中編1
3
「……ない」
「……どこに行ったのじゃ?」
まさかほんとに紛失してるとは。
どうすればいいんだろう、この事態。
確かに、なかをみるべきだと言ったのはぼくだけど、まさかほんとに異常事態が起きてるなんて、想定外もいいところだ。
「あの……なかには、何が入っていたんですか?」
「護符じゃ」
「おぬしのご先祖が作った護符が一枚、安置されておったのじゃ」
「護符って、紙ですか?」
「木じゃ。木に墨で文字が書かれておった」
「文字って?」
「表側には十二文字。これは神代文字で、わしにも読めなんだ。裏側には、上に六文字あって、これも神代文字じゃ。その下に漢字で〈急急如律令〉と書かれておる」
「きゅうきゅうにょりつりょう……」
なんだろう。
のうみそが、ちくちくうずうずする。
何かの記憶が出てきたがってる。
なんだろう。
ぼくは何かを知っている。
なんだろう。
「あっ!!」
ぼくは神社を飛び出した。
上がり口のところで、スニーカーを素早く履くと、家に向かってダッシュした。
運動不足がたたって、家に着いたときは、足がよろよろだった。
はあはあと弾む息を整えるのももどかしく、押入にしまい込んだ箱を出した。
これじゃない。
これでもない。
もっと奧だ。
あった。
何重にも何重にも厳重に包装されてしまいこまれた、それでいて包み方はちょっと雑な……これだ。
すっかり黒ずんだ木の板だけど、墨で何かが書いてあるのはわかる。
謎の記号だ。片側は読めない。
反対側の下のほうには、〈急急如律令〉と書いてある。これを〈きゅうきゅうにょりつりょう〉と読むんじゃないだろうか。
ぼくは板きれを簡単に包み直すと、それを持って自転車で神社に急いだ。
「おお。戻ったか。急にどうしたのじゃ」
「天狐よ。鈴太の荷物から、ただならぬ気配がただよっておる」
ぼくは自転車の籠から紙袋を出し、そのなかから木の板を出した。
「おお!」
「これじゃ! これこそが」
「やっぱり、これだったんですね」
「いったい、どこにあったのじゃ」
「押入のなかに」
「は?」
「なに?」
「あの、これ、とりあえず箱のなかに戻しましょうか?」
「そうじゃ」
「唐櫃のなかに、疾く収めよ」
「とく?」
「いいから」
この足つきの木の箱は、〈からひつ〉とかいうみたいだ。まあ、名前なんてどうでもいいけど。
4
「すると、護符は、おぬしの母の遺品のなかにあったのか」
「うん。これは絶対に手放すなって。お前が幸せになるために必要なものだからって、母さんはそう言ってた。中身はみたことなかったんだけど、引っ越しのとき、一度開けてみたんだ」
「なるほど。それで〈急急如律令〉という文言に反応したのじゃな。しかし鈴太よ。お前の母が、いったいいつこれを持ち出したというのじゃ」
「あ、和尚さん。そのことなんですけど、実は先日、秀さんから、妙なことを言われたんです」
ぼくは、秀さんから聞いた話を二人に話した。
つまり、父さんと母さんが、二歳のぼくをつれてこの村を出てから二年か三年かあとに、母さんとぼくだけがこの村に戻ってきた、という話だ。
「弓彦抜きで、鶴枝とお前だけが、じゃと。それは妙な話じゃ」
「鶴枝とおぬしがこの里に帰るなら、弓彦が同行せぬわけはない。大病でもせぬかぎりのう」
「天狐よ。この話を知っておったか?」
「知らぬ。はじめて聞いた。もしも鶴枝がそのとき幣蔵を訪ねたのじゃとしたら、わらわが知らぬということはないと思う」
「では鶴枝は、幣蔵にも内緒でこの村に帰ってきたことになるのう」
それから二人は黙り込んでしまった。
沈黙をやぶったのは、ぼくだった。
「この神社を最初にみたとき、なんだかとってもなつかしい感じがしたんだ。温かいものに抱かれているような」
「温かいもの?」
「うん。だけど、二歳のときに村を出たんなら、そんな記憶があるわけないから、気のせいだと考えたんだけど」
「四歳か五歳なら、記憶に残っても不思議はないのう。もしやその温かいものとは、おぬしの母かもしれぬ」
「うん。ぼくもそう思ったんだ。この神社で母さんに抱きしめられた記憶が心の底に眠っていて、神社をみてその感情がよみがえったんじゃないかって」
「天狐よ。整理してみよう。まず、この護符にさわれるのは、〈はふり〉の者だけじゃ。この場合、幣蔵か弓彦か鈴太の三人だけじゃ」
「幣蔵が護符を持ち出して弓彦に預けたなどとは考えられぬ」
「うむ。それは〈はふり〉の者とわれらが千年以上務めてきた役割を無為にすることじゃからなあ。幣蔵は、そんなことはすまい」
「わらわは、弓彦が護符のことを知っておったとは思わぬ。とすれば、弓彦が護符を持ち出す理由もない」
「手がかりになるのは、秀の言葉じゃ。鈴太が四歳か五歳のとき、鶴枝に連れられて里を訪れたという。しかも幣蔵の所には顔を出しておらん。何か困ったことでもあって、弓彦と一緒に来ることができなかったとして、相談する相手は幣蔵しかない」
「十中八九、狙いは護符であろうな。逆にいえば、じゃから弓彦にも内緒で来たのじゃ。しかし、鶴枝は護符のことを誰から聞いたのじゃ。なぜ鶴枝は護符を持ち去ったのじゃ」
「あの、お二人の話についていけないんですが。母さんが護符にさわることができたんですか」
「できぬ」
「もちろん、できんじゃろう」
「なら、どうして母さんが疑われてるんですか?」
「おぬしじゃ」
「鶴枝は、たぶんお前を抱き上げて、お前に命じて護符を唐櫃から取り出させ、何重にも包装させたのじゃ」
「あ」
考えてみれば、そうにちがいない。
おじいちゃんも父さんも、大切な護符を勝手に運び出したりしない。つまりぼくが犯人なんだ。
なんてことだ。
「だけど、母さんは、なんでそんなことをぼくにさせたんだろう」
「誰かに暗示をかけられた、とわらわは考えるが、法師どのはどうか」
「わしも同じじゃなあ。ただだましたとか、嘘を吹き込んだとかいうようなことでは、弓彦にも黙ってそれを行ったことが説明できんし、わざわざこの里に来て幣蔵にあいさつもせなんだのも、正常な状態の鶴枝では考えられん。あれはそういう女ではない」
「暗示をかけた者は、護符の意味を知っておったのであろうかのう」
「そうでなければ、古くさい木の板一枚を、わざわざ手間暇かけて神社から盗み出す理由がない」
「あ、あの。誰かが母さんを催眠術で操ったっていうことですよね。でも、護符が邪魔だったんなら、どうして捨てたり燃やしたりさせなかったんです?」
「今日のおぬしは、頭の働きが悪いのかえ? 暗示というものは、かけられた者が心底やりたくないことをさせることはむずかしい」
「そういうことよ。鶴枝も、暗示で動くその下側の無意識では、あれが何か大事なものだということはわかっておった。たぶん敵は、そこを逆手にとった」
「逆手って何ですか?」
「ほれ、お前が言うたではないか。この板は、お前が幸せになるために必要なものじゃと、お前の母は言うたのであろう」
「あっ」
「積神社の、いや地守神社の祭壇にある護符は、鈴太の物であり、鈴太が幸せになるために必要なものだから受け取りに行け、と暗示をかければ、無意識の抵抗にあわず、暗示に従わせることができる。というより積極的に行動させることができる」
「その誰やらにしてみれば、護符を神社から取り去ってしまいさえすれば、あとはどうなろうとかまわなんだのであろうの」
ここにきて、硬直していたぼくの脳みそが、働きを始めた。
何かがおかしい。
何かが不自然だ。
いったい何が不自然なんだ?
「あっ」
「どうした? 鈴太」
「何か思い出したかのう?」
「なぜ、なぜ、どうして」
「なぜ?」
「どうして?」
「なぜ、どうして、和尚さんも、天子さんも、護符がないのに気づかなかったんだ?」
「それは……」
「不覚というほかないのう」
「それは、異常が起きなかったからだ」
「なに?」
「鈴太、何が言いたい?」
「異常が起きなかった。これは異常なことだ」
「異常が起きないのが」
「異常じゃと?」
「護符が失われたら、荒御霊を封じた神鏡は、たくさんの妖気を放出したはずなんだ。ところが和尚さんも天子さんも、そのことに気づかなかった。妖怪が増えなかったからだ」
「あっ」
「待て待て。妖怪が……増えなかった……から?」
「十六年前か十五年前、護符が持ち去られた。そのときから、妖気の放出は格段に増加したはずだ。当然、数多くの強力な妖怪が出現するはずだった。でもそんなことはなかった。逆に、ここ十数年は、ほとんど妖怪が出現しなかったし、したとしてもごく弱い妖怪だった」
「確かにそうじゃ」
「うむ。ここ十数年は、ろくにあやかしが出なかった。しかし、護符が失われていたのじゃから、確かにそれはおかしい」
「その妖気はどこにいったんだ?」
和尚さんも天子さんも、黙り込んでしまった。
ぼくは言葉を続けた。
「一つはっきりしたのは、敵がいるということだ。千二百年間現れなかった敵が」
今やぼくの頭のなかは、完全にクリアだ。一つ一つ言葉にして整理しながら、思考を進めてゆく。
「その敵は、十数年前、突然現れたのか? いや、ちがう。なぜなら、異変が始まったのは百何十年か前だ。そのころから、妖怪が現れる数が減り、現れたとしても、たいした力の妖怪ではなかった。そう天子さんは言った」
和尚さんも、天子さんも、じっとぼくのほうをみつめている。
「そのころから始まっていたんだ。ぼくたちの敵は、百数十年前から、妖気を吸い続けていたんだ」
ぼくは思考をさらに推し進めた。
「敵は強くなった。だけど、もっとたくさんの妖気が欲しかった。だから、父さんと母さんとぼくが結界の外に出たことは、その敵にとって千載一遇のチャンスだった。敵は母さんを操り、ぼくを使って護符を持ち去らせた。その結果、それまでとは比べものにならないほど濃い妖気が発生した。敵はそれをまんまと吸い取った」
「ま、待て、鈴太」
「なに? 天子さん」
「百数十年のあいだ結界にたまった妖気を吸っただけでも大変な妖気の量じゃ。それに加えて、護符がなくなってからの妖気の量といえば、いったいどれほどの量と濃さなのか、ちょっと見当がつかんほどじゃ、それを」
「それを?」
「それを吸えるような妖怪など」
「いないの?」
「……いたとすれば、とてつもない大妖怪じゃ」
「うむむむむ。鈴太よ」
「はい」
「実は、大昔のことじゃが、あふれ出る妖気を、天狐とわしで吸ってしまおうという話をした」
「和尚さんや天子さんにも吸えるんですね?」
「吸える。じゃが、よこしまな気を吸い続ければ、わしも天狐も邪妖に堕ちてしまうかもしれぬ。そう思えば、その道は選べなんだ」
「はい」
「ただし、わしにしても天狐にしても、一人で吸えるのは百年がせいぜいで、じゃから、どこかで妖気を放出しながら吸い続けることになる」
「はい」
「もしその敵とやらが、百何十年の妖気を吸い続け、ここ十数年の、おそらく濃密じゃったはずの妖気も吸い続けておるとしたら」
「としたら?」
「その敵は、わしや天狐より格上の妖怪であり、しかも想像もつかんほどの力をたくわえておることになる」
三人とも言葉を失った。
長いあいだ、沈黙が続いた。
ぼくは話を前に進めるために再び言葉を発したけど、その声は少し枯れていた。
「さっきの話は、仮定の話であり、可能性の話です。物証といえるものはなく、状況証拠に推測を重ねただけのことです。敵なんかいなくて、母さんがノイローゼになって護符を持ち去っただけのことかもしれないし、百数十年前からの妖怪の減少も、長い目でみれば誤差程度のことなのかもしれません」
そう言ってみたが、自分でも説得力のない発言だと思った。
ノイローゼになったからといって、神社の護符を盗みにこんな山奥まで来るはずがない。それがどんなに強力で大切な護符かなんて、母さんは知らなかったんだから。
「ただ、最悪の状況を想定して備えをすれば、どんな状況にも対応できるはずです。だからぼくたちは、最悪の想定に基づいて、調査と準備を進めなければなりません」
「調査と」
「準備じゃと?」
「はい」
「それはどういう意味であろうかの」
「何を調べ、準備できるというんじゃ」
「まず、ひでり神さまを訪ねないといけません」
「……なるほど」
「む。法師どの。わらわにはわからん」
「わからんか。護符が十年以上にわたって失われておったんじゃぞ」
「あ」
「ひでり神さまのお身に、何かさわりがないか、お尋ねせねばならん。そこに気がつかなんだとは、われながらうかつ」
「ふふ。鈴太の思考力は、なかなかのものであろう?」
「なんでお前が自慢げなんじゃ」
「体調に変化がないか訊きます。そのうえで、なお尋ねてみましょう」
「ほう」
「何をじゃ?」
「石は何個積めたのか。いつごろ満願成就の日が来るのか」
「なるほど」
「少なくとも、われらよりは見通しが立っておられよう。それにしても、ひどく弱っておられるのでなければよいのじゃが」
「今朝も、石を積みに神社に来ておられました。歩けないほど衰弱もしておられないし、平常心を保てないほど心が乱れているようすでもありませんでした」
「おお!」
「それはよかった」
「敵がどこまでの情報を持っているかわかりませんが、少なくとも、いつが満願成就かを知っているとは思えません。そこについて情報が得られれば、こちらは、その情報に基づいて作戦を立てられます」
「うむ」
「まさにそうじゃ」
「さて、お二人は、ひでり神さまの住んでいる場所を知ってますね?」
「むろんじゃ」
「訪ねたことはないがのう」
「では、行きましょう」
「うむ」
「おう」




