前編
1
朝起きると顔を洗い、奧の間のお社に手を合わせて拝むのが、ぼくの日課だ。
お社は、背の低い箪笥の上に置いてあり、お社の前には、三つのご霊璽が置いてある。
ご霊璽っていうのは、要するに神道式の位牌だ。
この村に移住してきてあと、ある日ぼくはじゅごん和尚さんに、あることを訊いた。何しろじゅごん和尚さんは、毎日一升瓶を一本配達させるので、ぼくは毎日和尚さんと顔を合わせてる。
「あの、おじいちゃんの位牌って、ないんですか?」
「ない」
「どうしてですか?」
「位牌というのは亡くなった人を拝むめあてじゃ。お前のうちには神様のお宮があるじゃろう」
「はい」
「その横に、小さな箱があるじゃろう」
「はい」
「そのなかにはのう。〈羽振家遠祖世々祖之霊神〉と書いた木の札が収めてある。それを目当てにご先祖さまを拝むんじゃ。じゃから位牌はいらん。そもそも位牌は仏教のもんじゃ」
「いや。葬式は仏教だったじゃないですか」
「わしが今は僧侶なんで、仏式でやっただけのことじゃ」
「今はって。前はちがったんですか」
「前は、今でいう修験道や陰陽道のほうじゃったのう」
「へえ? それはともかく、おじいちゃんを拝む目当てが欲しいので、ご位牌を作ってください。それから、お父さんとお母さんのご位牌も作ってください」
「そうか。お前がそう言うなら、三人の霊璽を作ってやろう」
そんなやりとりがあって、三人の霊璽ができた。それを最初に拝んだときは、何ともいえずうれしかった。こんな気持は、人には説明しにくいね。
霊璽の横には、ひどく古ぼけた鈴が置いてある。きたない鈴だけど、これは父さんの形見だ。何か由緒がある品のようで、父さんはとてもこれを大切にしていた。
鈴を振った。
がちゃがちゃと、にごった音がした。
父さんが、この鈴をとても澄んだ奇麗な音で鳴らしてたような気がしたんだけど、あれは気のせいかなとも思っていた。
ところがこのご霊璽の横に置いたとき、とても奇麗な音で鳴ったんだ。
びっくりしたけれど、すごくうれしかった。それからは、毎朝一回鳴らすようにしてるんだけど、やっぱりにごった音しか出ない。
天子さんは、まだ来てない。
ぼくは、地守神社に行くことにした。
最初に行ってから、週に二、三度は掃除に行ってる。
境内を囲む木々がみえ、それから背の高い草がみえてきた。まるで神社を隠すようにびっしり生えている。
木立のなかから、一人の老婦人が出て来た。
(あ、艶さんだ)
それは〈三婆〉の一人、艶さんだった。
艶さんは、ぼくがこの村に移住したとき、最初にあいさつに来てくれた人だ。すごく丁寧にあいさつしてくれた。そのことを駐在の平井さんに話したら、びっくりしていた。艶さんは、とっても無口で、人と関わろうとしないらしい。
今みかけた姿にも、何というか、近寄りがたい雰囲気があって、ぼくは黙って後ろ姿をみおくるしかなかった。この神社の境内地にぼくと天子さん以外の人が入るのをはじめてみた。
境内のなかへ入ったけど、べつに変わったところはなかった。変わったところがあったら困るんだけど。
それにしても、社殿の真ん前にある、この石の八足は、謎だ。
あ、八足というのは、平たい板の両側に四本ずつの足をくっつけた祭壇のようなものだ。社殿のなかには木の八足がある。これは神様へのお供え物を載っけたりするらしいんだけど、こんなところにお供え物を置かせて、どうしようっていうんだろう。
社殿のお掃除をして、境内も竹箒でお掃除すると、家に帰った。
天子さんが来ていて、朝食の準備ができていた。
2
「うーん。迷うわねえ」
山口美保さんが、胸の前で腕を組んで身をよじった。
ふわり、と成熟した女性の匂いがただよってきて、ぼくはどきっとした。
「ねえ、鈴太さあん」
「は、はい」
「やっぱり一番高いのが、一番おいしいのかしらね」
「そういうわけでもないですよ。料理によってもちがいますし、材料との相性もあります。どれが上とか下とかいうより、それぞれ個性がありますから。人によって味の好みもちがうでしょうし」
「そうねえ。男の人でも、それぞれ好きな女のタイプはちがうものねえ」
「そうですね」
「鈴太さんは、どういうタイプが好きなの?」
「え?」
「だから、ね」
山口さんが、一歩ぼくに近づく。
思わず息を吸い込んだ拍子に、ぼくの鼻は山口さんの匂いを吸い込んでしまう。
頭がくらくらする。
山口さんは、ちょっと身をかがめて、上目遣いでぼくの目をのぞき込み、ふふっと、小さく笑った。
ぼくの目は、山口さんの胸の谷間にくぎ付けだ。
思わず、ごくり、と喉を鳴らした。
「鈴太さんは」
「は、はい」
「どういうタイプの」
「は、はい」
「昆布が好きなの?」
「え?」
「ふふっ」
いたずらっぽく、山口さんが笑う。
もちろん山口さんは、こちらが誤解するように話している。
からかわれているのだ。
でも、そこに悪意は感じない。
むしろ、……いや、何を考えてるんだ、ぼくは。
「うーん。ぼくはいつもありあわせのものを使ってますけど、たとえばこの利尻昆布は、透明感のある上品なだしが取れます」
「あら、そう」
「こっちの羅臼昆布だと、ちょっと黄色っぽい、こくのあるだしが取れます。この羅臼は上級品ですから、ほんとに黄金のようなだしが出ると思いますよ」
「そうなのね」
「こっちの日高昆布もいいだしが取れますが、昆布自体が肉厚で、柔らかく煮えるので、佃煮や昆布巻きに使ってもいいし、だしを取ったあと味付けして食べてもおいしいですね」
「くわしいのね。そういえば、鈴太さん、お料理できるんだったわね」
「自炊が長かったですから」
「その年で苦労してるのね。でも、昆布でだしを取ってたの? インスタントじゃなくて」
「結局そのほうが安上がりだし、味噌汁って、毎日飲むものですからね。インスタントじゃ、飽きちゃいます。といっても、最近はフリーズドライの味噌汁なんかで、すごくおいしいのが出てますけどね」
「だし昆布を使ったら、高くつくんじゃないの?」
「料亭のようなだしの取り方をするわけじゃないです。だしは二種類か三種類の素材で取ります。だし昆布とカツオとか、カツオとイリコとか」
「料亭のだしの取り方はちがうの」
「あんまりくわしく知ってるわけじゃないですけど、料亭だと、例えばカツオならカツオだけでだしを取って、それを基本のだしにしてると思いますよ。ほんとにたっぷりのいいカツオを使って。それに、一番だしと二番だしを取って、それぞれ別の用途に使ったりしてるんじゃないでしょうか」
「鈴太さんは、どうして一種類の材料からだしを取らないの?」
「複数の素材を使うと、少しの量でしっかりしただしが取れるんです。でも、種類をたくさん使いすぎると、味が殺し合うことがあります。たとえば、昆布とカツオとイリコって、みんな海のものでしょ。海のものを三つも使うと、くどいです」
「へえー。なるほどね。昆布って、大きいままのほうがいいだしが取れるって、ほんと?」
「さあ、どうでしょう。ぼくは小さく四角く切って使ってます。お茶の缶のなかにビニール袋を入れて、そのなかにしまっておくんです」
「そんな使い方をしてるんだ」
「そして、夜のうちに鍋に水を張って、そこにひとつまみの昆布を入れておくんです」
「え? 前の晩からだしを取るの?」
「そうしておくと、じんわり水にだしが溶け出して、翌朝コンロにかけると、すぐにだしが取れるんです。で、沸騰する前に昆布を出して、カツオをぱらりと落としてすぐに引き揚げる」
「カツオもしばらく煮たほうが、しっかりだしが取れるんじゃないの?」
「うーん。さっといさぎよく引いたほうが、逆にカツオらしい風味がでますね。煮物とかに使うんだったら、しばらく泳がしてもいいですけど」
会話しながらも、ぼくの視線はちらちらと山口さんの胸の谷間に引き寄せられる。
女の人の胸って、どうしてこんなに色っぽいんだろう。
「何を煮るかで、どの昆布がいいかは変わるのね」
「ええ。結局料理は相性と好き嫌いです。どの材料ならどの昆布がいいか。どの組み合わせがその家庭に合うか。それは実際に試してみなくちゃわかりませんね」
「じゃ、いろいろ試してみることにするわ。この利尻昆布をちょうだいな」
「まいどありがとうございます」
「ふふ。初々しくていいわね」
山口さんは、だし昆布のほかに、みりんと醤油と小麦粉と、それからインスタント・ラーメンをたくさん買った。とても持てる量じゃないので、あとで配達します、とぼくは言った。
山口さんが帰ったあと、冷たいお茶を飲もうと思って居間に上がると、昼ご飯の準備を終えた天子さんが、ちゃぶ台の前に座って、テレビをみながら、湯飲みでお茶をすすっていた。
その前には、ぼくの湯飲みが置いてあり、なかにはお茶が入っている。
「あ、お茶淹れてくれたんだ。ありがと」
「うむ」
なぜかちょっと後ろめたさを感じながら天子さんにお礼を言い、お茶を飲んだ。
ほどよく冷めていて飲みやすいんだけど、妙に渋いお茶だ。
ほっこりしていると、天子さんが、ぽつりと言った。
「春過ぎて夏来にけらし薄衣」
お、和歌かな。急にどうしたんだろ。
「谷の眺めは絶景かな」
ぼくは盛大にお茶を噴いた。
3
昼ご飯が終わると、天子さんに店を任せて、自転車で配達に出た。
配達の注文が三軒あったんだ。
二軒の配達をすませ、最後に山口さんの所に向かう。
何で山口さんの所を最後にしたのかというと、山口さんの家は、ちょっときつい坂道を登りきった場所にあるので、少しでも荷物を減らしておきたかったんだ。
けっして、最後の配達だからと、あわよくば飲み物の一つもごちそうになろうなどと考えたわけじゃない。ないったらない。
それにしても、都会では、配達に来た人にお茶を出したりはしないけど、田舎では、当たり前のように飲み物を勧めてくれる。そのかわり、店に来たときも、ゆっくりできるときは、お茶やお茶請けを出すのが当たり前だ。たぶん昔は、どこでもそうだったんじゃないだろうか。この村では、まだそういう風習が残ってるんだ。
みえてきた。
山口さんの家だ。
小高い丘の上に、張り出すように立つ、田舎には不似合いな、しゃれた作りの家だ。
山口美保さんは、去年、ご主人を亡くした。
十歳ほど年上の、すごく落ち着いて、頼りになる人だったらしい。
デザイン評論家という、よくわからない職業の人だった。
美保さんが通っていた大学に臨時講師で来たとき二人は知り合い、美保さんの卒業と同時に二人は結婚し、羽振村に家を建てて移り住んだ。
ご主人も美保さんも、べつに羽振村に親戚や知り合いがいたわけじゃない。
ご主人は田舎を旅するのが趣味で、この羽振村を一目みて、ひどく気に入ったらしい。
〈これこそ原初の風景だ〉
〈ここには、日本中から失われてしまった大自然の活力と魅力がある〉
〈この風景をみているだけで、ぼくの心は初期化され、力が湧いてくるんだ〉
そんなふうに言っていたらしい。
去年の秋、ご主人は山で足を滑らせて谷に落ち、死んだ。
「でもね。幸せな死に方だと思うのよ。長患いして苦しんだわけじゃなくて、大好きな山歩きをしてて死んだんだから。そうでしょ?」
そう聞かれて、うん、と答えるほかなかったけど、本当のところ、幸せな死に方なんてあるのかどうかよくわからない。生きてたほうが幸せに決まってる。幸せじゃなかったとしても、生きていれば、そのうち幸せになれるかもしれない。
山口さんは、ぼくが父も母も祖父もなくして天涯孤独だと知ると、妙な親近感のようなものを感じたようで、いろいろと打ち明け話をしてくれるようになった。
すごく年上のような感じがするけれど、山口さんは、まだ二十代だ。ぼくと、それほど年が離れてるわけじゃない。
そして確かに、ぼくと山口さんは、似たところがある。埋めきれない寂しさのようなものを、ぼくもずっと胸の奥に感じている。山口さんの痛みは、もっと生々しいだろうけど。
「こんにちはー」
「あら、こんにちは。早いわね。ありがとう」
勝手口で声をかけると、すぐに山口さんがドアを開けてくれた。
注文された品を配達して帰ろうとすると、上がって行きなさいと勧められ、ぼくは靴を脱いで部屋に上がった。
案内されるまま、ダイニングルームの机に座って、出された麦茶を飲んでいると、机の上に置いてあるノートが目に入った。
「あ、これはね。キノコ地図なの」
そう言いながら、ノートをぼくのほうに、すいっと差し出した。
〈樹恩の森食用茸分布図〉と表題が書いてある。
「キノコ地図、ですか?」
「ええ。夫が山歩きが趣味だったというのは話したわよね」
「ええ」
「山に入って風景をみるのが好きだったんだけど、おいしいキノコを探すのも好きだったの」
「へえ、そうなんですね」
「羽振村の奧に広がる樹恩の森は、キノコ天国なんですって。それで夫はキノコの地図を作ったのよ」
「そんなにたくさんキノコが採れるんですか?」
「とびきり珍しいキノコや、ものすごくおいしいキノコが採れるのよ」
「知りませんでした」
「あの人は、そう言って喜んでたわね」
「それはよかったですね」
「ううん。よくないの」
「え? どうしてです?」
「私ね、キノコが嫌いなの」
「ありゃ……」
「だから、採ってきたキノコは、主人が一人で食べてたの。焼いたり煮たりしてね」
「そうだったんですか」
「何であんな物を、おいしいおいしいと言って食べるのか、ふしぎだった」
「うーん。キノコは好き嫌いがありますからね」
「そうね。だからあの人は、私を責めなかった」
「優しいご主人だったんですね」
「そうなの。でも、思い出してみるとね、つらいの。本当は、私にも、キノコを食べてもらいたかったんじゃないかって。一緒に珍しいキノコを味わってほしかったんじゃないかって……」
「山口さん……」
「どうして。どうして私は、食べてみようとしなかったんだろう。食べてみたら、好きになったかもしれないのに……」
それからしばらく、山口さんは口を閉ざした。
それまで、何となく山口さんのほうをみずに話をしていたんだけど、首をひねって、隣に座っている山口さんをみた。
両手で顔をおおって震えていた。
やがて嗚咽が始まった。
それは静かな嗚咽だったけれど、泣き叫ぶよりも、心の苦しみが伝わってくる嗚咽だった。
4
五月の三日に、おじいちゃんの四十九日法要をやってもらった。
そろそろ四十九日じゃないですかと和尚さんに訊いたところ、お前のところは神道じゃから法要はいらんと言われたけど、それでもやってほしいとお願いした。結局、お寺で拝むことになって、ぼくと天子さんが五月三日に転輪寺にお参りして、その場で法要をやってもらったんだ。
山口さんは、キノコ地図をみせてくれた日から、平日は毎日午前中に乾物屋に来るようになった。
そして、何かを買う。
買った物は、持って帰らない。
缶詰一個でも、配達お願いね、と言う。
もちろん、ぼくは、喜んで配達した。
商品を配達すると、決まってお茶をごちそうになった。
麦茶を、アイスミルクティーを、ハーブティーをごちそうになった。
お茶を飲みながら、山口さんがご主人の思い出話をするのに耳を傾けた。
ご主人を亡くした女性の家に男であるぼくが毎日上がり込んで、二人っきりで時間を過ごすということに、後ろめたい気持ちもあった。
でもぼくは、山口さんと過ごす時間が楽しかった。
いや。楽しいというのとは、ちょっとちがう。
せつなくて、つらくて。
それでいて、甘やかで、ひめやかで、心地よくて。
山口さんの匂いを吸い込みながら飲むお茶は、ふしぎな魅力を持っていた。
山口さんの息の匂いは、たまらないほど素敵だった。
ある日、山口さんが、店に来なかった。
次の日も、来なかった。
その次の日にやって来て、こう言った。
「キノコ鍋を作ろうと思うんだけど、だし昆布は何がいいかしらね」
少し話をしたあと、結局羅臼昆布を勧めた。
「じゃ、あとで配達しますね」
「あら、いいわ。軽いし。今日は自分で持って帰るわね」
昆布の入ったビニール袋を提げて歩き去って行く山口さんを見送りながら、ぼくは何だか取り残されたような気分を味わっていた。
次の日、山口さんは、うどんを買った。
「じゃ、あとで配達しますね」
「悪いわね。お願いね」
配達を断られるんじゃないかと思いながら口にした言葉だったので、そう返事されて、妙にうれしかった。
昼食が終わると、すぐに配達に行った。
「じゃ、天子さん。お店お願いするね」
「うむ。心置きなくゆっくりしてまいるがよい」
そこまで言われると、逆にあまりゆっくりできない気持ちになる。
でも、天子さんというのはふしぎな人で、ぼくはどういうわけか、天子さんが、ぼくと山口さんのことを勘ぐるんじゃないかとか、悪く思うんじゃないか、とかいう心配をしていない。
変な言い方かもしれないけど、天子さんになら、手の内をみせてもかまわない気がする。
ぼくは人付き合いには臆病なほうなので、どうして天子さんにこんなに心を許しているのか、自分でも奇妙だと思う。
田舎のゆったりした空気が、ぼくの心を解きほぐしてくれたのかもしれない。
うどんを配達に行くと、山口さんは笑顔で迎えてくれたけど、上がってお茶を飲めとは言わなかった。
「ありがとうね」
そう言った山口さんの息の匂いが、ちょっぴり生臭い感じがした。