中編3
8
神社の掃除をしたあと、用水路のほうに足を伸ばした。
昨日、水虎と会った場所は、神社から二百メートルぐらいしか離れていない。
右側に三山の威容を視野に入れながらてくてく歩いていった。
いた。
向こうもぼくに気づいて、手を振っている。
無邪気そのものの顔だ。
この小さな少年が、本当に青年団の二人に重傷を負わせたんだろうか。
「おにいちゃん、こんにちは」
「やあ、こんにちは」
こんにちは、というあいさつには、ちょっと早い時間だけど、ぼくは少年のあいさつを、同じように返した。
「また来てくれたんだね」
「うん」
そういえば、昨日、また来ると約束したような気がする。
「ここの景色は、とてもきれいだね」
少年が三山のほうをみながら言った。
「うん。奇麗だね」
「でも、きれいな水がないね」
「こんな用水路じゃあね。村の外にさかのぼれば、大きな川に出るよ。その川は奇麗だとおもうけどな」
「……あの川は、きれいだけど、よごれてる」
「奇麗だけどよごれてる?」
「うん」
「君には住みにくいってこと?」
「ああ! そうだよ。おにいちゃん、よくわかるねえ」
「奇麗な水がないのに、どうしてここに現れたの?」
「うーん。よくわからないんだけど、ここに来なきゃいけない気がしたんだ」
並んで座っているので、どうしても、みおろしながら話すようになる。
年の離れた弟と会話している気分だ。
こんな弟が本当にいたらよかったのにと思う。
「何を探してるのか、思い出した?」
「人だ」
「人なんだ」
「でも人じゃないんだ」
「へえ?」
「とってもやさしい人なんだ」
「そうなんだ」
「すごくいい匂いのする人なんだ」
「ふうん」
少し言葉がとぎれた。
「男の人なの? 女の人なの?」
「え? あっ。女の人。女の人だよ。そうだ! おねえちゃんだ」
「そうか。おねえちゃんを探してるのか」
もしかして、おぼろげながら、ひでり神さまについての記憶を引き継いでいるんだろうか。そうだとして、ひでり神さまに会ったら、どうするつもりなんだろう。
「昨日言ってたね。この水のなかにはいると、君が君じゃなくなるって」
「うん」
「あれは、どういう意味なの?」
「うーん。水に入ると、がおーってなっちゃうんだ」
「そうか。がおーって、なっちゃうのか」
「それで、戦うの」
「誰と?」
「誰とでも。でも、ぼくは戦うの、いやなの」
「いやなのに戦うんだ」
「水が命令するんだ」
「水が命令する?」
「殺せ、引き裂け、何もかも。そう水が命令するんだ」
「そうか。水が殺せって言うんだ」
「うん」
「だけど君は殺したくないんだ」
「うん」
一昨日も昨日も、水虎に襲われた人は大怪我をしたものの、死んではいない。もしかしたら、水虎自身が手加減をしたのかもしれない。殺せという声に逆らって。
「だから水に入りたくないんだね」
「うん」
「でも、ずっと水から出たままではいられない」
「うん。そうなんだ」
ぼくは、ジャージーのポケットに手を突っ込んで、出がけに入れてきたあめ玉を取り出した。
「これ、食べる?」
「何?」
「お菓子だよ」
「お菓子なの! きれいな色だねえ。食べたい」
「じゃあ、これをどうぞ」
「ありがとう!」
「かじっちゃだめだよ。なめるんだ」
「うん」
水虎は、最初包みのほどき方がわからなかったが、すぐに理解した。
「おいしい!」
「よかった」
「こんなおいしいものがあるんだねえ、人間の世界には」
「うん」
「そういえば、おねえちゃんも、いっぱいおいしいものを作ってくれたよ」
「へえ。どんなものを作ってくれたの?」
「うんとねえ。……忘れちゃった」
「そうか。忘れちゃったんだ」
「うん」
それからぼくたちは、三個ずつあめ玉をなめて、話をした。
「あ、もう水に戻らなくちゃ」
「水に戻るんだ」
「うん。もう戻らなくちゃ」
「そうか。またね」
「また来てくれるの?」
「……うん」
「じゃ、またね!」
すっと溶けるように、水虎は用水路に消えた。
9
「あれ? 未完さん。今日は早いね」
これから朝食だ。こんな時間に未完さんが来たことはなかった。
「うん。実はよう。夏休みにはサークルの合宿があったんだ」
「へえ? 何のサークル?」
「そんなこといいじゃねえか。でも帰省しなきゃいけないからって言って、合宿は不参加にさせてもらったんだけどよ」
「けど?」
「そのあとの強化練習には絶対出てこいっつうんだよ」
「あ、京都に帰るんだ」
「おいこら。なんでうれしそうなんだよ」
「いや、悲しいよ」
「笑いながら言うなよ!」
「あ、でも今、外出禁止なんじゃないの?」
「バスは出るんだと。やっぱ仕事とかでどうしても町に行かなきゃなんない人もいるからだろうな。あたしも、昼の便のバスで行く」
「そうか。寂しくなるよ。それじゃあね」
「あ、こら。追い出すんじゃねえ。飯食わせろよ」
「いや。最後の食事ぐらい、自宅で食べようよ」
「母さんが行けっつったんだよ」
「……娘への教育というか、指導が、ちょっと変じゃないかな」
「母さんは、あんたのこと、むちゃくちゃ気に入ってるぜ」
なぜかうれしくないお知らせだ。
「その話はそこまでにせよ。鈴太が遅いので、わらわが食事の準備をしておいた。さあ、食べるぞ」
「あ、待っててくれたんだ。ごめんね」
「待ちきれないので、あちしはもう食べてるです」
「お前は居候の自覚を持て」
食事がおわると、未完さんは、あわただしく帰っていった。
これで、冬休みまでは会うこともない。ほっとしたような、ちょっと寂しいような、微妙な気分だ。
「さて、こんなに遅くなったということは、水虎と会っておったな?」
「うん」
「危険なことをするでない! ところで、昨日、あのかたと会うたのじゃな」
「あ、うん」
「その話を聞いておきたい」
ぼくは話した。
ひでり神さまに何を話したのかということと、ひでり神さまから何を聞いたのかということを。
そしてまた、ぼくは話した。
水虎とどんな会話をしたのかを。
「ふむう。ひでり神さまのことをよく知るあやかしか」
「天子さん」
「何じゃな」
「天逆毎が溜石を結界のなかに運ばせて、妖怪を生じさせる」
「うむ」
「そのとき、狙った種類の妖怪を生じさせることができるだろうか」
「なに? ……ふうむ。むずかしいであろうなあ」
「そうなの」
「そもそも、ごく特殊な場合を除いて、狙った種類のあやかしを生み出すこと自体がむずかしい。ある種のあやかしが出やすい条件を整えることはできるが、確実に種類を確定させることは、まあできんじゃろうなあ」
「なるほど」
「そして今回のことは、十二個の溜石をどこに置くか、天逆毎自身にもわからんのじゃから、なおさら難しい。無理じゃな」
「そうか。なら、水虎が生まれたことは、偶然なんだね」
「そうだとしか考えられぬが、それがどうかしたのか」
「水虎には、ひでり神さまの記憶が、うっすらと残っているみたいなんだ。つまり、数ある妖怪のなかで、ひでり神様を知っていて探し出せる妖怪なんだ」
「ふむ。それで?」
「そして、さっきも言ったように、水虎は、ひでり神さまを探そうとしている」
「探し当ててどうするかもわかっておらんと言わなかったか?」
「それはあとから指示すればいい」
「指示?」
「水虎は、用水路のなかに戻ると、自分が自分でなくなると言った」
「いかにも」
「人を襲え、殺せ、と命じられると言った」
「そうであったな」
「用水路は、天逆川から引いている。天逆毎は川を通じて命令を送っているんだ」
「川を通じて、じゃと?」
「妖気の大きな妖怪は、結界のなかに入ってこれない」
「うむ」
「だけど妖気の小さな妖怪がたくさん入ってくることはできるよね?」
「うん? それはできるじゃろうが……」
「たくさんの小魚。たくさんの小海老。目にはみえないような小さな生き物。それが結界のなかに入り込んで、天逆毎の意志を結界のなかの妖怪に伝える。いや、支配する。それは可能かな?」
「……可能じゃろうな。なんということじゃ。そんな方法、考えてもみなんだわ」
「たぶん、あんまり細かい指示はできないんだ。人を憎み殺せとか、ひでり神さまを探せとか、そういう漠然とした命令が、水虎を支配してるんじゃないだろうか。ただし、水虎自身は、人を襲うことも殺すこともいやがっている。だから今のところ、死者は出ずにすんでいるけど……」
「ふむ。もうすぐ、警官隊と猟友会が、猛獣を射殺するための捜索を始める時間じゃ。わらわがみにいってみよう」
「うん」
天子さんには、隠形とかいう能力があった。
人間たちにみとがめられずに、現場を調査できるんだろう。
10
「いや、すさまじい大妖怪じゃ」
「ずいぶん何度も、猟銃だか拳銃だかの発砲音が聞こえてたけど」
「うむ。まず、最初の被害者が出た場所と、二度目の被害者が出た場所を猟友会の者たちに検分させた。それから山に入るつもりであったのじゃが」
「出たんだね」
「二番目の検分場所で急に霧が出た。霧が出るという話は、わらわでさえ聞いておったというのに、警官隊も猟友会もひどいあわてようじゃった」
「信じてなかったんだと思うよ。霧の出るような季節でも時間帯でもないからね」
「濃密な霧であった。そのなかに、猛獣の吠え声が響きわたった。いやはや。虎の吠え声など聞いたことはないが、恐るべきものじゃな」
「それで、どうなったの」
「霧のなかに虎が出た。二階建ての家ほどもある虎じゃ」
「うわ」
「ただし上半身だけが現れ、下半身は霧のなかにかすんでおった。あとでみたが足跡もなかった。つまり虎は宙に浮いた状態で、上から攻撃してくる」
「そうなんだ」
「人間らは、拳銃や猟銃をさんざんに撃っておったが、虎を素通りしておった」
「うん」
「虎が前足を軽く振ると、五人の人間が宙を舞った」
「それで?」
「人間らは逃げ惑うたが、逃げ遅れた三人がはね飛ばされた」
「戦いは長く続いたの?」
「いや。あっというまに終わった。人間らは霧から出て、負傷者を連れてあわてて逃げていった。じゃが虎が恐るべき正体を現したのは、そのあとじゃ」
「何があったの?」
「小山ほどの大きさにふくれ上がったのじゃ」
「ええっ?」
「変幻自在とは聞いておったが、もしかすると、もっともっと大きくもなれるのかもしれぬ。まさにあれは、神話時代の強大な妖怪じゃ。けた外れの強さじゃ」
「正面から戦ったら、和尚さんでも勝てないかな?」
「勝てぬな。そもそも虎の姿のときは、攻撃が通らんのであろう? あれだけの攻撃力を持っていて敵の攻撃は素通りとなると、戦いようがない」
「討伐隊は、そのまま引き上げたの?」
「引き上げた。結局人間八人が負傷したからの。そういう被害は予想しておらなんだはずじゃ。もっとも、爪にかけられた者は一人もおらぬ。爪にかけられれば命はなかったであろうな。水虎が手加減したとしか思えん」
「そうなんだ」
「巨大な虎は、四方をぐるりとにらみ、消えた。すると霧も消えた。そのあと、妙な声が聞こえた。虎の声ではない。小さな男の子のような声であった」
「なんて言ってたの」
「〈殺して。ぼくを殺して〉と、そう言っておったの」
11
昼ご飯を食べていると、村長さんから電話があった。凶暴な猛獣が村のなかにいるので、家を出ないようにということと、明日昼前には武装警官隊が派遣される、という連絡だった。
「あ、ありゃあ、猛獣どころじゃねえ。恐竜じゃ! あげなもんがこの世におるとは、この目でみても信じられん」
村長さんは、えらく興奮していた。少し高台にある自宅の二階から巨大な虎を目撃して、恐竜だと思ったようだ。といっても、ひどく濃い霧のなかでのことだったから、何の恐竜か定かにはわからなかったようだけど。
ぼくは水虎を倒すことを決心した。
作戦を伝えると、はじめ天子さんは反対したけれど、誰かが倒さなければ被害が増えていくだけだし、このままでは満願成就どころではないと言って説得した。童女妖怪にも役割を説明したけど、それならできる、だいじょうぶだ、と自信満々だった。
相談がまとまると、童女妖怪はお社に帰り、天子さんは和尚さんの看病に行った。
その日、お客さんは一人も来なかった。




