後編(地図あり)
16
「ばっはっはっはっはっ。そうじゃったのか。これは驚いたわい。愉快じゃ。まことに愉快じゃ!」
「面白がっておる場合ではあるまい。法師どの。一つまちがえばどうなっておったことか」
「四つ目の溜石の妖気は、さてどこに潜んで何をしでかすものやらと、毎日やきもきしておったものを、東京で伯母夫婦を懲らしめ、最後には善き金霊となって鈴太を祝福し、〈はふり〉の家の社に鎮まったというのじゃからなあ。ばっはっはっ」
「あの社に入るとは、ずうずうしいやつじゃ。金霊のくせに」
「ぶっくっくっ。それはまあ、長年にわたり、さまざまな神霊を勧請してきた社じゃからのう。いわば貴賓むけの客室のようなもの。さぞ居心地よかろうて」
「あの。和尚さん。天子さん。話がみえないんですけど。四つめの溜石の妖気がどうしたんですか?」
「鈴太よ。お前が達成と東京に出かけたのが、七月の三十一日じゃった」
「はい」
「お前が出かけたあと、わしらは長壁姫の〈探妖〉により、四個目の溜石から妖気が抜けたこと、それなのに結界のなかに妖怪がみあたらぬことを知った」
「はい」
「それもそのはず。妖気は三十日の夜にお前に取り憑いておったのじゃ。そして三十一日の朝早く、お前と一緒に東京に行った」
「えっ」
「結界のなかにはおらんのじゃから、いくら探してもみつかるわけがない」
「でも、ぼくはその日のうちに帰ってきましたよ」
「お前がマンションの前で消化しきれぬ思いを抱えておったとき、あるいはその前からかもしれんが、保険金と見舞金をめぐるお前の執着により、妖気は金霊となって形を結んだ。しかして、その憎しみの対象である伯母に、金霊は取り憑いた」
「あ」
「金霊には、表の姿と裏の姿があってのう。表の姿では、無欲な善人に金運を与えるが、裏の姿では、強欲な人間から金運を奪い罰する」
「そうだったんですね」
「伯母とやらは、相当に金に執着があったようじゃなあ。裏の姿をとった金霊にとっては、またとない宿主であったろうよ」
「そうか。伯母さんの悪夢は、金霊のせいだったのか」
「その金霊が、お前のもとに戻ってきた。それがいつのことなのかは、はっきりわからん。伯父との電話で許すと言ったとき、つまりお前の側が執着を捨てたときかもしれん。伯父と伯母が金を手放すことを決めたときかもしれん。とにかくお前のもとに帰ってきた。もともとつながりがあるのじゃから、距離など関係ない。まばたき一つのあいだに、ひょいと帰ってきたじゃろう」
「殿村さんと話をしてたときには、もうあそこにいたんだ」
「まちがいなくおった。もしもお前が殿村に対して、金に執着する言葉をはいておったら、さあ、どうなったかのう」
「私もそれを考えると身震いがします」
「じゃが、お前は言うたのじゃな。そこにお金が加わったために、感謝が憎しみに代わり、幸福が不幸に変わるとしたら、それはおかしな話だ。それではお金にも申しわけない。少しでもみんなが幸福になるようにお金を使いたいのだと」
「あれは、すさまじい答えでした。私は感動しました」
「金から自由になった者にしか言えぬ言葉じゃ。まさに最上の答えじゃな。その瞬間、金霊は裏から表に転じたのじゃ。お前が金というものを祝福したからじゃ。じゃから金霊はお前を言祝いで、しかもお前の家にとどまることを決めた。見事じゃ。もうこれで四つ目の溜石の中身については心配する必要がなくなったわい」
そう解説されてみて、自分がどれほど危険なところにいたかがわかった。
無事に終われたのは、ほとんど奇跡のようなものだ。
あらためて、父母に感謝した。
それから、気持を切り替え、殿村さんのほうを向いた。
「殿村さん」
「何かな」
「この機会にお訊きしておきたいんです。ぼくがこの村に呼び戻されたいきさつを」
「……いつか話さなければと思っていた。今がそのときなんだろうね」
「それはわらわも聞いておきたい」
「わしは寝る」
そう言うと、和尚さんはごろりと横になった。横になっても雄大だ。トドの昼寝といったところか。
「それにはまず、君のご両親が、どうして里を出たのかというところから始める必要がある」
17
君の祖父であられる幣蔵さまは、早くにお父上を亡くされた。突然のことだったので、〈はふり〉の家に伝わる秘儀は、ほとんど受け継ぐことがおできにならなかった。もっとも、その秘儀というものは、千二百年のあいだに徐々に失われてきており、そう多くのものが残っているわけではなかった。それでも、少しでも受け継げるのとそうでないのとは、大きなちがいだ。
結果として、幣蔵さまは、神社のお清めをする以外、〈はふり〉の家の者としてのお務めを果たすことができなかった。呪禁さまは法力であやかしを退治したし、ごくまれに迫る危機から幣蔵さまを守るのは天狐さまの役割だ。だが自分にはできることが何もない、そのことに苦しんでおられた。
もちろん、〈はふり〉の家の血そのものが尊いのであって、その血を継ぐかたがこの里に居続けてくださるそれ自体が役割なのだ。そのことはよくご存じだった。それでもなお、無力感や虚無感のようなものを、お抱えであったと思う。そんなことはまったくそぶりにも出されなかったけれどね。長年近くにお仕えした私だからこそ、感じ取ることができたのだと思う。
ご自身については、それでいいと思っておいでだった。だが、千二百年続いた役割が終わろうとしているときに、ご子息である弓彦さままでが同じ苦しみを抱えることはない、と幣蔵さまはお考えになったのだと思う。言葉にしてそうおっしゃったわけではないが、幣蔵さまの行動から、そう感じられた。
決定的だったのは、君の誕生だ。この輝く新しい命を、この里の役目に縛りつけるべきではない、と幣蔵さまはお考えになったのだ。あのかたが君のことを、どれほど大切に思っていたか、それを伝える言葉を私は持たないが、みているだけでせつなくなるほど、君のことを愛しておいでだった。
だから、鶴枝さまがたまたま妖気に敏感な体質だったことは、いい理由になった。幣蔵さまは弓彦さまに、妻とこどもの幸せのため、里を離れるようお命じになった。
この里の歴史と〈はふり〉の家の使命について、幣蔵さまは弓彦さまに教えておられなかった。だが、弓彦さまは、うすうすおおよそのところは感じ取っておられたのではないか、と私は推測している。でなければ、ほかのことでは幣蔵さまの命令に逆らったことのない弓彦さまが、あれほど里を出るのをいやがった理由が説明つかない。
里を出た弓彦さまと鶴枝さまと君のことを、私は追跡していた。いつでも連絡が取れるようにとね。それに気づいた幣蔵さまは、追跡をやめるようにとおっしゃった。幣蔵さまから受けた明確な命令にそむくわけにはいかない。弓彦さまが住民票を移さずに転居されたのをきっかけに、私は弓彦さまの追跡を一時中断した。
そのことは今でも後悔している。もしもすぐに手を尽くして弓彦さまの動静を把握していたら、あんな過酷な労働を続ける弓彦さまをお助けすることもできたかもしれない。いや。こんな仮定は弓彦さまにも君にも失礼だな。とにかく、弓彦さまの暮らしぶりについて、私は一時期まったく知らなかった。だが、いずれ時がくればいつでも探し出せる自信があった。
遺産のことについては、幣蔵さまは何度も何度も私にお命じになった。自分の死後、弓彦さまを探し出してきちんと相続させるようにとね。その段取りが整っていることを、何度も私に確認なさった。
今話しながら、ふと思ったんだが、幣蔵さまが弓彦さまとの連絡を途絶えさせたのは、ご自分の体力の衰えと関係があったのかもしれない。ご自身がお倒れになったとき、連絡がつく状態であれば、弓彦さまはこの里に帰ってきてしまい、自らを縛り付けてしまうという不安があったからかもしれない。
あるいは、連絡がつく状態であれば、ご自分自身が弓彦さまに、帰ってきてくれと頼んでしまいそうなので、あえて連絡先も知らない状態にしたのかもしれない。
とはいえ、幣蔵さまは、この里の使命はもうまもなく終わると信じて、この十数年を過ごしてこられたから、こうした推測はまちがっているかもしれないけれどね。
事情が変わってきたのは、この数年だ。もうとうに迎えているはずの満願成就の日が来ない。これは、呪禁さまや天狐さまにはおわかりになりにくいことだろうけれども、日に日に老いてゆくみずからの寿命をみつめながら、幣蔵さまの心では、段々不安が大きくなっていったんだ。
何事もご自分で決めて命令するだけだった幣蔵さまが、私にいろいろな点で意見を求めるようになられた。
実は私は、弓彦さまを外に出すのには反対だった。里の暮らしには自由がないなどということはない。本質的な自由など、どこに行けば手に入るというものではなく、どこにいては手に入らないというものでもない。そして何より、弓彦さまには、満願成就の日をみとどける義務があると信じていた。
それは素晴らしいことだと思う。千二百年のあいだ、大切なお役についてきた一族の子孫が、ついに営々と続けられてきた努力が結実する瞬間をみとどけられるのだ。誇っていいことだ。その時代に居合わせながら、その場面をみとどけないとしたら、あの世に行ってからご先祖さまがたにどう言いわけできるだろう。
幣蔵さまは、胸を張って弓彦さまに、その瞬間をともにみまもろう、と言うべきだったのだ。きっと心のなかでは弓彦さまも、そう言われたいと願っていたはずだ。これは推測にすぎないが、弓彦さまは、どこにいても長く定着するような暮らしをされなかった。それは、いつでもここに帰って来られるようになさっていたのではないかと思う。
そういう意見を私は申し上げた。そしてまた、お孫さんである君にも、この里をみせるべきであり、この里の空気を味わわせるべきであり、歴史的瞬間に立ち会わせるべきだ、と申し上げた。君の体に流れる血が、そのことを喜ばないはずがない、と申し上げた。
この意見には、幣蔵さまは大いに心を動かされたようだった。そしてまた君をこのうえなく愛しておられたから、どんな理由をつけてでも君をこの里に迎えたいという気持もお持ちのようだった。しかし同時に、ご自分のわがままで君の人生をゆがめてはならないとも考えておられた。これははっきりと言葉にしておっしゃったことがあるので、まちがいのないことだ。
そんな幣蔵さまが、昨年の暮れ、老齢と病のため、お倒れになった。私は申し上げた。今こそ弓彦さまを呼び戻されるべきですと。だが幣蔵さまはうなずかれなかった。もうまもなく満願成就の日は訪れるはずであり、自分が死んだからといって、その悪影響が現れるのは何十年も先になるだろうから、弓彦を呼び戻す必要はない。そうおっしゃった。あやかしの出現が減っていたから、その言葉には反論できなかった。まさか平穏さの背後で妖気を吸い取っている者がいるなど、そのときには想像もできなかったのだ。
私は独断で、弓彦さまの行方を捜した。そして四年も前に亡くなっておられることを知って愕然とした。その時点では君が伯父夫婦のもとに引き取られているという程度のことしかわかっていなかった。私はそうした事実を幣蔵さまに告げた。
幣蔵さまは大変な衝撃を受けられた。そして、君の生活を応援するために金銭の援助をするよう私に命じられたのだ。
私ははじめて幣蔵さまの命令を拒否した。なぜなら、その金銭の援助が本当に君の助けになるかどうかわからなかったからだ。私の説明を聞いた幣蔵さまは、それはもっともなことだとご理解なさり、君の生活ぶりを調べるよう命じられた。
君が学費を稼ぐために、勉強する時間もないほどアルバイトに明け暮れていて、それでもなお、京大合格確実というほどに学力をつけていることを知って、幣蔵さまはお泣きになったよ。
私にはいくつも不審な点を感じたので、弓彦さまの死亡事故のことを調べた。事故そのものは不幸な偶然としかいいようのないものだとわかったが、弁護士の立場を利用して事故相手の勤務先を調査し、多額の見舞金という名目の和解金が出ていたことを知った。そのほか、君がきわめて不誠実かつ不当な仕打ちを受けていることがわかった。
幣蔵さまは憤慨なさった。しかしそれでも、君を呼び寄せようとはなさらなかった。そうではなく、君の望む進学ができるよう取りはからえと、お命じになった。どこかマンションを借りて自立させ、伯父夫婦とは手切れさせて、充分な生活費と学費を援助するようにとね。どのみち、幣蔵さまがご帰幽になられたら、遺産はすべて君のものだ。ほかに受け取るべき人はいない。
だが、この時点で京大の入試は、すでに終わっていた。不合格でしたとご報告したとき、幣蔵さまは、またもお泣きになった。
今こそ君を里に迎えるべきだと、私は勧めた。だが幣蔵さまには、別の不安ができてしまった。君にきらわれてしまうだろうという不安だ。君の立場からしてみれば、幣蔵さまは、弓彦さまと鶴枝さまと君を里から追い出した人であり、その後まったく援助も与えなかった人だ。弓彦さまが亡くなられたときも、葬儀にさえ顔を出さなかった人だ。その後君が苦しんでいるのに、助けの手を差し伸べようとはしなかった人だ。わずかな援助があれば、君は実力を発揮して京大に合格できていただろう。死期が近づいているからと、今さら相続人である君を呼び寄せようなどとすれば、ひとでなしだと思われてもしかたがない。幣蔵さまは、君に軽蔑されることを恐れたんだ。
私からの相談を受けて、呪禁さまも天狐さまも、君を呼び寄せるべきだと幣蔵さまを説得したが、幣蔵さまはうなずかれなかった。だが、財産の相続の手続きと、死後の不動産等の管理については、私の助言を受けて、取り運びを進めてくださった。
危篤となられた幣蔵さまに、私は申し上げた。君に遺産を譲るについて、一時期でいいからこの里に住むことを条件とするべきです、と。
「ああ、ええなあ。それがええなあ。鈴太がここに住んでくれたらなあ。できれば乾物屋も継いでほしいけどなあ。天子さんがついておってくれるからなあ」
私は、ではそれも幣蔵さまの意志としてお伝えします、と約束した。
呪禁さまと天狐さまと私がみまもるなか、幣蔵さまは最後に君の名を呼んで、神様のみもとに帰られたよ。
天狐さまは、ただちに君を呼び寄せて葬儀の喪主を務めてもらうと決断され、そのことを取り進めるよう私に命じられた。
君にはじめて電話するときには、いささかとまどった。私は以前から君のことを知っていたし、みかけていたからね。だが、前から知っていたと言うわけにもいかない。だから、最初の電話のとき、少々奇妙な物言いをしたような気もする。それからまた、幣蔵さまが、君やご両親の事情を知って放置していたと思われると困るので、ご両親の死や君の近況をいつ知ったかについては、少々矛盾する説明をしてしまったように思う。
君がこの里に来て、喪主を務めてくれて、幣蔵さまはきっと喜んでおられると思う。私は遺産のことについて、わざと最初は説明しなかった。遺産の大きさが君の心をゆがめるかもしれないと危惧したからだ。喪主を務めきったようすをみとどけてから、注意深くその情報を君に与えていった。君の反応は好ましいものだった。しばらく生活して里の空気になじんだら、実は移住の条件はもう果たされたので、今後はどこに行ってもいい、と告げるつもりだった。
その後の君のありようは、私の想像をまったく超えたものだった。何の知識も技術も持たず、それどころか自分がどういう使命を持つ一族の末裔であるかも知らないまま、君は〈幽谷響〉を鎮め、〈ぶらり火〉を鎮め、大塚野枝氏に取り憑いた妖気を、呪禁さまにも天狐さまにも実行不可能な方法で浄化し無垢な赤子に変えてみせた。君の働きをみて、幣蔵さまがどんなに喜んでおられるかと思うと、なぜか私も誇らしい気持になる。
あらためて、鈴太くん。よくぞこの里に戻ってきてくれた。よくぞ自分に起こる理不尽から逃げず、立ち向かい、最良の、いやそれ以上の結果を出してくれた。君のような人が〈はふり〉の家の役割を締めくくってくれることを、私は深く感謝している。
18
この人の言葉に嘘はない、と思った。
おじいちゃんが、父さんや母さんやぼくのことを思ってくれていた思いの深さを知って、ぼくは新しい涙を流した。
天子さんも、不明だった点が明らかになって納得したようすだった。
話が終わると和尚さんがむくりと起きた。たぶん寝ながらも、ずっと話を聞いていたように思う。
和尚さんと天子さんと殿村さんは相談事があるというので、ぼくは一人で乾物屋に帰り、注文の品を配達して、夕食を済ませ、風呂に入り、神様のお社とご霊璽を拝んで寝た。
翌日、神社の掃除を済ませて帰ってくると、天子さんが朝食の準備を済ませて待っていてくれた。そのことが、何ともいえず幸せだった。
朝食のあと、童女妖怪が〈探妖〉を行った。
「あ。妖気の抜けた溜石が五つになってます! そして五つ目の溜石の近くに、強力な妖怪が出現してますです! 妖怪の名は……」
「第7話 金霊」完/次回12月1日「第8話 鉄鼠」




