中編5
12
「伯父さん? どうしたんです? 突然電話なんて」
「う、うん。鈴太くん、元気かなって思って」
伯父さんにはお世話になった。父さんと母さんが死んでしまったとき、かけてくれた言葉の優しさや、そのあと家に来ないかと自然に誘ってくれた思いやりは、思い出せば今でも胸が温かくなる。
〈でも、本当にそうか?〉
〈最初から保険金を狙って、優しいふりをしたんじゃないか?〉
えっ?
今のは、ぼくの心の声か?
本当にぼくが思ったことなのか。
それは、ちがう。だって伯父さんの優しさは、父さんと母さんが生きてたころから変わらない。父さんと母さんにも、何かと気遣いをしてくれてた。なのにぼくは、どうして伯父さんを疑ったりしたんだ?
「あ、あの。一人暮らしだよね? 寂しくないかい?」
「ええ。夜は一人ですけどね。日中は、おじいさんのときから続いてる美人店員さんが来てくれるんです。それに、いろんな人が店に来てくれて。うるさいぐらいにぎやかですよ」
「へえ、そりゃ、よかった。でも、店員さんを雇ってるんだ。小さな村の乾物屋さんなんでしょ。だいじょうぶなの?」
「うーん。もうかるってこともないけど、ぼちぼちやっていけそうな感じです。弁護士の殿村さんもついててくれますしね」
「そういえば、凄腕そうな弁護士さんを雇ってるんだよね」
「ええ。ぼくが成人に達するまで財産の管理をしてくれてます」
「だいぶ費用もかかるんじゃないの?」
「え? 殿村さんですか? あの人はですね、若いころ祖父の世話になったとかで、ほとんど無償でお世話してくれてるんです」
「あっ、そうなんだ。なるほど」
「ぼくはこの村になじみがないけど、祖父やその先祖はずっとここに住んでましたからね。仲間扱いですよ。村の行事なんかにも参加します。村社会は助け合いですしね。照さんておばあさんがしょっちゅう川海老の佃煮を差し入れしてくれるんですけど、これがもうほんとにうまいんです」
「そうなんだ。受け入れてもらってるんだ。よかったなあ。はは。君も知ってるように、この地域も、けっこう村社会が残っててね。ご近所の目とか口とかも村的というか、平気でずけずけ踏み込んでくるところがあってね。練馬大根の出荷量も日本一なんだよ」
「はは」
村社会と練馬大根の関係はよくわからなかったけど、たぶん冗談なんだと思って笑っておいた。
「そちらは皆さん、お元気ですか?」
「うん。元気にしてる……と言いたいんだけど」
「え? 何かあったんですか」
「うん。いや、あ、そういえば、東京に来てたんだって?」
「ええ。近くに行ったのにあいさつもしなくてすみません。実は」
ぼくは、行方不明の村人の捜索に同行した話をした。
「へえ。それで二回も上京したんだ。わざわざマンションをみに来たわけじゃないんだね」
「マンションを? ああ。建て直すとは聞いてましたから、どんなふうになったかなって気になって、用事が終わったあと寄ってみたんですよ」
「そ、そうだったんだね」
それから、しばらく、伯父さんの言葉は途切れた。
たぶんこのあとに、本当の用件が出て来る。そう思ったので、ぼくは辛抱強く、伯父さんが次の言葉をしゃべるのを待ち続けた。
「あ、あの。こんなことを言って、驚くと思うんだけど」
「はい?」
「つ、妻を、許してやってくれないかな」
「えっ? 伯母さんを……許す?」
「妻は毎日、鈴太ちゃんごめん、鈴太ちゃんごめんって言って、泣きわめいている」
「どういうことです?」
「う、うん。奇妙な話なんだ。すごく奇妙な話なんだ。実はね」
それから伯父さんが話したのは、驚くべき内容だった。
マンションの前でばったりぼくに出会った日、まだ夕方にもならないのに、伯母さんは寒気がするといって寝た。そして、苦しそうにうんうんうなっていたかと思うと、近所中に響き渡るような大声で絶叫する。
起こしても起こしても起きない。のたうち回って苦しんでいる。そして時々、絞め殺されているのかと思うような悲鳴を上げる。これは大変だと思ってお医者さんを呼んだけど、お医者さんにも何の病気かわからない。心因性のものでしょう、と言われただけだ。
朝になると目が覚めたけど、一晩でげっそり痩せて、白髪も増えて、まるで十年も年を取ったみたいだった。
日中も、何をする元気も出なくて、一日中ぼうっとしている。買い物に行こうとしても、財布が取り出せない。怖い顔をしたおじいさんがいて、財布も、カードも、通帳も、伯母さんが取り出そうとすると目を剝いて怒るからだ。そのおじいさんは、伯母さんにしかみえない。つまり幻覚だ。
夕方になると、こてんと寝た。だけどそれは安らぎの眠りじゃなかった。前日にもまして苦しみ、うなされ、大声で悲鳴を上げ、あげくのはては、地の果てまで届くんじゃないかというような声で、自分が悪かった、お金は返すから助けてくれ、そんな目でみないでくれと、わめき回る。
翌日は、大きな病院の精神科に連れて行った。だけど何の異状もないという診断結果だ。不思議なことに伯母さんは、病院にいるときは静かに落ち着いていて、受け答えもまともだったそうだ。
ところがいったん家に帰ると、恐怖に身を縮め、伯父さんにはみえない何かにおびえている。外出して気張らししてはどうかと勧めても、首を振って家から出ようとしない。夜が来れば眠る。眠るのは恐ろしくてしかたないのに、眠ってしまう。
そして苦しみ、のたうち、罪を告白して許しを乞う。大声で。
たった二日で、近所の人が伯父さんたちをみる目ががらりと変わった。伯父さんたち一家に向けられるのは、軽蔑と、物問いたげな好奇のまなざしだ。
三日目には、同居していた長男の幸一さん夫婦が家を出た。とても耐えられなかったのだ。
マンションは、不動産屋さんの斡旋でもう全部入居者も決まっていて、あとはオープンのための最終契約をするだけなのに、伯母さんは業者さんとまったく話ができない。伯父さんはここまで内容に関わっていないので、どうしていいかわからない。
そして近所から苦情が出た。あんなに大声で夜中わめき回られたのでは迷惑だというのだ。無理もない話なのだが、では伯母さんをどこに連れていけばいいのか。何か所かの病院に電話してみたが、対応は親切なものではなかった。
四日目になると、伯母さんの人相は鬼気迫るものになった。いよいよ骨と皮に痩せ細り、髪の毛は真っ白になり、歯はぼろぼろに欠け、目はぎょろりと剝けて血走り、眉間には憤怒の皺が刻まれ、鬼婆そのものの姿をしているという。
近所からの苦情は、ひどく辛辣なものになってきた。鈴太くんのご両親の保険金を内緒でもらっちゃったんですってね、道理でご立派なマンションをお建てになったこと、とはっきり言う人までいる。伯母さんの所業は近所中に知られているのだ。なにしろ自分で大声で事細かに毎晩告白しているのだから。
必死で受け入れ施設を探したけれど、みつからない。この出来事が始まったころから、伯父さんは夜はとても眠れないので、日中に伯母さんの近くで仮眠し、夜は少しでも伯母さんの看護をと努めるけれど、伯母さんは少しも安らぐようすがない。その悶絶のありさまをみまもるうちに、伯父さん自身の体調や精神状態もおかしなことになってきた。
五日目に、マンションの建築を任せた会社がやってきて、管理契約は結ばないことにしましょう、と言い出した。伯父さんは大いにあわてた。
この会社はもともと、建物引き渡し後もメンテナンスを担当してくれ、居住者の募集から家賃の徴収、住民との折衝まで、すべての管理事務を一手に引き受ける約束だった。ところが引き渡しは済んだものの、管理契約の本契約が結べていなかった。というのは、伯母さんが管理料金などについて細かくクレームをつけたためだ。そのため、本来ならとうの昔に済んでいるはずの管理契約が結べていなかった。いよいよ入居時期が目前とあって、どうでも契約を完了しなくてはならない時期に、伯母さんが変調を来したのをみて、管理会社が契約を結ぶのを断ってきたというわけである。
今まで建設会社との交渉にまったくタッチしていなかった伯父さんは、途方に暮れながら、相手の言い分をただ黙って聞くほかなかった。
これからどうすればいいんだろうと思案しながらマンションまでふらふらと歩いていった伯父さんが目にしたのは、壁の至る所にスプレーで書き込まれたいたずら書きだった。そしてそのいたずら書きの大半は、伯母さんの所業を暴露し揶揄するものだった。
六日目、現金が必要になって伯父さんは郵便局に行った。なぜかカードがみつからないので、通帳で現金を引き出した。そのとき、預金額がごっそり減っているのに気づいた。幸一さんのしわざだ。幸一さんには、時々カードを渡して決済などを頼んでいたから、ゆうちょ銀行の暗証番号は知っている。家を出るときカードも持って出たのだろう。
その幸一さんから電話がかかってきた。社長が母さんのこと知って、今月いっぱいで解雇されることになったと幸一さんは言い、伯母さんと伯父さんを口ぎたなくののしったそうだ。
この日から、インターホンや電話が鳴っても、伯父さんは出なくなった。
七日目、伯母さんの睡眠中の悪夢は続いているけれど、叫び声はすっかり枯れて小さくなった。もう告白の言葉は出ず、出て来るのは、ぼくに許しを乞う悲鳴のような懇願ばかりだ。
かくして今日、八月七日、伯父さんはぼくに電話をかけてきたというわけだった。
「頼む、鈴太くん。こんなこと頼めた義理じゃないのは百も承知だけど、許す、と言ってくれないか。それで妻は助かるんだ」
13
事情はどうあれ、あの伯父さんが、許すと言ってくれと懇願しているんだ。ぼくは、〈許す〉と言おうとした。
だけど言葉が出なかった。
何かがぼくの喉をふさいだ。
どうして許さなくちゃいけない?
許す必要がある?
嘘をついたのは伯母さんだ。
お金を奪ったのは伯母さんだ。
父さんと母さんの命と引き換えに、ぼくに残された保険金と見舞金。
それは父さんと母さんの最後の贈り物であり、ぼくの幸せのために使われるはずだったお金だ。
そのお金があれば、あんなにバイト三昧の生活をしなくてよかったし、合格してはいけないんじゃないかと不安を抱えながら受験することもなかった。今ごろは、京大のキャンパスで、楽しく豊かで有意義な学生生活を送れていたんだ。
幸せだったはずのぼくの人生を奪ったのは誰だ?
血にまみれた不当な金をむさぼったのは誰だ?
伯母さんじゃないか。
伯母さんには、それだけの罪がある。
伯父さんも、ずるい。
いくら伯母さんが、保険金や見舞金を横領したとしても、伯父さんが断固として反対すれば、そんなことはできなかった。
目をつぶったのは伯父さんだ。それは共犯と同じことじゃないのか?
苦しめ。
もっと苦しめ。
苦しみながら死んでゆけ。
それがお前たちにはふさわしい。
そのとき、ぼくの心のなかで、こんな言葉が響いた。
〈お前は、伯父さんと伯母さんから、不幸しかもらっていないのか? 幸福は少しももらっていないのか?〉
父さん?
今のは確かに父さんの声だった。
でも、父さん。それはどういう意味ですか。もちろん、多少はいいこともしてもらいました。だけど、保険金や見舞金をぼくに黙って自分たちのものにしてしまった悪事と比べれば、そんなの全部帳消しでしょう。いや、帳消しにはならない。悪事のほうが断然まさっています。その差額分を、今伯母さんは支払ってるんです。ちがいますか?
問いかけたけれど、父さんの答えはなかった。
ぼくは、父さんならどう言うだろうか、と考えた。
父さんなら、こう言うだろう。
「悪事は帳消しにはならない。だけど、してくれたよいことも、なかったことにはならない。お前は伯父さんと伯母さんに、悪い思い出しかないのか。いい思い出はまったくないのか」
ぼくは、それに、こう答える。
「それは、あります。だけど」
「あるなら、それを思い出せ」
「思い出す?」
「そうだ。一つ一つ、思い出してみるんだ」
ぼくは、伯父さんと伯母さんによくしてもらったいい思い出を思い出そうとした。
何があったかなあ。
ああ、そうだ。伯母さんは大根を畑で作っていて、よくその葉っぱを食べさせてくれた。大根の葉っぱって、実はものすごく栄養豊富だし、とてもおいしいんだ。刻んだ油揚げと一緒にごま油で炒めて。ほんの少しだし醤油を落として。時々は人参の細切れなんかも入っていて。父さんも母さんも、伯母さんの作る大根葉の炒め物が大好きだった。
そういえば、あの料理、ぼくも今では作るけど、もともと伯母さんに教えてもらったんだった。人参の葉っぱでも同じ料理を作ってくれた。人参の葉っぱは、苦くて、何というか味が濃いんだ。その苦さがうまい。だけど人参の葉っぱは小さいから、収穫してから料理できる状態にもっていくまでえらく手間がかかる。そういう手間は惜しまない伯母さんだったなあ。
父さんと母さんが死んだあとも時々、伯母さんは大根葉や人参葉の炒め物を作ってくれた。あったかいご飯にかけると、またうまいんだ。あれを食べると、父さんと母さんの笑顔を思い出して、幸せな気分になれたんだった。
伯父さんには、いろんなお菓子を買ってもらった。新発売のお菓子を買っては、ぼくにくれた。だからぼくは小学校では、いつも最先端のお菓子の味を知っていて、友達と話がはずんだ。いろんな所に連れて行ってももらった。景色のいい所、楽しい所。あんまりお金のかかるところに連れて行ってもらったことはないけど、東京タワーとスカイツリーには上らせてもらった。高い所の好きな伯父さんだった。若いころには画家になりたかったとかで、よく多摩川のほとりで写生をしてた。そうだ。河川敷でキャッチボールもしてくれたんだった。
「伯父さんには伯父さんの人生があり、そのなかにはいいものも悪いものもある。それをみんなひっくるめて伯父さんという人間なんだ。一つ悪いことをしたからといって、伯父さんという人間の人格全部が、人生全部が否定されていいとはいえない」
「でも、父さん。伯父さんと伯母さんのしたことは、罰せられないといけない」
「罰することでお前が不幸になってもか」
「え?」
「鈴太」
「はい、父さん」
「今、お前は、不幸か? それとも幸福か?」
今ぼくは不幸だろうか。幸福だろうか。答えは決まっている。
「父さん。今ぼくは幸福です」
「そうか。それはよかった。せっかく得たその幸福を、今のお前の命の喜びを、憎しみというよごれて曇らせてはもったいない、と父さんは思う」
「命を、憎しみで、くもらせる?」
「自分の人生を包む愛に気づけ。自分の幸せに気づけ。その愛を、幸せを裏切らずに生きてゆけ。そのほかのことは、小さなことだ」
「そうよ。鈴太」
「母さん!」
「あなたには、光のなかを歩んでほしいの」
「光の……なか」
「人の一生には明るい部分と暗い部分がある。悲しみと喜びがあり、憎しみと感謝があり、幸福と不幸がある。不幸ばかりをみつめて歩いてほしくないんだ」
父さんの言うことは、ちょっとむずかしくて、今のぼくには完全には理解できない。それでも一つだけ理解できることがある。父さんも母さんも、ぼくが憎しみと復讐で心を埋め尽くされた人生を歩くことを望んでいない。幸福と感謝に満ちた人生を歩むことを望んでいる。
わかったよ、父さん、母さん。
伯父さんや伯母さんには思う所もある。
けれど、父さんと母さんのために、ぼくは二人を許します。
「……あの、鈴太くん?」
あまりに長い沈黙だったので、伯父さんが不審に思ったようだ。
「許します」
「……え」
「伯父さんを、伯母さんを、ぼくは許します」
「り、鈴太、くん」
「それだけじゃない。感謝します」
「えっ」
「今まで、お世話になりました。伯父さんと伯母さんが、ぼくにしてくれたこと、思い出してました。大根葉の炒め物。お菓子。スカイツリー。多摩川でのスケッチやキャッチボール。おいしかったです。楽しかったです。感謝してます。ありがとうございました」
伯父さんの返事はなかった。
やがて、すすり泣きと嗚咽が聞こえてきた。それは長いあいだ続いた。
ぼくはそっと電話を切った。
たぶんもう二度と、ぼくは悪夢に悩まされないだろうと予感しながら。
伯母さんもそうだといいな、と思った。