中編
9
「今さら鈴太を呼び戻さんといかんかったんか」
「言うてくれるな。幣蔵の頼みゆえのう」
「幣蔵も、弓彦が役割から解き放たれて、自由に生きてゆくことを喜んでおったじゃろうに」
「そうだったのじゃが、やはり死期が迫ってみて、孫に帰ってきてほしいと思うようになったのであろうな」
「生きとるうちには会えなんだけどのう」
「鈴太は幸せに暮らしておったとはいえぬ。それを知った幣蔵は、一族の財産を継がせたいと思うたのじゃ。そしてわれらの庇護のもとに、新たな出発をさせたいと思うたのじゃ」
「一族の重荷も継ぐことにはならんか?」
「秘密を明かす必要が起きなければ、教えなければよいだけのこと」
「まあ、それはそうか。それにしても、この村に住むことが遺産相続の条件とは」
「それは伯父や伯母から鈴太を守るための方便が半分じゃな。あとの半分は、一族の血がしみこんだこの里を、最後の末裔にみてほしかったのじゃと、わらわは思う。いずれにしても、時が来れば役目は終わる。鈴太を縛るものもなくなる。そのあとの人生を、一族の財産を使って自由に生きればよい」
「そうじゃなあ。鈴太にとっては、人生の選択肢が増えるといえば増えるわけじゃなあ」
「鈴太がどんな人間なのか、どんなことを望むのか、それによってもわらわたちの動きは変わる。あの一族が今日まで尽くしてくれたことを思えば、その末裔に少しばかりの褒美があってもよい」
「長い時間は、わしらにはないぞ」
「それはわかっておる。早ければ昨年のうちには終わると思っておったくらいじゃからの」
「鈴太は、いきさつを不審には思うておらんか?」
「殿村がうまくやってくれたようじゃ」
「あいつは人間のあいだで鍛えられとるからのう」
「鈴太がどんな子に育っておるか、わらわは楽しみでしかたがない」
「素直な子に育っておるようじゃった」
「それにのう、呪禁法師どの」
「何じゃな、天狐よ」
「長い長い物語の最後を締めくくるには、やはり法師どのとわらわと、そして〈はふり〉の者がそろうておらねば、格好がつかんではないか」
「それもそうか」
「長かったのう」
「長かったとも」
「もうすぐじゃのう」
「もうすぐじゃとも」
10
(誰だ、この子?)
朝の六時から訪問者だ。
眠い目をこすりながら玄関口に出てみると、高校生ぐらいの女の子が立ってた。
身長は、ぼくより低い。
ぼくは、同級生のなかでは身長が高いほうじゃなかったけど、そのぼくより、この娘は背が低い。まだ発育途上なんだろう。
といっても、それは至近距離だからそう思うので、もう少し離れてみれば、身長が低いとは思わないだろうと思う。
なぜかというと、スタイルが抜群にいい。
顔も小作りで、初々しく、花が咲いたように美しい。
切れ長の目と、すらりとした眉毛と、純日本風を感じさせる碧の黒髪。
ため息のでるような美少女だ。
ふわりとした白いブラウスと紺色のスカートが、とてもよく似合っている。
いつものぼくなら、どきどきしてまともに会話もできないような相手だ。だけど、このところいろいろあって精神的に疲れきっていたのに、眠いところを起こされ目覚めきっていないぼくは、自分でもびっくりするような振る舞いに出た。
つまり、不機嫌そのものの声で、こう訊いたのだ。
「あんた、誰?」
「おはよう、鈴太どの。そういえば、この前はちゃんとあいさつもしておらなんだのう。わらわは、この店の店員で、神籬天子と申す者。こたびは、ご祖父幣蔵どの身罷られ、まことに惜しく存ずる。また、わらわを引き続きお雇いくだされるとのこと、厚く礼を申す」
今どき、〈わらわ〉なんて一人称を使う人がいるんだなって驚いたけど、岡山県は〈去ぬる〉とか〈死ぬる〉とかのナ行変格活用が残ってるような土地柄だから、そういうものなのかもしれない。
というか、言い回しがむずかしくて、あまり理解できなかった。
けど、あいさつのなかに、聞き逃せない単語があった。
「ひもろぎ、てんこ、さん……」
「さようじゃ」
「ひもろぎ、てんこ、さん……」
「うむ」
「ひもろぎ……ええっ? ひもろぎさん!? あの、和服美人の?」
「確かにこの前会うたときは和服を着ておったのう。美人というのも正しい」
「えええええええっ!?」
驚いたけど、なるほど、と思うところもあった。
なぜかというと、和のテイストだ。
少女の着ている服は、確かに洋服なのだが、ちょっとみると和服のような印象なんだ。
風通しのよさそうな白いブラウスは、どんな構造になっているかよくわからないけど、長い襟がついていて、まるで和服のように左右を重ね合わせている。袖も先っぽが広がっている感じで、やっぱり和服っぽい。その下にはいている紺色のスカートも、すごく長めで、ひだもついていて、まるで袴のようだ。
ひもろぎ・てんこという女は、〈和服美人〉だと強く脳にすり込まれていたので、和服美人つながりで、目の前の少女がひもろぎ・てんこだといわれて、そういえばと納得することができたのだ。
約十分後、寝間着からジャージに着替えたぼくは、ちゃぶ台の前に座って、天子さんの淹れた茶を飲んでいた。
「へえー。ひもろぎ、って、こう書くんだ」
ずずっと茶をすすりながら、ちゃぶ台の上に置かれたレポート用紙に、天子さんが自分の名前を書くのをみていた。
「てんこ、って、天の子って書くんだ。珍しい名前だね」
「うむ。この名を名乗れる者は、めったに現れぬ」
「へえ? すごいんだねー」
「ふふ。素直なおのこじゃな。もっとほめてよいぞ」
「そういえば、部屋が綺麗だけど、もしかして天子さん、掃除してくれてた?」
「うむ」
「そうなんだ。ありがとう」
「礼には及ばぬ。羽振の者の世話をするのがわらわの仕事。しかし、鈴太どのがこうして帰還したのじゃから、住宅のほうは自分で掃除するがよい。店の掃除はわらわも手伝うがの」
「うん。ところで、その、〈どの〉、っていうの、やめてくれないかなあ」
「わかった、鈴太」
いきなり呼び捨てかよ、と思ったが、話をしていると、思ったより年上に思える。見た目は若々しくて、高校生ぐらいにしかみえないのだけれど。
「さて、行かねばならぬ所がある。はたきと、ほうきと、奇麗な布巾、雑巾と、バケツの置き場所はわかっておるかの」
「いや、わかんない」
「では、まずそこからじゃの」
11
村のずっと奧の奧の端っこに、木々と背の高い草に囲まれた石段があった。
ほんの十段ばかりのその石段を登ると、平らに整地した地所があり、神社のようなものがあった。
(うわあ。なんてすごい眺めなんだ!)
神社の後ろはすとんと低くなっていて、眼下に映るのは広大な森林だ。そしてその向こう側に、三つの山がそびえたっている。
山は乾物屋からでもみえるんだけど、この場所でみると、ほんとに風格っていうか、何ともいえない雰囲気を持ってる山だ。
真っ正面にみえてる、ひときわ高い山が、蓬莱山。たしか羽振村からいうと北東の方向にあたるはずだ。
右にみえるのが、白澤山。
左にみえるのが、麒麟山。
ちょっと大げさなネーミングだと思ってたけど、ここでみると、そんな名前がぴったりだと思えてしまう。
目線を神社に戻すと、奇妙なことに気がついた。
上がり口の真ん中に、小さな石の台が置いてある。台というのかな。石版の両側に四本ずつ足をくっつけたような格好だ。
ここにはふつう、お賽銭箱とかを置くもんじゃなかったろうか。まあ、お賽銭箱を置いても、お金を入れる人がいるかどうか知らないけど。
それにしても、不思議な感覚だ。
この神社をみて、懐かしい気持がした。
何か温かいものに抱かれているような感覚がしたんだ。
こんな建物のことは、ぼくの記憶には残っていないけど、小さいころ来たことがあるから、懐かしく感じるのかな。いや、二歳かそこらじゃ、覚えているわけないか。
「これじゃ、外用のほうきも持って来たほうがよかったね。草を刈る鎌もいったかも」
境内地は、雑草がたくさん生えている。葉っぱもたくさん落ちている。
「それはいずれ、またやるとよい。まずは社のなかじゃ」
戸を開けてなかに入ると、なかは意外とよごれていない。むしろ綺麗といえる。
「天子さん。このお社のなかも、掃除してくれてたの?」
「いや。ここの掃除をできるのも、祭具にさわれるのも、羽振の家の者だけじゃ」
「そうなんだ」
中央の奧には掛け軸のようなものが掛けてあり、その前に、祭壇がある。神社などでみかける二段の台だ。上側の段には、まんなかに古代の鏡みたいなものが、その両脇に名前は忘れたけど平安時代なんかに使ってたお酒の器が、ふちのある木の台に載っけて置いてある。
下側の段のまんなかには、足つきの木の箱が中央に置いてあって、その両脇に白い花活けがある。花活けには黒く枯れた枝が残っていて、祭壇の上や床の上に、黒く干からびた葉っぱが落ちている。
ぼくは、天子さんに指示されながら、まず祭壇の掃除をした。ふしぎなくらい、ほこりは積もっていなかった。
「上の段のご神鏡は、あとで奇麗な布巾で拭くとよいな。木箱は、外側は拭いてよいが、なかをみてはならぬ」
まずはご神鏡にはたきをかけて、布巾でから拭きした。
酒器のなかのお酒は外の木の根元にまいて、なかに水を入れて洗い、持って来たお酒をそそいだ。
「神に供えた酒は、お神酒というのじゃ」
それは聞いたことがある。
花器も中身を捨ててなかを洗った。そして境内に生えていた木の枝を切り、新しくお供えした。
「その木は、榊というのじゃ」
さかき。
聞いたことがあるような気がする。どんな字を書くんだっけ。
箱は、外側からはたきをかけ、布巾でから拭きした。
「そういえば、天子さん。この神社っていうか、お社、何をお祭りしてるの?」
「ふむ。土地を守ると書いて〈地守神社〉と呼ばれておるの。本当はちがう名前があったのじゃがな」
本当はちがう名があった?
奇妙な話だと思ったけど、それ以上は聞かなかった。
ぼくは掃除しながら、いろんなことを天子さんに訊いた。
「この村の名前って、羽振村だよね」
「うむ」
「ぼくの名前も羽振なんだけど、羽振村出身だから羽振なのかな?」
「いや。この村で羽振という名字を許されておるのは、もとの村長の一族だけじゃ。つまり、今はおぬしだけじゃな」
「村長だったんだ、うちの家」
「というより、この村には、もともと羽振家の者だけが住んでおった」
「えっ? そうなの?」
「うむ。羽振家は神官の家柄での。この社ができたとき、ここにやってきた。そこにあとから人々がやって来て住み着くようになった。今は村の三分の一ほどが自己所有の地所に住んでおるが、もともとは羽振家が貸し与えたものじゃったのじゃ。ほとんどの家は古くから続いておって、羽振家に世話になってきておることをよく知っておるから、羽振家からの頼み事は断らんし、羽振家当主の葬儀ともなれば、村人全員が駆けつける」
(そういうわけだったんだ)
(どうりで、おじいちゃんの葬儀、やたら人が多いと思ったけど、あれ、村人全員だったのか)
(それにしても、この社が村の起こりだったんだ)
(この社の周りに村ができたんだ)
(だから、今は役目も終えて荒れ果てたけど、こうやって羽振家の者が、時々お掃除してあげるんだな)
そう思うと、なんだかお社の掃除をすることが、誇らしくなってきた。
12
「ふうー。腹減った」
「ご苦労じゃったの。さっそく朝食を作るからの」
天子さんは、ほんとにまったく掃除を手伝ってくれなかった。
お社の掃除は羽振家の者がするということをはっきりさせるためなんだろうか。
ぼくが一服しているあいだに、天子さんは手際よく二人分の朝ご飯を作ってくれた。
「いただきます」
「頂戴いたす」
あ、味噌汁、おいしい。
それに、この味は……。
「おとといと昨日と、ご飯を作ってくれてたの、天子さんだったんだ」
「ほう? その通りじゃが、味噌汁を飲んだだけでわかったのかの?」
「うん」
「舌の感覚は鋭いようじゃな」
「そうでもないけど」
「これからも毎朝、食事は作りに来る。昼ご飯もな。夕食は作り置いておくから、温め直して食べるがよい」
「えっ? そんな、悪いよ」
「幣蔵が生きておったあいだは、ずっとそうしておったのじゃ。あやつは料理がまったくできなんだからの。習慣になってしもうたから、今さら生活を変えたくない」
「でも、天子さん、ご家族あるんでしょ?」
「いや。わらわは一人暮らしじゃ」
「あ。……ごめん」
「うむ? 謝られるようなことではない」
一人暮らしなんだったら、ここに来て一緒に食事をするほうが楽しいだろうな。
「でも、それなら、晩ご飯も一緒に食べて行ったら?」
「家のほうでもやることがあるしの。この季節は昼が長いが、山のなかは、早く暗くなる。日が落ちる前に家に着いていたいのじゃ」
「あ、そうだよね」
山のなか?
いったい天子さんは、どこに住んでるんだろう。
「わかった。でも、実はぼくも食事は自分で作る習慣なんだ」
「ほう」
「だから、代わりばんこにしようよ、食事当番」
「ふむ。それも楽しそうじゃな」
「うん! そうしよう」
それから、村のことをいろいろ聞きながら食事をした。
すごく楽しかった。
高校のとき、昼ご飯は学校で食べたから、一人ということはなかったけど、朝ご飯と晩ご飯は、いつも一人で食べてたから、こうやって誰かと話しながら朝ご飯を食べるなんて、ちょっとした事件といっていいほど画期的なことで、ぼくはかなりうきうきしていた。
しかも相手はとびきりの美人なんだから、ちょっぴりぐらい舞い上がっても当然だよね?
あっという間に食事は終わり、天子さんとぼくは、食後のお茶をすすった。
「あのお社は、毎日掃除したらいいのかな?」
「毎日? いや、そこまでせんでもよい。幣蔵は、元気なときでも週に一度ぐらいじゃったな。最後は月に一度じゃった。それでも、死ぬ前の月まで、毎月一日になると、地守神社のお清めをしておった」
「ふーん」