと……」
顔をくしゃくしゃにゆがめ、目には涙があふれかかっている。
ぼくは心を鬼にして宣言した。
「君を殺しに来たんだ」
わずかな沈黙があった。
「……なにいっ」
少年は、悪魔のような形相になった。
声も、今までと打って変わったしわがれ声だ。
「殺してほしいんだよね。ぼくが殺してあげる」
少年の顔は、赤黒くふくれ上がってゆく。
みしっ、みしっ、と音を立てながら、顔に縞模様が浮き出してくる。
「殺スダト。コノ、水虎サマヲ、タカガ人間ゴトキガ、殺スダト」
目の光はぼくを射殺すほどに強い。
髪は逆立ち、口からは牙がせり出してきている。
「うん」
「身ノ程知ラズメ! オレガオ前ヲ殺シテヤル!」
用水路からぶわあっと霧が噴き上がった。一瞬で辺りは霧に包まれ、何もみえなくなった。
もちろん、このときにはすでに天子さんは両手をかざしていて、薄緑色の膜が、ぼくと天子さんを包んだ。
虎が現れた。
でかい!
二階建ての家どころじゃない。五階建てのマンションのような大きさだ。
吠えた。
バリアーのなかにも、音は通る。
骨の髄まで響くような巨大な吠え声だ。
終わったあとも、全身がしびれて動けない。
巨大な怪物が右前足を振り上げたのがみえる。
来るっ、と思ったけれど、指一本動かない。
もしかしたら、水虎の吠え声には、萎縮効果か麻痺効果のようなものがあるのかもしれない。
そこに天が落ちてきた。
それはもう、攻撃だとか何だとかいうようなものじゃなかった。
ほんとに、天が落ちてきた、とか言いようのない何かだ。
真っ暗になって何もかも聞こえなくなり、そのあとから、どどーんという、地揺れのような音が響いてきた。
それから天が晴れて光が差してきた。
怪物が前足を持ち上げたのだろう。
目の前の地形が変わっていた。
ぼくたちのいる一角が丸く残されて、その周りの地面がぐしゃりとつぶされ、引き裂かれている。ドーナツ型にへこんでいる、とでもいえば表現できているんだろうか。何本かの断裂線、つまり縦に割れた地球の傷が生々しい。
周りの地面がへこんでいるのに、ぼくたちのいる場所の高さが変わっていないということは、天子さんの張ったバリアーは、ただ地面に支えられているんじゃなくて、何か不可思議な力で攻撃の圧力に抵抗したということだ。
怪物が縮んでゆく。
みるみる小さくなって、二階建ての家ぐらいの大きさになった。
威嚇のうなり声を上げて、再び右前足をたたき付けてきた。
がきいんっ、と鋼鉄を岩にたたきつけたような音がして、緑色の火花のようなものが三か所ほどではじけた。怪物は、爪で攻撃してきたようだ。
「ふむ。だいじょうぶのようじゃな」
もう一度、巨大な虎が前足の爪をたたきつけてきた。やはり肝の縮むような音がして、緑の火花が散った。
昨日、作戦を打ち合わせたとき、天子さんがどうしても譲らなかったことがある。
それは、バリアーがもたないと天子さんが判断したら、逃げろという指示を出すので、その場合は異論を唱えずただちに一目散に逃げる、ということだ。
天子さんは、昨日水虎の攻撃をみて、これなら防ぎきれるだろうと判断した。ただしそれは、天子さんが分析したかぎりではということであって、相手の攻撃がこちらの分析を越える威力や性質を持っていた場合、天子さんの能力では防ぎきれない。それから、ひょっとして、ひでり神さまが知らない攻撃能力を何か持っているかもしれない。だから、何度か実際に攻撃を受けてみて、だいじょうぶなようだと判断したんだ。
実のところ、ぼくが一番恐れていたのは、ぼく抜きで戦うと天子さんが決断することだった。だってぼくには何の能力もない。水に潜った水虎の居場所をみつけることもできない。天子さんに守ってもらわなければ、水虎の一撃にさえ耐えることができない。天子さんがいなければ、水虎を攻撃する方法がない。
こんなに他人任せなぼくなど、いないほうがやりやすいはずだ。
だけどぼくは戦いの場にいたかった。いるべきだと思った。水虎を殺すのはぼくだと、水虎にちゃんと言わなくちゃだめだと思った。それはぼくのわがままにすぎないんであって、ぼくが戦いの場にいるべき客観的な理由はない。じゃまだと言われればそれまでだった。
でも、どういうわけか、天子さんは、ぼくに来るなとは言わなかったし、作戦をやめようとも言わなかった。その代わり、天子さんが逃げろと言ったら、たとえどんな状況であっても一目散に逃げると約束させ、くどいほど念を押した。たぶん、ぼくが安全な場所に逃げるまでのあいだ、敵の攻撃を防ぎきる自信はあるんだろう。
五度ほど左右の前足で攻撃したあと、水虎はかみついてきた。観光バスを丸呑みにできるような巨大な口が迫ってくる恐怖を、ぼくは思い知ることになった。バリアーに対する信頼度は、この場合関係ない。分析の結果に対する恐怖じゃないからだ。恐ろしいものは恐ろしいのだ。
「もうじき水に戻るですよ」
いつのまにか童女妖怪が出現している。
「どうしてわかる?」
「なんとなくわかるのです。こいつは今、喉が渇いてるです」
「わらわにもわからん。そなたはほんに優れた探知能力を持っておるのじゃなあ」
「天狐さまにお褒めいただくとは、光栄の至りなのです。おい、へなちょこ! お前も褒めるですよ!」
「身長のわりにはやるな」
「むかっ。どうして素直に褒められないですか」
照れくさいからだよ。
「あ。水虎が水に戻るです!」
言われて注意してみたが、特にそんな気配はない。ただし、バリアーに対する攻撃はもうやんだみたいだ。馬鹿話をしていたせいか、途中から恐怖を感じなかった。
そんなことを考えていると、水虎の姿がぼやけてきた。
そしてふうっと霧に消えた。
「水に戻ったです。天狐さま。結界を解いても大丈夫なのです」
「よし」
天子さんが開いていた手を閉じると、緑の薄い膜も消えた。
ぼくはくぼみを駆け下りて、その勢いでくぼみの登り坂を登り切って、水虎がこしらえた巨大なドーナツ状のくぼみから出た。
「あそこですです」
童女妖怪が用水路の曲がり角辺りを指さす。
三人はそこに走り寄った。
「水のなかで、ゆらゆら動いているです。これからあちしの指さすのが、水虎の体の中心部なのです」
そう言いながら、童女妖怪は水のなかを指さした。その指は、ゆるやかに移動している。
天子さんが、右手を高々と振り上げた。五本の指は、全部開いている。
と、天子さんが、ぼくをみた。
(ああ、指示を待ってるんだな)
ぼくは天子さんの目をみながら、うなずいた。
天子さんが用水路に視線を戻し、ちらと童女妖怪のほうをみた。
両目が金色に輝いた。
右手が振り下ろされた。
五筋の赤い光線が水面を斬り裂いた。用水路のコンクリートの壁にも五筋の切れ目が走る。
ちゅいん、というような音が聞こえた気がした。
「やったです」
そう童女妖怪は言ったが、しばらくは何も起きなかった。
やがて、水面がぐねぐね不自然に盛り上がったかと思うと、ちゃぽんと音を立てて水の塊が飛び出して、用水路の脇に落ちた。
落ちて少年の姿になった。
13
左胸から右脇腹にかけて、深々と大きな切り傷がついている。
左足の太ももから右足のすねにかけて、ほとんど切断されている。
人間だったら死んでいるはずだ。
傷からは、半透明な赤っぽい液体が流れ出ている。血液のようなものなのだろうか。
少年は、苦しそうな顔をしていたが、ちらと目を開け、ぼくに気づくと、笑顔を作った。
「あ、ありがとう。おにいちゃん」
その声は小さい。
「ごめんな」
「ううん。うれしいよ。ぼくを殺してくれて。おかげで、あいつから自由になれた」
「あいつ?」
「うん。水のなかからぼくに命令をしていたあいつだ」
「そいつから自由になったんだな」
「うん。ぼくは死ぬけど、またよみがえる。よみがえったら、〈ばつ〉ねえちゃんを探すんだ」
ぼくは衝撃を受けた。
水虎は、ひでり神さまの名前を言った。
どうして、その名を知っているんだ?
「探してる人の名前を、思い出したんだね?」
「うん。自由になったおかげで、何もかも思い出した。ぼくは、おねえちゃんに会いに、日本に来たんだ」
「生まれ変わったのに、覚えてたんだ」
「不思議なんだ。おねえちゃんと別れて、何度も死に、何度も生まれた。そして生まれ変わるたびに、おねえちゃんに会いたい気持が強くなって、それで、とうとう日本にまで来ちゃったんだ」
「よく日本に〈ばつ〉さんがいるって、わかったね」
「〈天告〉っていう力を持った仲間がいてね。ずっと昔にその仲間が教えてくれたんだ」
「そうか。〈天告〉か」
「あ、知ってるんだね」
「うん。知ってる」
「日本に来たのはいいんだけど、教えてもらった場所には、〈ばつ〉ねえちゃんはいなかった」
「そうなんだ」
「だから、いろんな所を探してるんだ」
「探して会えたら、どうするの?」
「どうもしないよ? ただ会いたいだけなんだ」
「そうか。ただ会いたいだけなんだ」
「おねえちゃんは、とっても優しいんだ」
「そうなんだ」
「とってもいい匂いがするんだ」
「シャオチン」
「……え? それは……その名は……知ってる。……ぼくの名だ。そうだ。確かにぼくの名前だ。おにいちゃん、どうしてぼくの名前を知ってるの?」
「もう少し、死ぬのをがまんできるかい?」
「いや、もう死ぬよ」
「ぼくが、ある人を連れてくるまで、死ぬのを待ってほしいんだ」
「ごめん、むり。もう、ぼくは……消えて……しまう」
「死ぬな。シャオチン。もう少しだけ、死ぬな」
「だいじょうぶ……死んでも……またそのうち……生まれてくるから……何度でも生まれ変わって……おねえちゃんに……会いに……」
シャオチンは死んだ。
死んで水になった。
ぼくは、少し前の瞬間までシャオチンであった水をすくい取ろうとしたけど、水は手をすり抜けて、地に落ちて、そして消えた。
あとに残ったわずかなしみが、そこにシャオチンがいたことを示している。
「ごめん、シャオチン」
ぼくは声に出して謝った。謝らずにはいられなかった。
「最初から会わせてあげればよかった。そうすればよかった」
実際には、そんなことはできなかった。できなかったけれど、そうすべきだった。
「だめなんだ。だめなんだよ、シャオチン。今度君が生まれてくるときには、〈ばつ〉さんはもう、地上にはいない。会えないんだ。君はおねえちゃんに、会えないんだ……」
地に突っ伏して、ぼくは泣いた。
ぼくの涙は地に落ちて、シャオチンの残したしみと交わり合った。
ぼくは涙を落とし続けた。
そのしみが消え去ってしまうのをいやがるように。
ぼくの背中に、誰かが手を当ててくれた。
温かで柔らかな手だ。
ぼくの肩に、誰かが手を当ててくれた。
小さな手だ。
いつまでもぼくは泣き続けた。
ちりーん。
鈴の音が聞こえたような気がした。
ふと気がついた。
ふわりとした白いものが、二つある。
シャオチンの膝の毛玉だ。
さっきは、こんなものはなかったはずなのに。
でも今は確かにある。
ぼくは二つの毛玉を抱き上げた。
柔らかくてさらさらした感触が、ひどく優しかった。
誰なんだろう、水虎の膝の白い毛が、虎の手に似ているなんて言ったのは。
爪なんて、ないじゃないか。
13
乾物屋に帰り、隠形をかけ直してもらってから、ひでり神さまの家に向かった。
ぼくは、ひでり神さまに、二つの白い毛玉を渡した。
それをみたひでり神さまは、悲しそうな目をした。
ぼくは話した。シャオチンが最後に何を語ったかを。
彼がなぜ日本に来たのかを。
彼が何を願っていたのかを。
それを告げることは、ひでり神さまを、ひどく悲しませるだろうとわかってた。
だけどこれは、伝えなくちゃいけないことだ。
ぼくが勝手に握りつぶしていい情報じゃない。
伝え終わると、頭を下げ、失礼しますと言って、返事も待たずに家を飛び出した。
だから、ひでり神さまの泣き顔はみていない。
「第9話 水虎」完/次回「第10話 火車」