前編
1
夜明け前に目がさめた。
三時間も寝ていない。
それなのに、すっと目がさめてしまった。
(ずいぶん早く起きちゃったなあ)
昨日のことを思い出してみる。
鈴太の腕のなかに、確かに天子さんがいた。
そのかぐわしさ。
そのか細さ。
意外に豊満な胸。
そして、あのくちびる……
(うへへへへへへへへっ)
あれは、本当にあった出来事なのだろうか。
現実とは思えないほど、素晴らしい出来事だった。
ほんとに夢のなかのことのようだった。
(待てよ……)
突然、ぼくは、自分が何を言い、何をしでかしたかを思い出した。
いきなり彼女の両肩をつかんで、ぼくはこう言った。
〈ぼくは天子さんと一緒に戦う。天子さんとともに進む〉
〈だから、天子さん。使命が終わったら消えるなんて言うな〉
〈ぼくとともに生きろ〉
〈ぼくは君のために生きる。君はぼくのために生きろ〉
〈ぼくは君が好きだ。君もぼくを好きになれ〉
そして、彼女の体を強引に引き寄せ……
「うわあああああああああ!」
思わず叫んだ。
叫びながら、布団の上でのたうち回った。
(なんてことを! なんてことを!)
(あんな恥ずかしいセリフを言うなんて!)
(あんなことをしでかすなんて!)
ぼくは昨日の自分を責めた。
責めて責めて責めまくった。
それにしても、われながらふしぎだ。
ぼくは対人関係には、かなり臆病なほうだ。
けっこう長い付き合いの友人でも、こちらの心のなかには踏み込ませないし、あちらの生活に踏み込んだりしない。
たぶん、人から決定的にきらわれたり憎まれたりすることに耐えられないからだ。
そんなぼくが、昨夜はあんなにも大胆なふるまいに出た。
いったいどうして、あんなことをしてしまったんだろう。
相手の気持も確かめずに、一方的に気持をぶちまけ、強引にくちびるを奪うなんて。
くちびる。
天子さんのくちびる。
(うわああああああああ!)
思い出すな。
これ以上、思い出しちゃいけない。
天子さんのくちびる。
(うわああああああああ!)
「だめだ。寝てなんかいられない。起きよう」
起きて顔を洗ってジャージに着替え、神社の掃除道具一式を持って家を出た。
まだ夜が明けきっていないが、白澤山の向こうにある朝日の光が、山の端をへて村をぼんやり照らしている。幻想的な景色だ。樹恩の森からあふれ出た霧が、こうやって歩く足元にも流れている。
(うわあ。夜明けは、こんなにいい景色だったんだ)
歩くには充分な明るさだ。ぼくはとぼとぼ神社に向かって歩きながら、考えごとをした。
天子さんに、ともに戦うといった自分の気持ちに嘘はない。
どうしてそんな気持ちになったのか、自分でもよくわからないけど、天子さんがどうこうとかいう前に、これは避けて通れない道なんだという感じがしてる。
(なんで、そこでやめておかなかったかなあ……)
ともに戦う。
それはいい。
うん。
かっこいい。
だけど、その次のセリフが、もうなんというか台なしだ。
〈ぼくとともに生きろ〉
〈ぼくは君のために生きる。君はぼくのために生きろ〉
〈ぼくは君が好きだ。君もぼくを好きになれ〉
どっから出てきたんだ、こんなセリフ!
(ああ。もうダメだ)
もう天子さんに顔は合わせられない。
というか、もう今日から来ないかもしれない。
なんであんなことしちゃったのかなあ。
(あ、でも)
ぼくが抱きしめたとき、天子さんは、ぼくの背中に手を回してた。
つまり、天子さんもぼくを抱きしめ返してたんだ。
ということは……
(いや。ちがうだろうなあ)
あれは好意の表れとか、抱きしめ返したとかじゃなく、とっさのことでどうしようもなく、ただ反射的にそうしただけのことなんだろう。
(いやいや。でも考えてみると)
考えてみると、天子さんは、悲鳴をあげたり、ぼくを突き放したり、ひっぱたいたり、神通力でこらしめたりしなかった。ということは、好意がある、ということなんだ!
(そんなはずないか)
やっぱり、そんなことあるわけない。だって、天子さんがぼくを好きになるような要素が、何一つない。ぼくが天子さんを好きになる要素は、いっぱいあっても。
寝床を整えたり、おいしい味噌汁を作ってくれた天子さん。
桜吹雪のなかで、天女のような舞いをみせてくれた天子さん。
いつも後ろにいて、ぼくをみまもってくれていた天子さん。
〈やまびこ〉のときだって、ずっと一緒にいてくれた。
〈こなきじじい〉のときだって、ずっと支えてくれた。
だいたい、天子さんは、千年以上にわたってご先祖さまたちをみまもってきてくれた人だ。千年のあいだには、ずいぶん格好いいご先祖さまだっていたにちがいない。そんな人と比べたら、ぼくなんて。
それにしても、美しかった。
昨日の夜の天子さんは、人間とは思えないほど奇麗だった。
あ。人間じゃないのか。
ほんとに、何ていうか、森の精というか。
そういえば、そんなことも言ってたような気がする。もともと森の精のような存在だって。
エルフだな。
うん、エルフだ。
天子さんがエルフだとすると、持言、じゃなかった呪禁和尚さんは、何になるんだろう。
オークだな。あ、魔法を使うから、オークメイジか。
そんなたわいもないことを考えてるうちに、神社の近くまでついていたので、ふと目を上げて、目に入った光景に言葉を失った。
雲海だ。
いや、実際には霧かもやなんだろうけど、まるで雲海だ。
三山の懐に抱かれて、樹恩の森から雲が湧き出て、その雲のなかに神社が浮かんでいる。そんな景色が目の前にある。
神社の敷地は、村から少し飛び出している。その両側と後ろは切り立った崖になっていて、下には樹恩の森が広がっている。
神社の後ろ側は、森がせり上がってきていて、森と神社との落差は十数メートルしかない。その向こう側はなだらかな下り坂になっていて、広大な森は、神社からみると、けっこう低い位置にあるように感じる。
木の高さは均一じゃない。だから、まるで雲みたいにみえる濃密な霧のなかから、ところどころにこんもりした木のてっぺんが突き出していて、その下に続く樹影がぼんやりと浮かんでいる。
天空の神社か。
これ、もしかしたら、すごい観光地にできるかも。
しようとは思わないけどね。
境内への階段を上がったぼくは、神社の正面にある石の八足に、やわらかな光を放つものが載っているのをみつけた。
「これが、積み石か」
ひでり神さまの、贖罪の石。つぐないの石。
これを四十何万個だったか、ひでり神さまのために死んでしまった人の数だけ積み上げたとき、罪は許され、死んでしまった人たちは成仏し、ひでり神さまは天界に帰れる。
(こんな形をした石だったんだ)
丸い宝石のような形なんだろうと、何となく思ってたけど、ちがった。
ごつごつしている。
しかも、そんなに大きくない。
考えてみたら、あんまり大きな石だと運べないし、丸い石だと積み上げられない。
このぐらいの大きさで、こういう形なのが妥当なんだろうな。
ぼんやりと発光している。やさしい光だけど、みかたによっては寂しい光にみえるかもしれない。この世のものではないことを教えてくれる光だ。
後ろに人の気配がした。
振り返ってみると、艶さんが、つまりひでり神さまが、境内地に上ってきたところだった。
艶さんは、老人のような足取りで、こちらにやって来る。
ぼくは道を開けた。
艶さんは、ぼくに会釈して、前を通り過ぎ、神社の正面まで進み、八足の前でしゃがみこんで何事かを祈った。
そして、八足の上の積み石を押し頂くと、神社の後ろ側に回っていった。
今ならば、ぼくにも隠された階段がみえるような気がする。
今すぐ神社の後ろ側に回り込めば、そこには階段が現れているような気がする。
けれども、もちろん、ぼくはそんなことはしなかった。
それは、ぼくが踏み込んでいい場所じゃない。
ぼくは神社の掃除に取りかかった。
終わるころには、すっかり太陽が昇りきっていて、早朝の神秘的な景色は、まるでまぼろしだったように感じた。
2
帰り道でもいろいろ考え事をしていたので、家に帰って朝食の準備を整えた天子さんに会ったとき、思わずふつうにあいさつした。
「あ、おはよう」
「うむ。おはよう。食事にしよう」
「うん。手を洗ってくるね」
(よかった!)
心からそう思った。
そもそも天子さんが今朝来てくれなかったらどうしようとか、どんな顔で会えばいいんだとか、どう声をかければいいんだとか悩んでたけど、一気に突破しちゃったよ。
朝食の途中、つい、ちらちらと天子さんの顔をみてしまったのはしかたがない。しかたがないったら、しかたがない。
食後のまったりタイムは、今朝はなしだ。
「転輪寺に行くぞ」
「うん」
道中で、こんな話が出た。
「そういえば、鈴太」
「なに?」
「〈子無き地蔵〉のことじゃがな」
「うん」
「あれはたぶん、最近持ち込まれたものではない」
「え?」
「この結界のなかで、あれだけの妖気がたまるには、相当に長い時間が必要なのじゃ。じゃからあの溜石は、何十年も前に持ち込まれたものかもしれぬ」
「そうなんだ。そんなに古そうにはみえなかったけど。じゃあ、誰が持ち込んだかなんて、今さら村のなかで訊いて回ってもわからないかもしれないね」
「うむ」
転輪寺についたぼくたちは、和尚の私室に通された。
「二人そろうて何の用じゃな」
「鈴太にこの里の成り立ちと、われらの役目について話した。近頃の奇妙な動きについても話した」
「ほう。ついに話したか。重畳、重畳。これで遠慮なく相談事もできるというものじゃ」
「鈴太。そんな後ろのほうにいないで、もっと前に出よ」
「う、うん」
といっても、呪禁和尚さんは、すごく大きくて、なんか圧倒されちゃうんだよ。今さらだけどね。
その他大勢でいられるときはよかったけど、なんかあらためて羽振一族を代表してみたいな目でみられると、とっても居心地が悪い。
「どうしたのじゃ。ゆうべの大胆さはどこに消えた」
「ゆうべ?」
天子さんが、とんでもないことを口走った。
和尚さんが、すかさず突っ込みを入れた。
「まあよい。それで法師どの。鈴太が言うには、まず神社の封印の護符を改めるべきじゃというのじゃ」
「封印の護符を?」
「そうじゃ。鈴太」
「は、はひっ」
「……舌をかんだか?」
「ら、らいりょうふへふ」
「ちっとも大丈夫でない。ちょっと待て」
天子さんは、びっくりするような行動に出た。
右手の指先を伸ばしてぼくのくちびるにふれたかと思うと、人差し指を口のなかに突っ込んできたのだ。
(ひ、人前で、いったい何を!)
あわてるぼくにおかまいなく、天子さんは、左手を握って指を二本立て、目と目のあいだに押し当てると目を閉じて、何か小声で呪文のようなものを唱えはじめた。
やがて、ぼくの口のなかが温かくなってきた。
「よし。これで治ったであろう」
「えっ? あっ! 痛みが消えてる」
「わらわの神通力じゃ」
ヒールか!
天子さんはヒーラーだったんだ!
すごいぞっ。
あれ?
「天子さん、こんなことできるんなら、呪禁和尚さんの体も治してあげればいいんじゃないの?」
「わらわの癒やしのわざは、神霊やあやかしには効き目がないのじゃ」
「あ、そうなんだ」
そんなこんなで簡単に打ち合わせをしたあと、ぼくたちは、とにかく神社に行って護符を確認することになった。
神社に移動した。
「では、鈴太、唐櫃のふたを開けよ」
「ぼ、ぼくが?」
「鈴太にしかできん。わしらが直接護符にふれたら失神してしまうし、箱ごと持っても体調がおかしくなる。まして、ただの人間がさわれば命にもかかわる」
「えっ? そんな大げさなものなんですか?」
「うむ」
「そうじゃ」
何げなしに、はたきではたいたり、タオルでから拭きしたりしてたよ!
そんな危険物なら、はじめから教えておいてほしかった。
二人に凝視されながら、ぼくはおずおずと箱のふたを開けた。
かなりどきどきしながら、なかをみた。
箱のなかは、空だった。




