中編2
6
「ところで、鈴太どの。昨日今日とずいぶん里が騒がしいようじゃが、何事であろうか」
熊警報はこの家にはまだ届いていないようだ。
ぼくは、どういう説明をしたものかと、ちょっととまどった。
ぼくが村に来てからの妖怪退治の話はだいたい話したけれど、五つ目の溜石から水虎が生まれたという話はしていない。それを話そうとすると、和尚さんが鉄鼠戦で傷ついて、動けないほど調子が悪いという話をしないといけないからだ。だけど、訊かれてしまったら、話さないわけにいかない。
「実は、安美地区の伊藤さんてかたが、獣の爪のようなもので大怪我をしまして。それで、熊が出たという話になって、平井巡査さんと青年団が、捜索をしているんです」
「熊とな。それは珍しい」
「え? いるんですか?」
「五百年以上前には三山に熊がおった。ここ四、五百年は話を聞かぬが」
「すごいスケールの話ですね。でも実は、昨日五個目の溜石から妖気が抜けたという話をしましたが、そのとき生まれた妖怪は、水虎だというんです」
「なにっ? 水虎とな?」
「は、はい?」
物に動じない、ひでり神さまの、珍しい反応だ。
「それはまた、懐かしいのう」
「え? もしかして、お知り合いですか?」
「ほほ。わしの知っておる水虎は、はるか昔の水虎じゃ。何代どころか、何十代も前のことになろう」
「え? ということは、日本での話ではないんですか?」
「むろんじゃ。水虎はもともと中国の妖怪じゃ」
「そうだったんですね」
「陛下とわしの、得がたい仲間じゃった」
「ええっ?」
ひでり神さまは、思い出話をしてくれた。
そのころ、陛下、つまりのちの〈黄帝〉は、まだ若く、力も弱く、神様が与えた試練として、中国各地を放浪していた。
今でいう湖北省のある村を通りがかったとき、村人が川に棲む妖怪に苦しめられているという話を聞き、村人に協力して妖怪を追い詰めた。だがその妖怪は、童子のような純粋な心を持っており、とても悪事を働いて人を苦しめるようには思えなかった。
よくよく調べてみると、村を牛耳っている金持ちが、薬の製造と販売でもうけているのだが、高価な薬のなかに偽の薬があり、副作用のつよい毒草を混ぜて多くの薬を作り、大もうけをしていることがわかった。その薬を作るとき流れ出る毒が川をよごすため、村人に抗議をしたのだが、逆に悪い妖怪だと決めつけられ、その金持ちのしでかした悪事まで責任を押しつけられていたのだった。
陛下は苦労して村人の誤解を解いた。その過程で〈ばつ〉、つまりのちのひでり神さまも協力し、陛下と水虎と〈ばつ〉は、とても仲よくなったらしい。
のちに蚩尤との決戦が始まり、蚩尤が妖怪軍団を繰り出してきたとき、真っ先に応援に駆け付けたのが、水虎だった。
雨師と風伯が参戦すると、陛下の軍は形勢不利となったが、そのなかで一人戦線を支えたのが水虎だったという。
何しろ水虎は、水のあるところでは無敵に近い。雨師が雨を降らせれば降らせるほど水虎は力を得て、敵を蹴散らしていったのだ。ただし、風伯とは相性が悪く、風伯が出てきたら逃げ回っていたらしい。
雨師と風伯に蹴散らされ、戦意を失った妖怪たちをなだめ励まして、どうにかこうにか軍団としての機能を維持させたのも水虎だった。
水虎は、身を捨てて陛下に尽くした。そして何も求めなかった。どうしてそこまでの献身をしてくれるのか、ひでり神さまには不思議でならなかったという。
蚩尤を倒したあと、水虎は故郷に帰っていった。
以来、ひでり神さまは水虎に会っていない。
「ところがなあ、七、八百年前であったか、水虎が日本に来たらしいという噂があってのう」
「長壁も、水虎は渡来の妖怪のように思う、とは言ってました」
「水虎の寿命は二百年か三百年ぐらいのものじゃと思う。日本に来てからも、何代目かになっておるじゃろうなあ」
「妖怪というのは、生まれ変わると、前の記憶はなくなっているんですか?」
「自然発生する妖怪はそうじゃ。人の恨みから生まれた妖怪は、生まれ変わってもその恨みだけは忘れぬがな。水虎のような妖怪は、記憶を引き継ぐことはない」
「ふうん。いや、もしかしたら、ひでり神さまを追って日本に来たのかと思ったんですが」
「それはないじゃろうなあ。来るならもっと早くに来ておったろうし、そもそもわしを探し出して何をしようというのじゃ。あやつはわしを恨んではおらぬと思うぞ」
「追ってきたとしたら、動機は恨みではないと思いますが、それはまあいいです。水虎は、どんな妖怪ですか?」
「あまり人とは関わらぬ。じゃから人のあいだでは、正体のよくわからぬ妖怪といわれておる。深い山のなかの青く澄んだ水を好むのじゃ。きれい好きで繊細でのう。小柄で可愛らしい。膝の所にふわっとした白い毛が生えておってのう。ぷかぷか水に浮いているときは、その膝のふわふわとした毛の塊が水の上をただよっているようにみえる。その白い毛の塊が、虎の掌に似ておると、人々は言うておった。わしはその水虎に頼まれて、呼び名を付けてやった」
「呼び名? どんな名前ですか?」
「小青と呼んだのじゃ。小さい青、と書く。日本語ふうにいえば〈青ちゃん〉じゃな。まるでおなごのような呼び名じゃろう? じゃが、あやつは喜んでおった」
小青という名のどこが女の子みたいなのか、ぼくの知識と感覚ではわからなかった。ただ、小青を思い出すひでり神さまの顔は、とても優しかった。
「今回の水虎は、その小青とは別の水虎だと思いますが、能力や弱点は一緒ですよね」
「それはそうじゃろうなあ」
「どんな能力を持っているんですか?」
「水虎は、水のある場所で霧を出すことができる。その霧のなかでは、虎の姿を取る。大きさは変幻自在。この状態のとき、水虎の側からは敵を攻撃できるが、敵の側は水虎を攻撃できぬ。霧を攻撃するのと同じじゃからなあ。意味がない」
「電撃や火炎も通らないんですか」
「効かなんだなあ。風で霧を吹き飛ばせば、水虎も消えるが、倒せるわけではない。水のある場所に戻るだけじゃ」
「では、水から切り離してしまえば、力を失い、倒すことができますか」
「長く水から離れておると力を失うが、ひゅっと水のなかに戻ってしまう。水虎を水から切り離したままにすることは、まあ無理じゃな」
「弱点はないんですか」
少し時間をおいてから、少し小さな声で答えが返ってきた。
「水のなかにいるときなら、刀や槍で傷つけることができる」
「水のなかにいるとき」
「あやつは、水のなかで力を蓄えるのじゃ。そのときには無防備となる」
「なるほど」
「ただし、水のなかにいるとき、あやつは姿を消すことができる。というより、水とまったく同じ姿になることができる。しかも、丸くなったり、長く伸びたり、体の形を自由自在に変えることができる」
「それでは、みつけることができませんね」
「わしは、みつけることができた。じゃから陛下が攻撃できた」
一番知りたいことは教えてもらった。
ほかに訊いておくべきことがあるだろうか。
ぼくはしばらく考えた。
「水虎の攻撃は、何種類ありますか」
「前足の爪で相手を引き裂く、牙で相手をかみ砕く、頭突きというか体当たりで相手をはじき飛ばす、ぐらいかの。ああ、あと、巨大になって相手を踏みつぶすのも得意であったな」
「離れた相手を攻撃するような能力はないんですね?」
「そうじゃなあ。あるとすれば吠え声で脅すぐらいかの」
「よくわかりました。ありがとうございました」
「鈴太どの」
「はい?」
「わしに遠慮されることはない」
「遠慮、ですか?」
「今現れておる水虎は、確かにかつての同志の末裔にちがいない。じゃが、人に害をなすあやかしを放ってはおけまい。倒せる方法がおありなのじゃろう?」
「えっ? は、はあ」
「ほほほ。あなたは考えていることが、はっきり顔に出る。まだ若いのじゃから無理もないことじゃがな」
水虎は手ごわい相手だとわかった。だが、うちのメンバーとは相性がいい。たぶん、和尚さん抜きで倒すことができる。
ただ、あの少年が水虎だとすれば、伊藤さんを襲った凶暴さは、いったいどこからきたんだろう。
7
「おう。遅かったじゃねえか」
「あ、未完さん。いらっしゃい。今、外出禁止令が出てない?」
「そういうお前は、のこのこ配達になんか行ってんじゃねえよ!」
「ごめん、ごめん」
「妖怪なんだろ?」
「えっ」
「この虎騒ぎだよ」
「虎? 熊じゃなくて?」
「聞いてねえんだな。今朝のこと」
「今朝?」
「おおっ? きゅ、急に怖い顔すんじゃねえよ!」
「あ。ごめん、ごめん」
「い、いや。ちょっとびっくりしただけだ(むしろ、ひきしまった顔で、かっこいいつうか)」
「えっ?」
「な、何でもねえよ。今朝のことだけど、青年団の人たちが熊を探してたら、急に霧が出てよ。虎の鳴き声がして、団員が二人重傷を負ったっていうんだ」
「そう……なんだ」
「鳴き声は、けっこう大勢の人が聞いててよ、虎だっていうんだ。熊の声じゃねえって」
「それは、どこで起きたのか知ってる?」
「土生地区の西のほうだって聞いたな」
ということは、昨日の朝、伊藤さんが襲われたという場所から近い。用水路の上流のほうだ。
「ついさっき、救急車が、おっきなサイレン鳴らして怪我人を連れてったんだけど、聞かなかったのか?」
「う、うん」
ひでり神さまの家は、村全体でいうと南東の端に近い。土生地区の西の端だと、村全体の北東のほうにあたる。しかもひでり神さまの家は、斜面と木立でブラインドになった場所だ。話に夢中になっていたし、聞き逃してしまったんだろう。
「こんにちは。ごめんください!」
「あっ。はーい」
店の入口に、何だか物々しい格好をした若い男性が立っている。みたことのある顔だけど、名前は知らない。ぼくは、サンダルを履いて、入口に向かった。
「村長さんから皆さんに伝達じゃあ。猛獣のため、昨日、今日と怪我人が出た。急遽、警官隊と猟友会が派遣されることになったけえど、猟友会が来るのは明日じゃ。すまんこっちゃが、追って連絡があるまでは、外出をできるだけ控えるよう頼むけん」
「あ、はい。わかりました」
お子さんのいる家庭では、明日は学校を休むよう伝えている、と言って、その人は次の家に向かった。結局名前を訊かなかったな。
「今の男は、田所順一という。土生地区で農業をしておる」
あ、また心の声に答えてくれましたね、天子さん。
「早くお昼ご飯にするのです! 今何時だと思ってるですか!」
童女妖怪が油揚げのお預けをくらってキレてる。
そういえば、和尚さんも天子さんも、ひでり神さまの前に出たときは、神気にあてられたとか言ってたな。
よし。
今度、童女妖怪をひでり神さまに引き合わせてやろう。ひでり神さまが会いたがっていたもんな。うん。
「早く来るです!」
「はいはい」
食事が済むと、天子さんは転輪寺に行った。和尚さんを看病するためだ。
夕方六時半ごろ、村長さんから電話がかかってきた。
県警から派遣された警官隊が捜索したけど、猛獣は発見できなかったという。
そして、明日の朝十一時から猟友会と警官隊が猛獣の発見と退治を行うので、流れ弾に当たらないために、西区域は外出禁止にしたそうだ。
東区域でも何か怪しい物を発見したら、ただちに連絡が欲しい、とあわただしく用件を伝えて、電話は切れた。




