中編1
5
出がけは天子さんと一緒に徒歩だったので、転輪寺から乾物屋への帰りも徒歩だ。
あんな重い葛籠を運ぶんなら、自転車で行ったほうがよかった。
さて、もうすぐ家に着く。
天子さんが食事を準備してくれていると思うと、ついうきうきしてしまい、足取りが早くなる。
これはもうほとんど新婚状態といっていいんじゃないだろうか。
家に帰るぼく。
食事を作って待ってくれている天子さん。
「あら、お帰りなさい」
「うん。ただいま」
「お食事にする? お風呂にする? それとも……」
というような脳内妄想を展開しながら歩いているうちに、家のすぐ近くまで来てしまった。
「あれ?」
ない。
何がないかというと、〈こなきじじい〉がない。〈子無き地蔵〉といったほうがいいだろうか。
ここの道端に、〈こなきじじい〉はあったはずなのに。
そういえば、ここ数日みかけていないような気もしてきた。
いったいどこに、と草むらを押し分けてみたら、あった。
ほんの五メートルほど奧に移動して寝かせただけなんだけど、草に隠されてみえなかった。秀さんが取り付けた赤い腹掛けもそのままだ。
「誰がこんなことしたんだろう?」
不思議に思いながら、そう重くはないその石像もどきを道端に運んで立てた。
(そういえば、この石像は、もともと草むらに隠れていたんだ)
(それを野枝さんがみつけて、道端に運んだんだった)
ということは、草むらのなかに倒れていたというのは、もとの状態に戻ったということなのかもしれない。
(もしかして、最初にここにこの溜石を置いた人が、戻したのかもしれない)
この石像もどきは、石像もどきなんかではなく、〈溜石〉という妖気がたまる特殊な石で、自然にできるものではないという。誰かが作り出して、誰かが村のなかに運び込んだんだ。だから、その誰かが、もう一度溜石を人目につかない場所に戻したのかもしれない。そう思った。
でも、次の瞬間には、その思いつきを笑った。
この溜石には、もう妖気は残っていない。だから、この里を攻撃している誰かにとっては用済みだ。わざわざ人目から隠す意味がない。
でも誰かが動かした。それは確かだ。
「何のために?」
6
「おう、鈴太! おかえり」
「こんにちは、未完さん。来てたんだね」
「よせよ。あたしが呼び捨てにしてるのに、あんたがさん付けじゃ、世間が変に思うだろ」
「いや、別に。どうでもいいし」
「とにかく、さんはいらないぜ」
「わかったよ、未完さん」
「わかってねえじゃねえか!」
「よしよし。そこまでにせよ。今日は冷やしうどんじゃ。すぐに食べられるぞ」
「うれしいなあ。冷やしうどん大好きなんだ」
「あたしもだぜ。気が合うなあ」
「あちしも、冷やしうどんに載せる油揚げが大好きなのです」
「うおっ。いつもながら突然だな。こんちは、おさかべ」
「こんにちはなのです」
突然現れるのも当然で、このゴージャスな和服を着た髪の長い童女は、妖怪なのだ。それも六百年以上生きている、かなり格の高い妖怪らしい。しかも、あとで調べて知ったんだけど、有名な妖怪だ。
たぶん姫路に住んでる人々は、長壁姫が今でも姫路城にいると思ってるはずだ。まさか姫路城大改修のために姫路城にいられなくなって、岡山県の山奥に引っ越しているとは、夢にも思わないだろう。バレたら、返還運動とか起こりそうだな。それぐらい地元では愛されている妖怪みたいだ。
「おさかべ」
ぼくは、うどんをふた口ほど食べてから話しかけた。
「お、珍しく名前で呼んだですね。何用ですか、下郎。あ、痛い。頭をげんこつでぐりぐりするの、やめてください」
「お前、姫路城に戻らなくていいのか?」
「戻る意味がないです」
「どうして?」
「姫路城にはもう城主はいないです。あちしが加護を与えるべき人間もいないです」
「まあ、そういえばそうだけどさ」
管理人さんとかは住んでるんじゃないだろうか。それに、姫路城の近くにはいっぱい人が住んでるんだから、誰に加護をあげてもいい。
しかしまあ、こんなことは本人が決めることだ。童女妖怪自身が帰る気がないというなら、ぼくがどうこう言うべきものでもない。
「確かに、ハトヤのかまぼこは、おいしかったのです」
何の話だ、何の。
「特にハトミンは、ちょこっとウスターソースをたらして食べると、それはもう最高の美味なのです。安いですし」
「あれはうめえよなあ」
「でも、油揚げがないのです」
そこかよ。
「どちらかというと、京都に興味があるです」
「おおっ。そうかい? 京都はいいぜえ」
「はいです。聞くところによれば、京都は豆腐の本場とか。ならば油揚げの本場でもあるはずなのです!」
それはちょっとちがうような気がする。
「ところで、へなちょこは、次の春から京都に住むのです?」
「えっ? なに? いつのまにそんな話が?」
ぼくがあわてていると、未完さんが、わが意を得たりとばかりに食いついてきた。
「そうだよっ。鈴太、あんた京大に来いよ。成績いいんだろ? 先輩として、京都のこと、いろいろ教えてやんぜ」
君が吹き込んだのか。
「いろんなお豆腐屋さんに連れて行くです」
「豆腐屋は知らねえけど、調べとくぜ」
「未完は頼りになるのです。へなちょこには過ぎた彼女なのです」
「か、彼女なんて。まだ、あたしは、……なあ?」
そこで振られても困ります。
というか、今の話題はちょっと危険だけど、この食卓の雰囲気は、けっこう好きだ。
ずっとアパートでは一人だったから、食事は一人で食べることが多かった。こんなふうに大勢でわきあいあいと食べる食事は、本当においしい。
確かに、今ぼくは幸せだ。運命のすえにこの幸せにたどり着いたんだとしたら、よいことも悪いことも含めて、そんなに悪い運命じゃなかったんだと思う。
天子さんも、にこにこしている。
きっと天子さんも、こんなふうな団らんの食事が楽しいんだ。
天子さんが、ぼそっとつぶやいた。
「ハーレムじゃな」
吹いた。
ぼくが吹いたうどんが童女妖怪の頭に着地し、端っこがぷらんと垂れて、目と目のあいだでふらふらと揺れた。
「その、飲んでる物や食べてる物をおなごに吹き付けるのは、何かの技なのかえ?」
ぼくは盛んにむせているので、この質問には答えられない。
「どうせなら、油揚げのほうをぶつけてほしかったのです」
油揚げだったら、どうするんだ?
食べるのか?
食べるんだろうな。
7
未完さんが帰り、童女妖怪がお社に引き上げたあと、ぼくと天子さんは、まったりお茶を飲んでいた。
「そういえば天子さん」
「うん? 何じゃな」
「山口さんがちょっと何かするとすごく厳しい反応をしたのに、未完さんにはそんなことないね。どうしてなのかな」
「ううむ。未完は赤ん坊のころから知っておるからのう。成長ぶりをほほえましくみまもっておるのじゃ。ただし、踏み越えたまねをすることは許さん」
「あ、そうなんだ」
しばらく沈黙が流れた。
「おぬし、鈍感じゃな」
「えっ?」
何が鈍感か聞こうとしたけど、そのとき来客があった。
照さんだ。
ちょうどよかった。照さんには聞きたいことがあったんだ。
ぼくは照さんにお茶を出し、いろいろとだべりながら、さりげなく話題を振った。
「そういえば照さん、いつもおいしい川海老の佃煮をありがとう」
「おお、ありゃえ、海老がええけえな。おいしかろうが」
「うん。おいしい。あの海老は照さんが天逆川で捕ってくるんだよね」
「そうじゃ。今朝も行ったんじゃけえどのう。小せえのが少ししか捕れんかったけん、おすそわけはねえぞ」
「そりゃ残念だったなあ。朝早く行くの?」
「おお。早え時間のほうがあっさりして、えぐみがねえんじゃ」
「早い時間だと危なくない? 川岸が切り立ってるから、暗いでしょ?」
「そりゃ暗えわあ。けどのう。長年通っとるけえ、どこに何があるか全部知っちょるけん」
「そりゃすごいなあ。あ、そういえば、あそこにある石、河原にあるような石だけど、ああいう石が、天逆川にはごろごろしてるんじゃないの?」
ぼくは、開け放しになった店の入口からみえる〈こなきじじい〉の石を指し示しながら、照さんに尋ねた。
「……おめえ。誰に聞いたんなら」
「え?」
「耀蔵か。ほかには知っとるもん、おらんからのう」
「耀蔵さんて、鳥居、じゃなくて佐々耀蔵さん?」
「そうじゃ。〈幸福石〉のことは、人に知られたらおえんと、きつう言うてあったのにのう」
「〈幸福石〉?」
「おめえも誰にも言うたらおえんぞ。こっそり運んで来て、誰にも知られんように置いとけば、近くの人に幸福をもたらすちゅう、ありがてえ石じゃ」
「それで、あんなに村中にばらまいてあるんだね」
「そうじゃ。そんなことまで知っとるんか。まったくもう、あの耀蔵のガキは」
「耀蔵さんが石を運んでたんだ」
「わしにゃあ持てん」
「そりゃそうだよね。じゃあ、照さんが耀蔵さんに頼んで、石を運んでもらってたんだ」
「そうじゃ」
「どうして耀蔵さんは、照さんの頼みを聞いて、あんなに何個も、十二個かな、石を天逆川から運んだんだろう」
「そりゃ、おめえ。頼みかたがあろうが」
「どんなふうに頼むの?」
「そうじゃのう。まず、こう言うんじゃ。おめえが十四のときじゃったかのう、はじめてわしん所に夜ばいかけてきよったんは」
「うわあ」
「だいたいはそれで、こころように言うことを聞いてくれるけどの」
「そりゃ、そうだよね」
「渋るようなら、こう言うんじゃ。付け文は、どこにしもうたかのう」
「ぐはあ。とどめだね」
照さんはそのあとも、石のことは秘密にしてくれと、くどくどと言いつけて、店を去った。結局何も買わずに。
「鈴太」
「あ、天子さん。どうして後ろに引っ込んでたの?」
「今日は顔をみせぬほうがよいという、狐の勘じゃ」
「へえ?」
「じゃが、話の内容は聞いておった。あれは溜石のことじゃな」
「うん」
「なぜ照があやしいと思うたのじゃ」
「候補の一人にすぎなかったんだけどね。だけど、ぼくの知ってるうちでは、もっとも天逆川に通ってる人だからね」
「溜石が天逆川から運ばれておるというのは、どうしてわかったのじゃ」
「え? だってぼくたちの敵は天逆毎とかいう妖怪で、それは天逆川に棲んでるんでしょ? そして溜石はどこの誰にでも作れるものじゃないというし、やっぱり天逆毎が作ったと考えるのが自然だ。そして溜石は、いかにも河原にあるような石だよ。ここまで条件がそろえば、天逆川から溜石がやって来たと考えないほうがおかしいよ」
「うむ。言われてみれば、その通りじゃ」
「今日の天子さんは、ちょっと頭の働きがにぶいの?」
「これ。はは。いつかの仕返しじゃな。しかしどうも、あまりにも長いあいだ変化というものが起きなんだから、考えを広げていくのに慣れておらんようじゃ」
「ただ、もしも照さんが妖怪に何かの暗示をかけられていたとしても、あの石を照さんが運んだとはちょっと思えなかったんで、ちがう人かなとも思ってた」
「なるほどのう」
「まあ、とにかく一番最初に確認したい人だったんだけど、最初に当たりを引いちゃったみたいだ。あ」
会いたいと思ってた人が、向こうから来た。
耀蔵さんだ。
道端に立ち止まって、じっと〈こなきじじい〉の石像をみている。
周りをきょろきょろみわたして、ぼくの視線に気づいたようで、こちらに歩いてきた。
「よう。大師堂」
「こんにちは、耀蔵さん」
「暑いな」
「暑いですね」
「未完のやつは、よく来てんのかい?」
「今日も来て、昼ご飯を食べて帰りましたよ」
「なんだ? 昼に来てんのか? 夜に行けと言っといたのによ」
あんた、姪っ子に何を教えてるんですか。
「耀蔵さんが十四歳のときみたいにですか?」
ぎょっとした顔を、耀蔵さんはした。
「お、おめえ、まさか……」
「照さんの所に」
「うわあっ! やめろっ。やめろぅっ! そのことにふれるんじゃねえっ」
あれ。ものすごい反応だ。
誰にも知られたくない青春の一ページなのかと思ったけど、もしかしたら、何かトラウマになるような出来事だったのかな?
夜ばいに行って、いったい何があったんだろう。
「照だな? 照から聞いたんだな。あのくそばばあっ」
「照さんに頼まれて、河原の石を運んだんですね?」
「えっ? ああ、そうだよっ」
「何個運びました?」
「十二個だ」
ふむ。こちらの情報と一致するな。ということは、見落としはないと考えていい。
「運ぶ場所は、照さんに指示されたんですか?」
「いいや。照ばばあの指示は、村んなかにまんべんなくばらまけということと、人の目につかない場所に隠せということだ」
「ああ。人に知られると効果がなくなるからですね」
「効果? 何の効果でい」
「あ、それは聞いてないんですね」
「聞いてねえ。教えろ、大師堂。あれはどんな呪いがかかってるんでえ」
この質問に、ぼくはアルカイックなスマイルで答えた。
「なんだ、その笑いは。気持悪りい」
「世の中には知らないほうがいいこともあるということですよ」
「何なんだよ、それは! 教えろ」
ぼくは笑顔を返した。
「頼む、教えてくれっ!」
「一つだけお教えします。照さんは、悪い人にだまされてるんです」
「何だってえ!」
「でも、照さんにそのことを教えると、悪い人に感づかれてしまいます」
「お、おう」
「だから照さんには、だまされていることを言わないで、持ち込まれた石のほうに注意すればいいんです」
「誰が石に注意するんでえ」
「ぼくと、天子さんと、和尚さんです」
「おおっ! 和尚もからんだ話なのかい」
「ええ。幸いに、悪いことが起きる前に気づきましたので、今のところ誰にも不幸なことは起きていません」
「そりゃあ、よかった」
「だから、今度石を運ぶよう頼まれたら、その通りにしておいて、そのことをこっそりぼくに教えてもらえませんか」
「わ、わかった。約束する。それにしても、あの性悪ばばあ、誰かにうまいことだまされてやがったとは。けけっ」
なんかうれしそうだ。やっぱり甘酸っぱい初恋の記憶とはちがうみたいだな。
「おい、大師堂。あれにはどんな呪いがかかってるんだ。照をだましてるっていうあっぱれなやつは、どこのどいつなんでえ」
ぼくは謎めいた笑顔を返すだけで、もうそれ以上言葉は発さなかった。
最後には耀蔵さんもあきらめて、気になるそぶりをみせながら、帰っていった。
〈こなきじじい〉の石像は、きちんと草むらのなかに隠していった。
義理堅い人だ。