後編
13
沈黙を破ったのは和尚さんだった。
「破邪招来斬空!」
一枚のお札が葛籠から飛び出して、和尚さんの右手に貼り付いた。拳ではなく、手刀の形をしている。
その右手を鉄鼠に振った。
鉄鼠は体をひねってかわした。やはり動物のような動きではない。人間の武道家を思わせる体さばきだ。
和尚さんが放ったみえない斬撃は、鉄鼠の後ろに飛び、黒い土のような物をいっぱいに積んだ猫車を真っ二つに斬り裂いた。
だが、そのとき生まれたわずかな隙が、和尚さんと天子さんの張った罠だったのだ。
すかさず天子さんが両手のひらを鉄鼠にかざした。
あれだ。
内側から出られなくするバリアーだ。
これで閉じ込めてしまえば、あとはサンドバッグと一緒だ。
勝った、と思った。
ところが、鉄鼠は俊敏な動きで横に飛んだ。
緑がかった透明のバリアーは、むなしく虚空を捕まえることになった。
「読まれている。こちらの手の内を知っているんだ」
おもわずつぶやいてしまった。
そういえば、昨日の戦いをみていて、どうも相手が、和尚さんの攻撃を知ってかわしているように思えた。
学習しているんだ。
そして、個体が死んでも、その学習内容は引き継がれるんだ。
とすると、この二日間使った戦法は通用しない。逆手に取られてしまう危険がある。
教えなきゃ、と思ったぼくの肩に、天子さんの左手が置かれた。
振り返ると、その顔は、
「心配するな」
と言ってくれているような気がした。
そうだ。
和尚さんも天子さんも、百戦錬磨の戦士なんだ。
信頼してみまもる以外、ぼくのすることなんてありはしない。
「ギッギッギィ」
ちらと天子さんのほうをみて、鉄鼠がいやな笑い声をあげた。
残念でしたね、とあざ笑っているかのようだ。
天子さんは、表情も変えず、右手の指と左手の指を、ぐねぐねと絡ませた。
鉄鼠の足の周りから何かの根のようなものが何十本も飛び出し、鉄鼠の両足に絡みついた。
バインドだ! 植物系のバインド技だ!
これで動きを止められると思ったのもつかのま、鉄鼠の下半身が黒く変色したかと思うと、いともあっさりバインドを振り切り引きちぎって、鉄鼠は後ろに飛んだ。
「ほう」
天子さんが感心したような声を上げた。
感心してる場合じゃないでしょ?
「鈴太。ここを動くな」
そう言い残して、天子さんは飛び出し、鉄鼠の左側に回り込んだ。
「ギギッ?」
鉄鼠も疑問に感じたようだ。
天子さんは後衛であって、前線に飛び出すようなスキル構成ではない。相手の攻撃の届く所にいれば、和尚さんの足手まといになってしまう。
しかし待てよ。
天子さんにはバリアーがある。
攻撃させてバリアーで防げば、和尚さんが攻撃するための時間が稼げる。
そういう狙いなのかも知れない。
「引きつけてもらえるかの」
「承知。破邪招来鉄掌! 破邪招来鉄掌!」
「破邪招来鉄頭!」
まず、二枚のお札が飛び出して、和尚さんの両手に貼り付いた。
とたんに和尚さんの両手は真っ黒になった。
「ぬん!」
和尚さんは大胆に踏み込むと、両手を広げて鉄鼠につかみかかった。
鉄鼠も両手を広げて迎え撃った。
がちんと音がして、鉄鼠の右手と和尚さんの左手が、鉄鼠の左手と和尚さんの右手が組み合わされた。
鉄鼠のほうが、頭一つぶん高い。上からのしかかるように、和尚さんに体重をかけてゆく。
背中から頭に、頭から口先にかけてのなだらかな曲線が、鉄鼠の強靱さを表しているかのようだ。この世のものならぬ無限の力をもって、鉄鼠は両手をぎりぎり引きしめ、和尚さんを押しつぶしていく。
そして鉄鼠は巨大な牙を剝きだし、和尚さんの頭にかぶりついた。
両手で力比べをしている和尚さんには、その攻撃をかわすことはできない。
がきん、と音がした。
和尚さんの頭には、お札が貼り付いていて、やはり鉄のように真っ黒になっている。けれども鉄鼠の牙は、それを上回る鋭さを持っていて、牙はじりじりと和尚さんの頭に食い込み、血がぼたぼた流れ落ちている。
鉄鼠の頭も両手も、そして上半身も真っ黒だ。
そうか。
鉄鼠の名の由来は、鉄の体躯にある。この鉄鼠は、自分の体の思う場所を鉄にできるんだ。
だとすれば、妙に生白い色をした下半身こそ、今の鉄鼠の弱点なのではないか?
そのとき、ぼくは、鉄鼠の後ろにいる天子さんが、人さし指を立てて右手を振り上げているのに気づいた。
転瞬。
その人さし指の爪は赤く発光し、三メートル、いや五メートルほどに伸びた。その伸びた爪は右上から左下に振り切られ、鉄鼠の右足はふとももで、左足は膝の下で断ち斬られた。
「ギエエエエエエェェェェェィィィィ」
長い悲鳴を上げて鉄鼠は後ろに倒れ込んだ。
すかさず和尚さんの抜き手が心臓に打ち込まれる。
「ギュッ」
短い悲鳴を上げて、鉄鼠は動きをとめた。
14
和尚さんは戦闘態勢を解いて、横たわる鉄鼠の上からのぞきこんだ。
ぼくも近寄った。
天子さんも寄ってきた。
「頼豪どの」
和尚さんの口調からは、敵意のかけらも感じない。むしろ、懐かしい友人に語りかけるような口調だ。
「頼豪どの」
やがて鉄鼠が閉じていた目をうっすらと開いた。
「おおう」
妙に人間がましい口調で鉄鼠が返事した。その声は弱々しい。
みれば鉄鼠の顔が変わっている。
鼠そのものだった顔が、人間のそれに近い顔になっている。とはいえいくぶん鼠らしさも残っていて、不気味といえば不気味、愛嬌があるといえば愛嬌のある顔だちだ。奇妙なことだけど、気品のようなものを感じる。
「おおう。おおう。ここは、いずこ」
「美作にござるよ」
「みまさか?」
「いにしえには吉備国のうちに、いっときは備前国のうちにござった」
「ほう? 貴殿は、たれぞ」
「わしは呪禁法師と申す行者にてそうろう」
「じゅごん? じゅごん。……もしや、星見の里の呪禁どのか?」
「ご存じであられたか」
「むろんじゃ。わが一族は、貴殿のことを忘れたことはない。そうか、ここは星見の里か」
「わしらが住んでよりは〈はふりの里〉となり申した」
「そうであったなあ……」
「頼豪どの」
「なにか」
「なにゆえ貴殿は、妖魔に堕ちられたか」
この直截な問いに、鉄鼠はしばらく沈黙した。
「くやしゅうてなあ……」
「世には、貴殿が敦文親王さまを呪詛なさったと伝える者があるが、わしには信じられぬこと」
「なんぞ、呪詛たてまつることがあろう。ただただわが身は親王殿下の安寧を祈願するのみ」
「では何が心残りであられた」
「それよ。よこしまな者らが、親王殿下の周りの者らに吹き込んだ。この頼豪が呪いの祈祷をなすと。幼き殿下の心にそが讒言が忍び入った」
「なんと」
鉄鼠は、ぼろぼろと涙を流し始めた。
「なんぞわしが殿下のご命脈を縮めまつろうや。わしは殿下を呪詛する者らから、ただ一心に殿下をお守りするのみであった」
「殿下をお慕いなされておられたか」
「まさに。じゃというに、殿下のいまわの際のお言葉は、あなや、あなや、憎し頼豪、そのひと言であられたそうな」
「……むごいことにござるなあ」
「わずか四歳の殿下のお心に、そのような邪念を忍び込ませた者ども、姦物なり」
「まことに、その通りにござる」
「わしは残念で残念でなあ。殿下にそのように思われたことがなあ」
「お察し申し上ぐる」
「殿下を呪殺した者どもは、ことごとく滅した。それでもわしの心が晴れるわけもない」
「まことに、まことに」
「無念の思いでこの世を去ったが、その去り際に枕元にいた一匹の鼠に、わしは心を移したようじゃ」
「ああ。そういうことでござったか。しかし、貴殿の入滅ののち、大鼠となって延暦寺の経典を食い荒らしたと聞き申すが、まことにござろうか」
「そんなこともしたかもしれぬ。あのころのわしは、狂っておった」
そこまで黙って聞いていたぼくは、思わず口を挟んでしまった。
「頼豪さま」
「たれか」
「〈はふり〉の者の末裔にござるよ」
「おお、名は何と申される」
「鈴太、と申す。鈴の太き音の意にござる」
「りんた、か。よき名じゃ。して、何ぞ?」
「どうして成仏されませんか」
「できぬのじゃ。心残りが果たせぬでなあ」
「敦文親王さまも、今はこの世を去って、あの世におられます」
「ああ、ああ、いかにも。身まかられた。もうお会いできぬ」
「あなたも成仏すれば、お会いになることができるのではないですか?」
「なんと」
「肉体を失った霊魂同士で、真実を語りかければ、それは敦文親王さまに確かに伝わるのではないでしょうか」
「伝わる。わがまことが伝わると申すか」
「はい。隠しようもないはだかの魂同士なら、きっと真実を伝えられるはずです」
「……わしは怖かった。成仏して親王殿下にお会いするのが怖かった」
「だまされたまま永劫の時を過ごすのは、お気の毒です。祈られていたことを、守られていたことを、心の底から大切になさっていたことを、お伝えしてはどうでしょうか」
「お伝えする。わがまことをお伝えする」
「はい」
「……それができれば、わが怨念も消え果てようぞ」
「きっとそうできます」
「さようか」
「安らかに逝かれますように」
ちりーん。
どこかで鈴の音が響いた。
もう頼豪からの返事はなかった。
言葉をかわすうちに、徐々に声は小さくなり、目は光を失っていた。
最後の最後に口が動いたが、ありがとうと言っているように、ぼくには思えた。
「冴子さん」
和尚さんの声がして、ぼくはわれに返った。
いつのまにか田上家の人々が集まって、巨大な怪物の死体を取り巻いている。
「は、はい、和尚さん」
「ご主人は、書斎の押入に押し込められておるはずじゃ。助けてあげなさい」
「は、はいっ」
冴子さんは、蔵治さんと蔵造さんを連れて家のなかに駆け込んだ。
その姿をみおくってから、もう一度下をみると、巨大な死骸はどこにもなく、たださらさらと崩れてゆくわずかばかりの砂が、そこにあやかしが存在していた名残を告げていた。
15
転輪寺に帰り着くと、和尚はいきなり寝室に入り、衣装を脱ぎ捨てて布団の上にあぐらをかいた。額にはまだ血の痕がこびりついているが、流血はとまっている。
「鈴太。すまんが酒とどんぶりを取ってくれ」
「はい」
台所に入って、お酒のケースをみると、一本だけ中身の残っている瓶があった。それを抜き取って、戸棚からどんぶりを取り出した。和尚さんの所にもどって、栓を開けると、どんぶりを和尚さんに渡して、一升瓶の中身をそそいだ。
とくとく、とくとくという音が心地よい。
ぼくはまだお酒は飲まないけれど、この音は好きだ。
二合五勺ほども入ったそのどんぶりを口に運び、和尚さんはぐびぐびと中身を飲んだ。
ぶはあっと息をつきながら口からどんぶりを離したときには、もうわずかなお酒しか残っていなかった。
「頼豪どのの父君は、藤原有家とおっしゃるおかたでなあ。このかたのご先祖は、〈はふり〉の者の本家とは、いろいろと関係がおありだったのじゃ」
「そうなんですか」
「そういう関係から、頼豪どのも、この里のことを聞いておられたのじゃろうなあ」
「最初に出た二体の頼豪鼠は、何だったんでしょう」
「ああ、あれか。今にして思えば、頼豪どのが鼠に妖気を分け与えて眷属にしたのであろうな。じゃから、死んだあと妖気は頼豪どののもとに戻ったのじゃ」
「ということは、蔵市さんに最初に会ったとき、すでに蔵市さんは偽物だったんですか?」
「いや、そうではない。本体は書斎かどこかにおったのじゃろうな。ただたぶん、妖気の大部分を眷属のほうに渡しておったんではないかのう」
「そうかもしれぬ。じゃがそれにしても、わらわも家のなかにあやかしがおるとは気づかなんだ。気配を隠すわざを持っておったやもしれぬな」
「待てよ。そういえば、田上の先祖は近江のほうから来たんではなかったかのう」
これはあとで聞いた話だけれど、事件からしばらくして、田上一家がお寺を訪ねてきて、手厚くお礼をされたそうだ。そのときいろいろ話をしたなかに、田上の家のご先祖は、三井寺で役僧をしていて、あるとき頼豪の命で、一家でこの里に移住したという伝えがあるということだった。そのまま三井寺にいては命の危ないような何かがあったらしい、と蔵市さんは話していたという。
それを聞いた和尚さんは、もしかしたら田上の一族は頼豪どのと血がつながっておるのかもしれんなあ、と言っていた。確かにそう考えれば、田上家に本家本元の鉄鼠が出たことがうなずける。
「それにしても鈴太よ」
「はい?」
「相変わらず、お前はむちゃくちゃをするのう」
「すいません」
「ほめておるのじゃ。もしかすると、これで鉄鼠は、永遠に消滅したかもしれん」
「ええっ?」
「そうだとすれば、歴史的快挙じゃな」
「わらわもそう思う。たぶん鉄鼠は、今日で役目を終えたのじゃ」
「そ、そうかな」
「少なくとも、先ほど頼豪どのが消えたとき、妖気が残ったとは感じなんだ」
「わらわもじゃ。たぶん鉄鼠は完全に成仏し、妖気は残らなんだ」
「ま、本当にこれで終わりかどうかは、ずっと待ってみんことにはわからん」
「ずっとって、どのくらいずっとですか?」
「まあ、百年や二百年は待ってみんと、答えは出せんじゃろう」
「待ちきれません」
「はっはっはっはっ。あやかしというものは、そういうものじゃ。いつのまにか生まれ、この世と、この世ならざる所を行き来して、現れては消え、現れては消え、いつか永遠に消え去ってしまう」
「そういうものなんですか」
「そういうものじゃ」
そう小さい声で返事すると、ばたんと倒れて和尚さんは高いびきをかきはじめた。
ぼくはお酒を片づけ、どんぶりや、そのほかのよごれた食器を洗った。天子さんは、和尚さんに布団をかけてあげて、頭の傷を手当てしていた。
二人は一緒に転輪寺を出た。
頼豪さんは、無事に敦文親王に会えただろうか。
会って本当のことを伝えられたろうか。
そうだったらいいな、と思った。
「第8話 鉄鼠」完/次回「第9話 水虎」




