中編1
2
そのあとも相談がしばらく続き、結局、溜石の位置の確認は明日以降ということにして、今日はいったん乾物屋に帰った。案の定、留守のあいだに配達の注文が七件もあった。お金を置いて商品を持って行った人も同じぐらいいた。最近、けっこう商売が繁盛してるんだ。
「おや? 今日は野枝の伝言がないのう」
野枝さんは毎日来る。ぼくに会えなかった日は伝言を紙に書く。天子さんがいるときでも、なぜか天子さんには伝言せず紙に書く。〈お父ちゃんに会えなくて守生がさびしがってました〉とかいう内容で、読むだけで憑かれて、いや疲れてしまう。その伝言が今日はなかったということだから、これはいいことだ。いいことだよね?
商品のお社を取り出すと、童女妖怪は喜々として移住した。抜け殻になった軽石のお社もどきは、道端に置いておくことにする。
童女妖怪の新しいお社は、わが家の神様のお社の隣に安置することになった。ちょっと不本意だがしかたがない。
ぼくは大急ぎで七件の配達を済ませた。山口さんちの配達もあったけど、上がってお茶を飲ませてもらう時間はなかった。帰宅すると晩ご飯の用意がしてあって、天子さんは帰ったあとだった。
晩ご飯はいなり寿司だった。童女妖怪は涙を流しながら食べていた。食べ終わると、寝た。寝ると消えた。お社に戻ったのだろう。
そのすぐあと、電話があった。間島からだった。高校のときのクラスメートだ。
「おーい。元気?」
「うん、元気だよ」
少したわいもない雑談をしたあと、こんなことを間島は言った。
「そうそう。お前が住んでたおんぼろアパートな」
「こらこら。ぼくの城をおんぼろなんて言うな」
「すっげえ立派なマンションになったのな」
「えっ?」
「今日前を通ってさ。目を疑ったよ。前との落差に」
「マンション?」
「お前の伯父さん、金持ってたんだな」
電話を切ったあとも、間島の言葉が頭のなかでリフレインしていた。
〈お前の伯父さん、金持ってたんだな〉
そんなはずはない。
だって、伯父さんも伯母さんも、いつもいつも、お金がない、お金がないって言ってた。
本業のガソリンスタンドも、うまくいってなかった。そのようすはぼくも多少は知ってる。確かに、あまりもうかってる感じはしなかった。従業員も減らしてたし。
じゃあ、その立派なマンションを建てるお金は、どこから来たんだろう。
貯金してた?
それは貯金はしてただろう。だけど、本業がうまくいってないのに、そんなに貯金ができるもんだろうか?
まさか。
まさか。
心のなかに何とも言いがたい思いが渦巻きはじめた。
そのとき電話が鳴った。
新居達成さんからだった。
「夜分にすいません。実は父から頼まれまして」
「はあ?」
「お礼の品物を用意したので、大家さんの息子さんにあいさつに行ってくれっていうんです」
「ああ。なるほど」
「それと、兄さんは、たぶん何か月か家賃を払ってなかったはずだから、それも払ってくるようにと」
「あ、ほんとですね」
佐々成三さんは、通り魔に殺された。その遺品を大家さんの息子さんは律義に保管しててくれたんだけど、死んでからアパートが取り壊されるまで部屋はそのままだった。つまりそのあいだの家賃は払ってないことになる。今まで気づかなかった。
そこに気づいて、しかもわざわざ支払いをしようというんだから、佐々耀蔵さんもやっぱり義理堅い人だ。似たもの親子だな。
「それはそうと、ぼくのほうが年上だという誤解は解けたんですから、年下相手のしゃべり方でいいですよ」
「いや、もう、これが定着してしまいまして」
「それで、ご要件は?」
「あ、あのですね。できれば一緒に行っていただけないかと」
「一緒に? でも、もう相手の住んでる所も電車の乗り方もわかってますよね?」
「それはそうなんですが……」
「何か問題でも?」
「私は方向音痴ですし」
「スマホで地図を表示させたらいいんじゃないですか?」
「それに、何と言いますか」
「何なんですか?」
「東京は、通り魔が出るような所ですし」
「めったに出ません」
「あの、ご無理ですか?」
ずっと田舎暮らしに慣れてるから、大都会に行って人と会うということに気後れのようなものがあるのかもしれないな。
それにしても、溜石の件がある。今ぼくがここを離れていいとは思えない。
……だけど。
ぼくは間島の電話が気になってた。だから、ついこんな返事をしてしまった。
「いいですよ。一緒に行きます」
「ほ、ほんとですか? ありがとうございます!」
「それで、いつ行くんですか?」
「明日なら仕事が休めるんです」
「もうちょっと早く言ってくださいよ!」
「す、すいません。ごめんなさい」
なんでも、明後日から一か月間博多に出張なんだそうだ。
博多には一人で一か月行けるのに、たった一日東京に行くのは一人じゃだめなの?
それは博多に失礼でしょ。いや、東京に失礼なのかな?
達成さんは、そのあと、ほんとなら東京まで行くんだから何泊かしてゆっくり遊んでもらいたいんだけどと、くどくど言いわけをし始めた。
「いや、あの。ぼく、ずっと東京に住んでましたから、べつに今さらいいです。というより、ちょっとこっちで用事があって、早く帰れるなら、そのほうがありがたいんです」
「そ、そうですか。すいません。じゃあ、明日八時に車でお迎えにあがりますので」
「はいはい。八時ですね。それじゃ」
電話を切ったあと、天子さんに相談もせず東京行きを決めたのはまずかったかな、と不安になった。
でも、たった一日のことだしね。
一日やそこらで、何も起きるわけないよね。
ぼくは寝た。
だけど、ぐっすりとは寝られなかった。
父さんと母さんの保険金。
事故の相手の会社から出たという見舞金。
立派なマンションのこと。
寝たあと、すごく気味の悪い夢をみた気がする。
なにか、のたうちまわって苦しんだような気がする。
朝起きたときには、夢の内容は覚えていなかった。
ただ、布団が汗で湿っていた。相当汗をかいたみたいだ。
3
珍しいことに、今朝は天子さんが遅い。
神社の掃除をして、朝食を作って待ってたけど、なかなか来ない。
「そろそろ食べてあげないと、お味噌汁がかわいそうなのです」
「お前は、味噌汁の油揚げが食べたいだけだろ」
そのうち、達成さんが迎えに来た。
早いよ!
約束より三十分早いよ!
しかたないので、急いで朝食を食べ、書き置きをして家を出た。
急用で東京に行くこと。
今日中に帰って来ること。
それだけを書いた。
〈愛しの天子さんに〉と書き加えようかと一瞬思ったことは秘密だ。
達成さんの車で岡山駅に行った。
東京駅に着くのは一時過ぎになるので、祭り寿司を買って新幹線のなかで食べた。
「そういえば、先方には連絡してあるんですか?」
「うん」
そういうところは要領いいんだな。まあ、社会人なんだから、当たり前か。
何事もなく東京に着き、何事もなく電車を乗り継いで、何事もなく、大家さんの息子さんの家に着いた。
案の定というか、お土産は受け取ったけど、家賃は受け取ろうとしなかった。
達成さんは、これは父からの感謝の気持ちですし、滞納した家賃は支払って当然ですと食い下がった。
なるほどなあと思った。
もしも耀蔵さんが直接来てたら、お金はけっこうですと言われたとき、それで話が終わってしまう。でも、父から預かってきたんですといわれれば、ちょっぴり断りにくい。だから耀蔵さんは直接来なかったのかもしれない。
「いや。家賃の滞納といわれても、亡くなっておられたんですから、しかたないですよ。こうしてわざわざ持ってきていただいたお気持ちだけで充分です。第一、母が亡くなってしまって、家賃の扱いについてはちゃんとした記録がみあたらないんです。だから、滞納分がいくらかなんて、わからないんですよ」
こちらもうまい言い方だ。だけど帳面がないなんてことが、本当にあるだろうか。まあ、ここは、達成さんに援護射撃しておくか。
「あの、この前ここに来たとき、遺品を保管してくださってました。そのなかにアルバムがあって、それをみた佐々耀蔵さんは、感激してました」
「ああ。そういえば、ずっとアルバムをごらんになってましたね」
「どんな写真をみてるのかな、と後ろからのぞき込んだら、耀蔵さんと成三さんが二人で写った写真でした」
「あ、そうだったんですか」
「成三さんは、音楽で身を立てるという夢を耀蔵さんに認めてもらえず、勘当同然の状態で上京しました。そんな成三さんが通り魔に殺されたと知って、耀蔵さんは、とてもショックだったと思います。後悔でいっぱいだったと思います。ところが、ここであの写真をみた。自分を恨んでるだろうと思った息子が、二人で写った写真を持っていてくれた。それで耀蔵さんは救われたんじゃないでしょうか」
「そんなことがあったんですか」
「それもこれも、成三さんの遺品をちゃんと保管してくださったからのことです。あのアルバムは、耀蔵さんにとって、何物にも代え難い価値があったんです。その感謝の気持ちを、どうにかして伝えたかったんじゃないでしょうか」
ぼくの援護射撃はここまででよかった。
もう一度達成さんが、家賃の入った封筒を差し出すと、今度は大家さんの息子さんも受け取ってくれた。
しばらく、お茶を飲んで談笑して、ぼくたちは家をあとにした。
4
「いやあ。無理を言って羽振さんに来ていただいて、本当によかった」
もしかして、作戦のうち?
いや、そうじゃないな。
こっちに来てみてわかった。達成さんは、まだ兄である成三さんの死を、どう受け入れていいかわからないんだ。だから、お兄さんの死の匂いのする話題を、どう受け答えしていいかわからない。大家さんの息子さんとも、どういう話をしていいかわからない。できることといえばお礼と、父親の耀蔵さんから言付かった土産と家賃を差し出すだけ。
だから、ぼくにいてほしかったんだろう。これは、仕事で人と話をするのとは、まったく別のことなんだ。
「あれ? これ、駅への道とちがうんじゃありませんか?」
「あ、ちょっとだけ寄り道をします。一目みるだけですから」
「そうなんですか。どうぞ、どうぞ。まだまだ時間は余裕がありますから」
角を曲がって目に入ったものに、ぼくはあぜんとした。
何、これ?
もともと木造二階の二棟で、計十六部屋のアパートだった。
今は鉄筋三階の一棟で、計十二部屋のマンションが立ってる。
たった一階の差だけど、存在感は何倍もある。
マンションの前には駐車場があり、外側は高級感のある立木で囲まれてる。
別世界だな。
これ、相当お金がかかったはずだ。
あまりの光景に、ぼくが立ちつくしていると、後ろで物音がした。
伯母さんだ。
目が合った。
ぼくをみて驚いている。その表情に、恐怖に似たものを感じたのは気のせいだろうか。
その次に伯母さんが取った行動は、予想もしなかったものだった。
なんと、ぼくに声もかけず、声をかけるゆとりも与えず、くるりと振り向くと走って逃げたのだ。
「今の人、お知り合いですか?」
「知り合いにみえたんですけどね」
「羽振さん。この辺りでは、かなり恐れられてるんですね」
ちがうよ!
5
車で乾物屋の前まで送ってもらったときには、もう夜の十一時半を過ぎていた。
最近すっかり朝型になってるぼくは、眠たくてしかたがない。風呂にも入らず、倒れるように寝た。ありがたいことに、布団は敷いてあった。
(天子さん。ありがとう)
幸福感に包まれて寝入ったはずだった。
だけど、その夜の眠りは気持のいい眠りじゃなかった。
とんでもない悪夢をみた。
ぼくは一匹の獣だった。
憎しみを込めて凶悪な目つきで獲物をにらみつけ、牙をむき出しにして、ぐるる、ぐるると、うなっている。
獲物は伯母さんだ。
その後ろには伯父さんもいる。
二人は恐怖のあまり、言葉もない。
さんざんに恐怖を味わわせたあと、ぼくは伯母さんの喉笛をかみ切る。
恐怖が絶望に変わる瞬間の表情は、ほんの少しだけ、ぼくの復讐心を満足させる。
だけど、こんなもんじゃない。
こんなもんじゃすませない。
ぼくは、原告席にいた。
被告席にいるのは伯母さんだ。
その後ろには伯父さんもいる。
裁判官は、閻魔さまだ。
西遊記の挿絵でみた閻魔大王であり、鎌倉のどこかのお寺でみた十王だ。
毛むくじゃらの手に、真っ赤な顔。ぎょろりとした恐ろしい目。口のなかには巨大な牙がのぞいている。
ぼくは被告たちの罪科を並べ立てる。
そのたびに、閻魔さまの形相は憤怒を加える。
被告席の伯母さんは、言い訳をまくしたてる。獄吏の鬼が、棘のついた金棒で伯母さんをこづいて黙らせる。ぼくは口の端に愉悦のかけらを浮かべる。
そして伯母さんと伯父さんは、八大地獄を引き回され、この世のものとは思えない悲鳴を上げ続ける。
ぼくはスライムだった。
ただのスライムではない。あるものの捕食に特化したスライムだ。
何の捕食かって?
金だ。
ぼくは金を食う。札束が好物だが、コインも食う。貯金通帳も証券も食う。
伯母さんの家の闇に潜んで、札束を、コインを、カードや通帳や金券をみつけると姿をあらわし、ばくりと食って闇に帰る。
伯母さんは、最初はとまどい、次にあわて、そして絶望した。
集金人が来ても金を払えない。買い物に行こうにもカードも現金もみあたらない。置いていたはずの場所に通帳がない。
やがて金を払え、という催促が来るようになる。手紙で、電話で。困った伯母さんは借金する。これで払えると思ったら、借りてきた金がなくなっている。ぼくが食べたからだ。伯母さんは、金を求めて家中をひっくり返しはじめる。引き出しを抜き取り、壁紙を剥がし、床に穴を開けて金を探す。やがて廃墟のようになった家のなかに座り込み、狂ったように笑い始める。
ぼくは詐欺師だ。
ぼくは査察官だ。
ぼくは極道だ。
ぼくは警察官だ。
ぼくは弁護士だ。
ぼくは魔獣だ。
ありとあらゆる姿をとって、ありとあらゆる方法で、ぼくは伯母さんを責め立てる。
伯母さんが不当に奪ったものを奪い返すために。
伯母さんが不当に得た幸せを徹底的に壊すために。
伯母さんの欲しがるものを取り上げるために。
伯母さんの尊大さを、不寛容を、価値観を、身分を、立場を、すべて否定し尽くすために。
だけど、どんなに伯母さんから金や物を奪っても。
幸福や充足を奪い去っても。
どれほどその血で喉をうるおしても。
ぼくの乾きは癒されない。
まだだ。
まだ足りない。
まだまだ全然足りない。
復讐は、これからだ。
6
憂鬱な目覚めだった。
頭は、強く揺さぶられたあとみたいに不快で不調だし、体は重い。
起きるのに、こんなに気力と時間を要したなんて、はじめてじゃないだろうか。
(とんでもない夢だったなあ)
あんな夢をみたということは、ぼくは伯母さんを憎んでいるんだろうか。
自分の心のなかがわからない。
確かにもやもやしたものはある。
もともとぼくは、伯母さんにはいい感情を持ってなかった。
それは伯母さんがぼくにつらく当たってきたからだ。ことさらに迷惑顔をしたり、ことさらに恩着せがましいことを言ったり、さりげなく、ぼくがつらくなるようなことを仕掛けてきたからだ。
それに加えて、父さんと母さんの保険金と見舞金のことを知った。
本来ぼくに権利があるお金なのに、伯母さんと伯父さんが受け取って、しかもそのことをぼくに教えてもくれていない。
そしてたぶん、そのお金を勝手に使ってる。
でも、だからといって、殺したいほど憎んでいるとは。
もしも夢でみたものが、ぼくの願望の表れなんだとしたら、とんでもない恨みを伯母さんに抱いてることになる。
いや。
いくらなんでも、そんなことはない。
これはきっと、あれだ。
カタルシスだ。
苦しんでいる伯母さんの姿を夢にみることで、ぼくの心のバランスを取ろうとしてるんだ。ぼく自身の内側から、そういう働きが起こってきたんだ。
そう考えると、少し心が楽になった。
そういえば、殿村さんから、保険金と見舞金のことを聞いて以来、夜が寝苦しいし、時々そのことを思い出して、荒々しい気分になる。いろんなものを投げ出して、どこかに引きこもりたいような気分になる。なんかもう、そのことを思い出させられるだけで、げんなりして、しんなりして、ほっといてくれ、っていう気分になる。そこにさわられるだけで痛い心の傷だ。
考えてみれば、これってひどい話だと思う。
ぼくは被害者だよ。
あっちは、いわば加害者だ。
なのに、被害を受けたぼくのほうが、その出来事を思い出すだけで、恐れおののいて、みじめな気分を味わってるんだよ。おかしいよね。
あっちは、どうなんだろう。
たぶんあっちは、こちらの苦しみなんか知りもしないで、そのお金で……。
やめよう。
考えれば考えるほど気分が悪くなる。いらついてくる。みじめな気分になる。
何にも得るところはない。
忘れてしまえ。
忘れてしまえばいいんだ。




