中編4
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敵の名はわかったものの、戦いは膠着状態のままだ。溜石の状況も変わらない。
天子さんは、〈探妖〉の結果を、毎日和尚さんに報告に行ってる。和尚さんにも打つ手がないようで、何か変化が起きるのをじっと待つ日々だ。
ぼくは相変わらず悪夢をみている。最初に悪夢をみたのが七月三十一日だから、昨夜で四夜連続で悪夢にうなされたことになる。
鏡をみても、実にひどい顔をしている。げっそり痩せて、目の周りは落ちくぼんでいて、生気がない。
今日の天気のよさがうらめしい。これでは外に出るのもおっくうだ。
あ、誰かがやってきた。
足川未成さんだ。
一緒にいる若い女の子は誰だろう?
「こんにちは。大師堂さん」
「こ、こんにちは」
「天子さんも、こんにちは」
「うむ」
「鈴太さん。顔色よくないわね。だいじょうぶ?」
「はい。らいじょうぶです」
「あんまりだいじょうぶじゃないわね。ところで、この子、覚えてる?」
「え? さ、さあ?」
「成三の法事のとき、たまたま帰ってたんだけど、そうか。覚えていないか。まあいいわ。この子はうちの末っ子よ。名前は未完。〈未完成交響曲〉の〈未完〉と書いて〈ひでひろ〉って読むの。京都勧業大学の一回生よ。つまりあなたと同じ年」
「は、はあ」
未完成交響曲の未完で〈ひでひろ〉?
それはいったいどういう読み方ですか?
「ひで。ごあいさつなさいな」
「こんにちは。足川未完です」
おとなしそうな感じの娘だ。
「夏休みで帰ってきたの。でも田舎は退屈らしいから、ちょっと相手をしてあげてね。それじゃ」
「え?」
女の子を残して、未成さんは帰ってしまった。
どうしろっていうの?
「野枝が去ったと思えば、今度は未完か。まったくお前というやつは」
オレのせい?
この事態はオレのせいなんですか?
「ちくしょう。暑っちいなー。おい、コーラねえのか」
はい?
今のご発言は、どなたが?
「ぼけっとしてんじゃねえぞ、この野郎。さっさとコーラ出しな」
未完さんでした。
「い、いや。コーラはないんだ」
「なんでえ。しけてやんなあ。ああ、暑っちー」
そう言いながら未完さんは、服の襟を左手で開いて右手を扇にして風を送り込みつつ、家のなかに上がっていった。
「ちぇっ。麦茶しかねえ。しかたねえ。我慢してやるよ。おい、コップどこだ」
「冷蔵庫の右側の戸棚じゃ」
「お、サンキュー」
なぜか三人で、ちゃぶ台を囲んで麦茶を飲むことになった。
「ふわあ。まあ、田舎にゃ田舎のよさがあるよな。まったり感っていうかさあ」
「京都に帰ったらどうですか」
「おい、鈴太。あたしを邪魔者扱いにすんじゃねえよ」
「いや、邪魔者ですから」
「はっはっはっはっはっ。こんな美人をつかまえて、その言いぐさはねえだろう」
「すいません。事情があって、いっぱいいっぱいなんです。お帰り願えませんか」
「その顔色みりゃ、わかるよ。今度は何に取り憑かれてんだ?」
「今度は?」
「あんた、成三さんの幽霊にからまれてただろ?」
「ぶふうーーーーーっ」
「きっ、汚ったねえなあ! 何しやがんだ!」
「ほう。おなごに茶を吹きかけるとは。大胆なアプローチじゃな」
「げほっ、げほっ、げほっ」
「お、おい? だいじょうぶか?」
「しかも同情を引くとは、恐るべき精進。さすがじゃ」
「天子さん、あんた親戚なんだろ? 鈴太に冷たくないか?」
「親戚ではないのう。赤の他人というわけでもないが」
「はあ? なんだそりゃ」
未完さんも〈みえる〉側だったんだ。
あの場面で成三さんのぶらり火が、ちゃんとみえてたらしい。
そして母親である未成さんは、末娘のそういう体質を知ってた。
ぼくから、あのときの真実について話を聞いた未成さんは、それをラインで未完さんに伝えた。つまり、悪霊になりかけた成三さんをぼくが説得して、家族にお礼を言ってから成仏させたことをだ。
大いに興味を引かれた未完さんは、大学最初の夏休みに、ぼくのようすをみに、わざわざ帰郷したというわけだ。
「おい。そろそろ腹が減らねえか?」
食事してく気まんまんですね。
「今日は鈴太が炊事当番なのじゃ」
「へえっ。鈴太、めし作れんのか。女子力高えっ」
「何とでも言ってください。そうめんでいいね」
「おお。そうめんは大好物じゃ」
「きりっと冷やして頼まあ」
「油揚げは大盛りがいいのです」
「なんだ、このちっこいの? 鈴太の妹か? 油揚げが好物なのか?」
あ、みえるんですね。聞こえるんですね。
ぼくはさっさと食事の準備をした。
「うめえっ。なんだこのうまさは」
「これ、汁を飛ばすな。おなごのくせに行儀の悪い」
「うめえんだから、しかたねえだろ。おい、鈴太。これ、どこのそうめんだ?」
「鴨方そうめんだよ」
「でかした! やっぱりそうめんは鴨方だよな。それでこそ岡山県人だ」
いや、ぼくは岡山県人じゃ……いや、今は岡山県人なのか?
「麺つゆにつかったちび油揚げも風情があるのです」
はいはい。ちびっこは満腹になったらお社に帰りましょうね。
ぼくの願いは聞き届けられたようで、童女妖怪はさっさと消えた。
「ふうー。食後は熱い茶がうめえな」
「あぐらをかくな。下着がみえる」
「みせてんだよ」
「なんじゃ。そなた、鈴太に気があるのか」
「あたしは、こんな体質だからさあ。本気で腹割って話せるダチがいねえんだよ。小せえころからそうだった。だから、鈴太みたいな……」
「そんなことはないよ」
「えっ?」
「あやかしがみえるとか、みえないとか。そんなことは、友達になったり、心を許して話し合ったりするのに、ほとんど何の関係もないんだ」
「お、おう」
「そんな理由で人に心を開かないなんて、ばからしいよ。絶対音感を持った人は、世の中のすべての音が音符に置き換わって感じるかもしれないけど、それはその人の人間としての魅力に直接は関係ない」
「そ、それはそうかもしれないけどさ」
「心を開かない理由なんて、いくらでも思いつく。でもそれは、自分の臆病さをごまかしてるのと、どうちがうの?」
「いきなりきついとこ突くなあ」
「好きになった人がいるなら、ぶつかってみなきゃ。それでだめだったら、それは運命の人じゃなかったってことなんだ」
「鈴太よ。急に雄弁じゃの」
「出会ってしまったら、出会って運命を感じてしまったら、その人に思いを打ち明けるべきなんだ。相手が年上だろうが、自分より経験豊かだろうが、あるいは人種がちがおうが、国籍がちがおうが、そんなことは関係ないんだ」
「お、お前」
「なに?」
「じょ、情熱的なんだな」
「いや、そういうわけでもないけど」
「あ、あたしなんかの、どこがそんなに気に入ったんだ?」
「え?」
「ちくしょう。また来るぜ」
顔を赤くして、未完さんは去っていった。
ぼくは呆然として、その後ろ姿をみおくった。
「天子さん。ぼくは何をまちがえたんだろう」
「うーむ。何をまちがえたわけでもないと思うが。妙なことになったの」
「押してはいけないスイッチを押してしまったような気がする」
「ま、運命じゃろう」
「ひどいよ、天子さん!」
「今出てったの、足川さんちの未完ちゃんじゃなかった?」
「山口さん!」
「ふふ。こんにちは。あら、そうめん? おいしそうねえ。鈴太さあん、私、お昼ご飯まだなの」
背中に天子さんの冷たい視線を感じながら、ぼくは山口さんにそうめんをふるまった。
ほかにどうしろっていうんだ!
その夜も悪夢はやって来た。
次の日も山口さんと未完さんはやって来た。
次の夜も悪夢はやって来た。
これで七夜連続で悪夢にうなされたことになる。
鏡のなかのぼくは、いよいよやつれきっていた。
そんな日、思ってもみない人から電話がかかってきたんだ。




