中編3
10
今日の食事当番はぼくだ。気を遣って、味噌汁には大切りの油揚げを入れ、おかずに油揚げのだし煮と、大根葉と油揚げの細切れのごま油炒めも付けた。案の定、童女妖怪はご機嫌が天元突破だ。
「さあさあっ。〈探妖〉するのです。条件はいつも通りなのです?」
「ちょっと待てがきんちょ。ここで〈探妖〉をやってしまったら、田上家で使えないんじゃないか?」
「べつに〈探妖〉を使わなくても、普通に妖怪を探知分析するのなら、通常の能力でできるのです。プロレスラーなら切れ目を入れておかなくても新宿区の電話帳を引き裂けるようなものなのです」
「例えの意味がわからん」
「じゃれ合いは、そこらでよかろう。〈探妖〉を頼む」
「はいです」
それからいつもの儀式が行われ、童女妖怪は〈探妖〉をした。
「昨日と同じ地点に鉄鼠がいるです。空になった溜石の数は五つで変わらずです」
「よし。お守りに移れ。鈴太、行くぞ」
「はいです」
「うん」
転輪寺に着いたが、和尚さんが出てこない。
天子さんは、ずかずかと奧に入っていく。
ぼくもそのあとに続いた。
ちなみに、童女妖怪の入ったお守りは、長い紐を付けて、ぼくの首にぶらさがっている。
「法師どの、入るぞ」
声をかけながら天子さんは障子を開けた。
そこは寝室だった。
酒臭い。
寝散らかした布団の上には巨大なじゅごん、ならぬ呪禁和尚さんが横たわり、ぐうぐうすぴすぴ、ぐうぐうすぴすぴと、豪快ないびきをかいている。
枕元には空の一升瓶が転がっており、部屋のすみにはお酒のケースが置いてある。
「起きよ、法師どの。起きよ」
何度か天子さんが声をかけると、和尚は大あくびをして起き上がった。
「おお。もう朝か」
「疲れておるところすまんが、田上家にまたも鉄鼠が出た」
「やはり、また出おったか。行かねばならんのう」
「うむ。ただし今日は、長壁が同行してくれる」
「ほう」
「ご一緒させていただきますです」
童女妖怪が、畳に正座して手を突き頭をたれた状態で出現した。
「あの奇妙な妖気の正体を、長壁なら分析できるかもしれぬとのことじゃ」
「それは心強いのう。はっはっはっはっ」
豪快に笑う和尚さんの右目の上は、紫色に腫れ上がっている。
昨日みたときは、かすり傷だとしか思えなかったが、悪いばい菌でも付いていたんだろうか。
こうして薄着の和尚さんをみると、体中至る所に傷痕がある。
千二百年という、想像するのも難しい長い年月、あやかしと戦い続けてきたのだ。いつだったか天子さんは、満身創痍と言っていたけど、本当にそうなんだ。
あちこちの傷痕をみながら、ぼくは胸が熱くなるのを覚えた。
11
そしてここは、田上家の応接間だ。
長男の妻と、次男夫妻、三男夫妻の五人が集合している。
「はっはっはっはっはっ。いやいや、そう心配そうな顔をせんでもええ。昨日一昨日と、あんなことがあったからのう。その後どうなっとるかと思うて来たまでのことじゃ。それで冴子さん。変わったことはなかったかのう」
「はい。そりゃもう、このお札のおかげで、何もなしに過ごさせてもろうちょります」
ほかの四人も、異口同音に平穏無事な一日だったと和尚さんに答えた。
「そうか、そうか。そりゃあよかった。ところで、蔵市はどうしたんじゃ?」
「へえ。すぐに行く言うちょりましたんですけえどな。どげんしたんじゃろ」
田上家の五人と、ぼくたち三人。八人が座っている応接間のなかで、ちょこちょこ歩き回っている童女妖怪が、和尚さんたちの会話がとぎれたタイミングで報告した。
「この五人には、妖怪は取り憑いていませんです。でも、臭い妖気がします。たぶんこれは、マーキングなのです」
もちろんこの声は、ぼくたち三人にしか聞こえない。最初突然童女妖怪が応接間に出現したときには、ぎょっとしたけど、田上家の人たちは、誰も反応しなかった。つまり、みえないんだ。
そのあと、ぼくが反撃できないのをいいことに、童女妖怪は、正座しているぼくのひざを、げしげしと蹴ってきた。
覚えてろよ。明日は一日、ノー油揚げメニューだ。
「わからないのですか、へなちょこ。マーキングというのは、これは仲間だから襲うな、という印を付けることなのです。たぶん、妖気のこもったおしっこをひっかけてるです」
ぼくは二度ほどうなずいた。
「こっち側の二つぐらい奧の部屋に、強い妖気を感じるです。鉄鼠にまちがいないのです」
そこまで聞いて、和尚さんは立ち上がった。
「冴子さん。蔵市さんは、書斎におるんじゃったな」
「へ、へえ」
「こちらから行こう」
返事も待たずに和尚さんは歩き出した。
「ここじゃの?」
「へえ。その部屋におりました。あんた! あんた! 和尚さんがわざわざ来てくださったんよ」
部屋のドアをみつめる和尚さんの目は厳しい。
天子さんの目も厳しい。
なかからあふれる何かの気配を感じ取っているんだろう。
童女妖怪は、ぼくの足元でシャドーボクシングをしている。
お前戦闘力ないんだから、お札に帰っておけよ。危ないだろ。
「蔵市さん。開けるぞ」
和尚がドアを開いた。
洋間だ。
庭に面して大きな窓があり、窓の前に大きな机がある。
その机の前に大きな椅子があり、誰かが座っている。
顔はみえない。その人物は窓のほうに椅子を向けているからだ。中庭をながめているのだろうか。窓から入る光のために逆光になっているが、相当に大きな体格だ。
(これは蔵市さんじゃない)
「オショウカ」
和尚か、というその言葉の意味が、すぐにはわからなかった。あまりにも非人間的な声音だったからだ。
錆び付いた鉄同士をこすり合わせるような、気味の悪い声音だ。だが、人間の言葉をしゃべっているということは、人間としての意識や知恵を持っているということなんだろうか。
あ、そうとはかぎらないか。なぜなら、天子さんや和尚さんは純粋な妖怪だけど、人の言葉を理解する。でも、もしも妖怪であって人語を操るのだとしたら、それは下級種ではないということではないだろうか。
ぎっぎっぎっと、きしむ音を立てながら、椅子が回転した。
そこに座っているものをみて、冴子さんが絶叫した。
「ぎゃああああああああっっっ」
それは無理もないことだ。夫だと思って声をかけたものは、みるもおぞましい異形だったのだから。
怪異。
それはまさに、怪異が姿を取って現れた存在だった。
顔は鼠そのものだ。それに続く首も体も、巨大な鼠といっていい。
作務衣を着ている。だが、胸と腹の大きさのため、左右の紐を結び合わせることができず、両肩の下にだらしなく裾がぶらさがっている。
その腹はぬめぬめとした光沢を持つ巨大な水袋のようだ。大きな椅子からはみ出しかけている。
かろうじて椅子の取っ手に両手を乗せているが、その手は人間の手のような形をしている。ただし体の大きさから比べると、異常に手の大きさは小さい。そのアンバランスさが、ひどく不吉で気味悪い。
太ももも大きくふくらんでいるが、膝のあたりから下は、獣じみた体が急に人間じみた体になっていて、その獣と人間の交じり合うさまは、吐き気がするほど不快だ。
冴子さんの悲鳴を聞きつけた田上家の人々が、駆け付ける物音がする。
「近づくでない! 危険じゃ! 冴子を連れて、みんな避難せよ!」
和尚さんの命令は明快で、その声はよく響く。
その明快さが、みんなを動かした。田上家の人々は、冴子さんを連れて書斎から離れてゆく。
逆光になったそのシルエットのなかで、両の目が怪しい光を帯びた。
爛々と輝きを増すその赤い光が、怪物の戦闘意欲の高まりを示しているように、ぼくには思われた。
「長壁。このあやかしは、人間か。それとも、ただのあやかしか」
ぼくは、はっとした。ただのあやかしなら殺していいけど、もしも蔵市さんがあやかしに取り憑かれているんだとしたら、殺すわけにはいかない。
「あやかしです! 人間と霊糸でつながってるです。その人間は、そこの奧の押入のなかなのです」
「よし!」
和尚さんのその言葉が合図であるかのように、あやかしの目は急に強い光を発し、そしていきなり飛びかかってきた。
「グアアアアアァァァァァッッッ」
(しまった。お札を持って来てない!)
和尚さんは飛びかかってくる巨大な陰に、何かを投げつけた。
その何かは四つか五つに分裂して怪物に当たり、それぞれ爆発した。
護摩木だ!
山口さんのときに使った護摩木と同じ物だ。
けれど怪物はまったくひるむことなく和尚さんに飛びかかった。
和尚さんは、ひらりと体をかわして怪物を避けた。
ぼくは真正面から怪物と向き合うはめになった。
唖然として動くこともできないぼくの膝の後ろを何かがたたいた。
ぼくは体勢を崩し、のけぞりながら後ろに倒れた。
怪物は、ドアを開けたその片側の壁にぶつかりながら、ぼくの上を飛び越えて、廊下の窓をぶち破って庭に出て行った。
窓の破片が落ちてくる。ぼくは目をきつく閉じた。
「葛籠を持って来い!」
和尚さんの声がしたかと思うと、ぼくの体の上を何か巨大なものが通過していった。
ぼくは飛び起きると、ハンカチを出して顔を拭き、玄関に向かってダッシュした。
飛び起きたとき、足元にうずくまって心配そうにぼくをみつめる童女妖怪が目に入った。
(さっきは、こいつが膝の裏に体当たりしてくれたんだな)
明日のメニューは油揚げオンパレードにしてやろうと決心しつつ、自転車目指して走った。
玄関から駆け出したとき、すぐ右側で戦闘が行われていてびっくりした。
ちらとしかみえなかったけど、和尚さんはお札を空中にばらまいて、呪文を唱えては必要なお札を引き寄せて攻撃していた。
(そりゃそうだ。懐にお札の十枚や二十枚は入れてるよな)
だけどたぶん、携帯しているお札は数も枚数も多くないはずだ。
早く葛籠を持って行かないと、和尚さんの戦いの幅が狭まってしまう。
門納屋の脇に置いた自転車にたどり着くと、ゴム紐をほどくのももどかしく、ぼくは葛籠を運んだ。
葛籠を抱えて振り返ったぼくがみたものは、信じられない光景だった。
12
巨大な松の木が空を飛んでいる。
枝も葉もついた立派な松の木だ。それが根元から折れていて、ぐるぐる宙を飛んで、ぶんぶん音を立てながら和尚さんに襲いかかっている。
松の木を飛ばしているのは鉄鼠だ。鉄鼠は右手を宙に向けて伸ばしていて、その手の動きに従うように、松の木は飛んでいる。
和尚さんは、ひょいひょいと身軽に松の木をかわしているけど、攻撃することができないみたいだ。
鉄鼠はぼくに背を向けている。
大きい。
本当に大きい。
昨日の鉄鼠とも、一昨日の鉄鼠とも、まるで比較にならない大きさだ。よっぽどたくさん餌を食べたんだろうか。
葛籠を届けるために、ぼくが走りだした瞬間、鉄鼠が振り返って、ぼくの手元をみた。
(まずい!)
巨大な鼠の怪物は、ぼくめがけて飛びかかってきた。
「破邪招来飛電!」
怪物の足元に雷が落ちた。
一瞬、怪物がひるんだ隙に、ぼくはその横を走り抜けた。
「ようやった!」
滑り込んだぼくを、天子さんがねぎらってくれる。ぼくは急いで葛籠の蓋を開けた。それを待ちかねたかのように、和尚さんの呪文が響き渡った。
「破邪招来爆炎!」
「破邪招来爆炎!」
「破邪招来爆炎!」
三枚のお札が葛籠から飛び出た。それを拳に巻き付けた和尚さんは、右、左、右の順番で拳を虚空に突き出した。
その途端、拳から火の玉が飛び出して、屋根の上を飛行していた松の木に命中した。
どかん、どかん、どかんと、続けざまに轟音が鳴り響き、松の木は破裂し燃えて粉々になった。
「ギギイッ」
強大な鉄鼠が今度は右手で庭石を指さした。
一メートル以上の横幅がある庭石が、ぶわりと浮き上がった。
鼠が右手でぼくと天子さんを指し示した。
こちらに飛んでくる!
だけど庭石は、すさまじい音を立てて空中ではね返された。
みれば天子さんが右手のひらを前に向けている。バリアーだ。
その隙に、和尚さんが鉄鼠に飛びかかった。
「破邪招来雷電!」
「破邪招来雷電!」
両手に雷撃のお札を貼り付けた和尚さんの拳が、化け物の顔を両側から襲う。
だけど化け物は、ぴょんと後ろに飛び下がって攻撃をかわした。
和尚さんは、さらに踏み込んで攻撃しようとしたけれど、鼠は素早く右に回り込んで和尚さんから距離を取った。
和尚さんの両手の拳に貼り付いたお札は、焼け焦げたようになって舞い落ちた。
発動してから一定時間がたつと、お札は効果を失って消滅してしまうみたいだ。
和尚さんは、動きをとめて、鉄鼠のほうをじっとみている。
鉄鼠も、落ち着き払って和尚さんを観察している。
和尚さんもあんこ型の魁偉な体形をしているけれど、鉄鼠はそれより一回り大きい。すさまじい存在感だ。そしてその戦い方も、ただの獣のようではない。まるで知恵ある歴戦の戦士のようだ。
ちがう。
ちがう。
これは、今まで二日間みてきた鉄鼠とはちがう。
これは、まさか。
まさか。
本家本元の頼豪じゃないのか?
「本物の、鉄鼠?」
思わずつぶやいたぼくに、天子さんが答えてくれた。
「どうもそのようじゃのう」
「ど、どうしよう」
「どうもこうも、戦うまでじゃ。もうしゃべるな」
「うん」
会話に気を取られて援護が遅れたら本末転倒だ。
もはやぼくにできることはない。
黙って戦いをみまもることにした。




