後編
13
それからというもの、乾物屋での暮らしが始まった。
一見雑然とした店だけど、意外に機能的に商品が配列されていた。
空間をうまく使って狭い範囲に多くの物を詰め込んでいるから雑然とみえるけれど、よく売れる品は出しやすい所にあり、奧のほうにはめったに売れないけれど、たまには要望のある珍しい品などが置いてある。
乾物屋というけれど、実際には何でも屋だ。お酒だってある。
村には酒屋があるけれど、この乾物屋とは相当に距離が離れていて、この店でお酒を買う固定客が何人かいるのだ。
気合いを入れて店の掃除をしたら、売れ残りの古すぎる商品も出てきた。なかでもびっくりしたのは、ソビエト連邦産のズワイガニの缶詰だ。製造年月日はみずに、こっそり捨てた。
奇妙な民芸品みたいな物もいっぱいあった。
「天子さん。これ、何?」
「うん? ああ、それは海が荒れたとき波に沈めると、人間が溺れずにすむおまじないの人形じゃな」
こんな山奥で、そんな物を買う人がいるんだろうか。それに、海が荒れるっていうけど、瀬戸内海が?
「これは?」
「ああ。それは、死人を掘り起こして盗む妖怪が出たとき、死体を動かせなくする飾り物じゃな」
そういえば、おじいちゃんの棺桶のなかに、おんなじ物が入ってた気がする。
田舎って、こういう古い習わしをちゃんと守るんだ、と感心した。
迷信といってしまえばそれまでだけど、これもある意味伝統の一種かもしれない。
まあ、そういう習わしがあるんなら、売れる可能性はあるわけだ。
午前中は、来る人のようすがのんびりしている。ぽつりぽつりと、散歩のついでみたいに寄って、長話をしていく。お客さん同士で話すこともある。そういう人には、お茶と漬物を出す。
昼食後から夕方までのあいだは、けっこうお客さんが多い。この時間帯のお客さんは夕食のしたくを始める前の空いた時間に、ちょっとした物を買って行くお客さんで、買い物をしたらすぐ帰ってしまう。
これでもぼくは、バイト歴が長い。コンビニのバイトもやった。
コンビニでバイトしたときは、こんなわずかな面積にこれほどの種類の商品があるのかとびっくりしたが、この店の品ぞろえというか、多種多様さは、コンビニを上回るんじゃないだろうか。
それでもカテゴリー別に固まって配置されているのを理解してからは、目的の商品にたどり着くのが早くなった。
というか、たいていの場合、お客さんのほうで、自分の欲しい物がどの辺りにあるか見当をつけて、そこから気に入った商品を取り出すことが多い。
問題は値段だ。
値段の一覧表を書いたノートはあるんだけど、これはカテゴリー別になっていなくて、古い物から順に書かれている。売値を変更した場合や、その商品の仕入れをやめた場合は線を引いて消してある。
とてもじゃないけど、このノートじゃ、値段はすぐにわからない。
最初のうちは、全部天子さんに訊いた。
そして古いノートパソコンを駆使してカテゴリー別の値段表と五十音順の値段表を作った。
名前をみても商品と結びつかない物がたくさんあって、困った。
ジンヤライ
トモスケ
サンダラボッチ
モンガエシ
ヤマノカミオクリ
タノカミムカエ
かたっぱしから天子さんに聞いた。
天子さんは、ぼくが聞いたことは全部知っていて、いちいち商品と、その使い方を教えてくれた。
名前だけわかって値段のわからない物もたくさんあった。
お札の類はほとんどそうだ。
「あ、お札はの、売り物ではないのじゃ。必要とする者がいたら、ただで渡せばよい」
何でこんなにいろんなお札が、と思ったけど、よく考えたら神主の一族なんだから、先祖代々伝わってるのかもしれない。
ということは、このお札、おじいちゃんが作ったんだろうか。
一番困ったのは、方言だ。
最初のうちは、ちんぷんかんぷんだった。
こてこての岡山弁というのが、こんなにもわかりにくいものだとは思わなかった。
でも、何とか会話しているうちに、聞き慣れていった。
そうすると不思議なもので、脳内で勝手に翻訳して聞き取れるようになった。
わからない単語は、天子さんに聞いた。
「みててしもうたけん(なくなってしまったから)」
「おえりゃあせんが(だめだなあ)」
こういう言葉は、意味を教えてもらわないとわからない。
少しずつ、岡山弁のボキャブラリーを増やしていった。
最初に話し合った通り、料理は二人で毎日交代で作ってる。
日曜日にも平然と通勤してきたので、最初はびっくりしたけど、何というか、この村では、曜日感覚というのは、あまり重要じゃない。
14
「法師どの」
「なんじゃな」
「少し酒が過ぎるのではないか」
「ばっはっはっ。酒はうまいのう」
「毎日一本ずつ、鈴太に配達させておるな」
「おお。毎日ではめいわくじゃったか。それなら週にまとめて十本にしようかのう」
「配達のことを言うておるのではない。法師どのの体のことを言うておるのだ」
「ばっはっはっ。酒ぐらい好きに飲ませてくれ。わしのたった一つの楽しみじゃ。それにな。正直言って、酒を飲んでいないと体の痛みとだるさに耐えられんのじゃ」
「長年の戦いで疲れきった体じゃからのう。無理もない」
「鈴太はどうじゃ?」
「ほんに素直な子じゃ。かわいいものじゃ」
「はっはっ。気に入ったか?」
「大いに気に入った。幣蔵に会わせてやりたかったのう。明日は花見に連れて行ってやろうと思う」
「連れて行く? ばっはっは。おぬしが行きたいんじゃろうが」
「もちろん、わらわは花見をしたい」
「どこに行く?」
「白澤山じゃな」
「白澤山に別れを告げてくるか」
「そのつもりじゃ」
「わしのぶんまで、存分に名残を惜しんできてくれ」
「心得た。それからのう」
「何じゃな」
「一升瓶のケースは六本入りなのじゃ。注文するなら六本か十二本にしてもらいたい」
「……すっかり商売にそまっちょるのう」
15
今日は突然花見になった。
朝、天子さんが来るなり、今日は花見に行くぞ、と宣言したんだ。
天子さんは、たくさん料理の材料を持ってきた。煮染めとかは、作ったのを持って来た。一緒に素材を料理して、ごちそうを作ったんだ。
「あ、でも、お店を閉めることになるね」
「閉めずともよい。これを出しておくのじゃ」
それは底の浅い箱と貼り紙だった。メモ用紙と鉛筆がくくりつけてある。
〈留守にしてます。商品の代金はこの箱に入れてください。配達の注文は、メモ用紙に書いて箱に入れてください〉
「こんなに浅い箱じゃあ、簡単にお金を取れるよ?」
「お金が取れないと、お釣りがいるとき困るじゃろう?」
なるほど。そうですか。性善説なんですね。
それにしても、今日の天子さんは、みるからにうきうきしている。
まるで、こどものようだ。
普段おとなびているから、なおさらそう感じる。こういうのをギャップ萌えっていうのかな?
行き先は白澤山だということだった。
確かに白澤山には、桜が咲いてる。東京ではもう桜は散りきってるころだけど、やっぱり山のなかだから、咲く時期も散る時期も遅いんだろうな。
二人は店を出て、てくてく歩いた。白澤山と羽振村のあいだには樹恩の森があるけど、今日はそこを通らない。その手前の細道を外側から回り込むと、森を通るのよりずっと早く白澤山に着けるんだそうだ。
天気はいいし、とびっきりかわいい女の子と二人っきりで花見だ。ぼくもうきうきした気分になってもいいよね? だめだって言われても手遅れだけど。
ずいぶん長いこと歩いたけど、ちっともいやじゃなかった。
春の山や森をみつめる天子さんのうれしそうな顔をちらちらみながら歩くのは、とっても楽しかった。
山に着いてしばらく歩くと、すごくみはらしのいい所に出た。
「うわあ。こんな所があるんだ」
「よいながめであろう?」
「うん! 最高だね」
さっそくビニールシートを引いて花見場所を確保すると、料理を広げようとした。
そのとき、風が吹いてきたんだ。さああああっとね。
桜の花びらが舞った。
花見のベストポジションに選んだくらいだから、桜に囲まれた場所だ。その桜の木々から、一斉に無数の花びらが躍り出て、風に遊んでひらひらと空間を埋め尽くした。
桜しかみえない光景って、想像がつくだろうか。
それは感動の光景だった。
ぼくは心臓をつかまれたみたいに硬直してしまって、ただただ舞い狂う桜にみとれていた。有名な忍者が使う茶色の木の葉のように、桜にはしびれ薬がふくませてあるにちがいない。
木から吹き散らされた花びらは、地面に落ちるはずだ。
地面に落ちるまでの短い時間、風に吹かれているだけのはずだ。
だけど、とてもそうは思えなかった。
桜は意志を持って落下をこばみ、宙を飛び続けようとしていた。
振り返ってみれば、ごく短い時間のことだったんだろうけど、ほんとに時間が止まったかのように、ぼくには感じられたんだ。
ふとみれば、桜吹雪のなかに天子さんがいた。
まるで妖精のようだ。
いつもと表情がちがう。
透明な表情、とでもいえばいいんだろうか。
すぐそばにいるのに、手の届かない遠くにいるようにも思える。
そんな表情を、天子さんはしている。
まっすぐ立ったまま、右手を軽く握って体の前に突き出した。
手の甲が上を向いている。
あ。
今、天子さんは和服を着ているんだ。
軽く握った手は、和服のすそをつまんでいるんだ。
なぜかそう思った。
普通の和服じゃない。巫女さんが着るような服だ。
天子さんは、ひょいと右手をたぐるしぐさをした。
ぼくの目には、ありもしない和服の袖の垂れた端っこが、ひょいと天子さんの右手の上に載るのがみえた。
天子さんは、そのまますうっと腰を落とした。
頭は揺るがない。
右にも左にも、前にも後ろにも、まったく揺るぐことなく、体と一緒にすうっと沈んでいく。
左手は、左の太ももの上に載ってるんだけど、何かを持ってる。
扇だ。
天子さんの左手には、閉じた扇が握られている。
それからおもむろに頭を下げた。お辞儀をしているんだ、と思った。
そんな天子さんに、さらさら、さらさらと、桜が舞い落ちる。
右手は動かない。だから、お辞儀した頭の前に右手がある。
右腕に包まれるように、美しい黒髪が、まっすぐに垂れている。
しばらくその姿勢を保ったあと、頭を起こした。
すうっと体が上がっていく。少しあがってぴたりと止まった。
まだ膝は曲がっている。
右足を、つつっと後ろにひく。
体全体が右に回転しはじめた。
右足を軸にして左足が地面の上をすべっている。
上半身はまったく動かない。
九十度ほど回転すると、ぴたりととまる。
今度は左足を、つつっと後ろにひいた。
体全体が左に回転してゆく。
まん前を向いても回転はとまらず、そのまま左に回転してゆき、九十度ほど左を向くと、ぴたりと止まった。
もう一度右足をひき、今度は右に回転して、正面でとまった。
そうしているあいだにも、桜は右に左に渦を巻いて踊りさざめき、時に止まったかのようにゆっくりと宙に舞う。
まるで天子さんが、めまぐるしく模様の変わる着物をまとっているかのように。
あ、左手を前にのばした。扇は何もない空間に向かって突き出されている。
それに右手を添えて……扇を開いた!
ゆっくりと扇は開かれてゆき、完全に開ききると、右手が離れた。
左手だけで持った扇が、ゆったりと、しかし大胆に左方に回転してゆく。
天子さんの左手は伸びきっているので、扇はずいぶん体から離れている。
体の真横まで動いてから、扇の角度が変わった。
今までは水平に向いていたのに、わずかに外側が起きた。
そのままゆっくりと扇が右側に回転してゆく。
まるで何かをすくい取っているかのように、重量感のある回転だ。
体の正面まできたとき、ふいに扇はくるりと回転した。
扇に運ばれてきた何かは、たぶん今、天子さんの正面に浮かんでいる。
右手に持ち替えられた扇は、同じように右側から正面にかき寄せられ、何かをすくい取った。
あ。
扇を両手で持った。
軸の部分じゃなくて、裸の竹の上に紙が覆いかぶさるその境界線あたりを、両側から持っている。
何かが扇に載っかっているんだ。
その載っかった何かを、ずずっと前に突き出して、天子さんは頭を下げた。
これはお供えだ。神様に何かをお供えしたんだ。
その扇の上に、さらさらと桜の花びらが載り、次の瞬間には、その花びらを風がさらっていった。
頭を起こし、扇の柄を右手で持つと、右上から左下に鋭く切り下ろした。
かと思うと、やはり右手で、左上から右下に鋭く切り下ろした。
すくっと立ち上がり、扇を頭の上に高くかかげると、体を右から左にゆっくり回転させてゆく。扇が放つ光で下界のすべてを照らしているんだろうか。
腰を落とした。
今度は空から落ちてくる何かを扇で受けて、口に運んで飲み干した。
別の場所から落ちてくる何かを扇で受けて、もう一度口に運んだ。
左足を軽く曲げたまま、右足を高く上げた。
靴を履いているはずの足が、まるで足袋を履いているかのようにみえる。
持ち上げた右足の裏はまっすぐで、完全に大地と並行だ。
その右足がまっすぐおりて、大地を踏みしめる。
もう一度右足が持ち上げられ、大地を踏みしめる。
体が右に九十度回転し、左に百八十度回転し、右に九十度回転する。上半身にはわずかなゆらぎもない。
そして静かに扇をたたみ、左手に持って腰にあてると、ひょいと右手を体の前に掲げて袖を折って手の甲に載せ、深くお辞儀をした。長いお辞儀だった。
それは、舞いが終わったことを告げるあいさつだった。
巫女服を着た妖精だった天子さんが、急に洋服の少女にもどり、ぼくのほうをみて、にこっと笑った。
それから二人は食事をした。
会話はほとんどなかった。
それでよかった。
何も語り合う必要はなかったから。
おいしくて、きれいで、気持よくて、幸せだった。
日が傾きかけて、風が少し冷たくなったので、二人は帰り支度をした。
この場所からは、麒麟山と蓬莱山と、樹恩の森と、そして羽振村が一望できる。
天子さんが、その風景をじっとみていた。まるで心に焼き付けようとするかのように。
気がつけば天子さんは泣いていた。
はらはら泣く、という言葉があるけど、どういう意味なのか、このときぼくははじめて知った。
次々と途切れることなく天子さんの美しい両眼から、涙が流れ落ちる。
みひらいたままの両眼から、流れ落ちる。
それは吹く風に運ばれて飛んでゆく。
どこへともなく飛んでゆく。
涙と涙はつながらない。一つ一つ別の水滴として風に運ばれてゆく。
それでいて途切れることなく、はらはら、はらはらと、涙は空に舞う。
ああ、そうか。
さっきの桜は、山の涙だったんだ。
山がはらはら、はらはら、泣いていたんだ。
それにしても、どうしてこんなに切ないんだろう。
どうしてこんなに胸がしめつけられるんだろう。
もちろん、ぼくは、押し寄せてくる、この甘やかな苦しみの正体を知っている。
心をふるわせる、この気持を何と呼ぶのか知っている。
これが、そうなんだ。
こうして満開の桜のなかで、ぼくは恋に落ちた。
「第1話 天狐」完/次回「第2話 幽谷響」