後編
8
「この村は結界に守られておる。じゃから、外からあやかしが入ってくることはない」
「うん。弘法大師さまの結界だね」
「そうじゃ。しかし、結界のなかに、ひでり神さまの荒御霊を封じてあり、その荒御霊そのものはまだ浄化されておらぬのじゃから、荒御霊から、わずかずつ、よこしまな気、つまり妖気が漏れ出る。その妖気が凝り固まって、何年かに一度、あるいは十何年かに一度ぐらいの頻度で、結界のなかにあやかし、つまり妖怪が生ずる。その妖怪を倒し、結界内の清浄を保つのが、呪禁法師どのの役割なのじゃ」
「うん」
「妖怪というのは、倒したといっても完全に消滅するわけではない。いくぶんかの妖気は残る。残った妖気が荒御霊から出る妖気と結びついて凝り固まれば、また妖怪が生ずる」
「きりがないね」
「それでよいのじゃ。妖気が凝り固まってあやかしとなり、あやかしを討つことで妖気の大部分は消滅する。その循環を繰り返すことで、それ以上の事態が起きることを防いでいるのじゃ」
「そうなんだ」
「法師どのをてこずらせるような強いあやかしはめったに現れぬし、現れても法師どのは倒してきた。あやかしが〈はふり〉の者に害をなそうとしたときは、わらわが守った。また、里人や外から来て住み着いた人間が、ひでり神さまと、法師どのと、そしてわらわについて疑念を抱かぬよう、わらわは神通力をふるうた。結界自体にも同様の働きがあったようじゃがの。そうしてこの里の平穏は守られてきた。とはいえ、あまりにも長き戦いに、法師どのは傷つき疲れておる。ところがここ百何十年か、あやかしが現れる数が減り、また現れたあやかしも、さほど力の強いものではなかった。法師どのもわらわも、このまま平穏のうちに満願成就の日を迎えられるものと思うた」
「うん」
「ところがここにきて、毎月のようにあやかしが生じておる。しかも、山口美保の場合と、大塚野枝の場合は、人間があやかしに取り憑かれた。今までなかったことじゃ。それに加えて、両方とも極めて強い妖気を宿しておった」
「佐々成三さんのぶらり火も、人間に取り憑いたんじゃないの?」
「生きておる人間に取り憑いたわけではないし、あれはあくまで佐々が残した念が妖気と混ざって生じたあやかしじゃ。じゃが、法師どのが会うたときには、かなり危険なものになりかかっておったそうじゃ」
「へえ? そうなんだ」
「そして大塚野枝の場合、問題を起こした石像は、溜石といい、妖気を吸収するという珍しい性質を持つ石なのじゃ。どう考えても、ある時点で誰かが結界のなかに運び入れたとしか考えられぬ」
「え? 誰かが結界のなかに?」
「そうじゃ」
「じゃあ、その誰かは、ここに霊的な結界があるって知ってるってこと?」
「そこはよくわからぬ。じゃが、結界のなかの妖気が強くなりすぎれば、結界は壊れる恐れがある」
「結界が壊れたら、何が起きるの?」
「外のあやかしがなかに入ってこれるようになるのう」
「敵討ちかな」
「なに?」
「蚩尤っていう人、人なのかな? は、たくさんの妖怪を配下に置いてたんでしょう?」
「そうじゃ」
「その妖怪たちは、ひでり神さまのことを、恨んでるよね?」
「いくらなんでも、その時代から現代まで生き続けられるあやかしはおらん」
「天子さんは、どうなの?」
「なに?」
「天子さんは、ひでり神さまと一緒に戦った妖怪の子孫なんでしょう?」
「あ」
「それなら、敵の妖怪にも子孫がいて、そのなかには日本に住んでるやつがいてもおかしくないよね?」
「……考えたこともなかった。しかし、おぬしの言う通りじゃ。うむ……しかし……」
「しかし?」
「鈴太よ。あやかしというのは、利己的なものなのじゃ。自分のことしか考えぬ。自分の欲や自分の恨みで動くものであって、先祖の敵だからといって、それだけでわざわざ復讐しようなどとは考えぬ」
「じゃあ、天子さんは、例外なの?」
「恩を感じたり、恩を返そうと考えたりするあやかしは、あやかしにはちがいないが、少し種類がちがうのじゃ。わらわも、もともと狐の妖怪というより、森の精のようなものじゃった。しかも、白狐をへて天狐となり、その本性はすでに神に近い。いや、やはり、わざわざ他人の復讐をするようなあやかしがおるとは思えん」
「じゃあ、その方向性はいったん保留しておこう。じゃあ、結界を破ること、あるいはひでり神さまの満願成就を妨害して、誰かが何かの利益を得るとしたら、それはどんな利益なんだろう」
「おぬしは優れた思考力を持っておるのう。わらわは今、話についてゆきかねておる。利益、じゃと?」
「あやかしは、自分の利益や恨みで動くものなんでしょう。だったら、今回のことに敵がいるとして、その敵の動機は、恨みかもしれないし、利益かもしれない」
「うむ。そこまではわかる」
「恨みだとすれば、ひでり神さまへの恨みかもしれないし、呪禁和尚さんへの恨みかもしれないし、天子さんへの恨みかも知れないし、羽振一族への恨みかもしれない。そして、羽振村への恨みかもしれない」
「理屈はわかるが、法師もわらわもひでり神さまも、そして〈はふり〉の一族も、千二百年にわたって結界の外では働いておらぬ。恨みを買うようなことは考えられぬ」
「うん。でも恨みというのは、何かを相手にしなくても、相手がこちらをねたましいと思ったときや、相手が欲しかったものをこちらが手に入れたときにも生まれる感情だから、絶対にないとはいえないと思う。それに、羽振一族の本家は、まだ京都にいるのかな? そちらで買った恨みかもしれない。ただ、そういうことまで考えると特定がむずかしいから、そっちの可能性は保留しておくとして、利益のほうはどうなんだろう」
「おぬしは、ほんに深い考えを持っておるじゃなあ。それで、利益とは何のことじゃ」
「荒御霊の封印が解けたら、何が起きるの?」
「ひでり神さまが邪神に戻る、とかのおかたはおっしゃっておられた。邪神となったひでり神さまは、大勢の人を苦しめ殺すであろうな」
「それが狙いなんじゃないかな」
「なに?」
「それを喜びとするようなあやかしはいないかな?」
「むむ。……いない、とはいえぬ」
「うん。これは可能性の一つにすぎないけど、なお検討する余地がある」
「何をどう検討するのじゃ」
「封印というのは、この神社にあるんだったっけ?」
「そうじゃ。祭壇の上段にある鏡に荒御霊を封じてある。それはおぬしの祖先がやったことじゃ。そしておぬしの祖先は、封印を強め長く保たせるために、箱のなかに護符を収めた」
「あ。あの箱か。その中身を最後にみたのはいつ?」
「明治時代のはじめに、この神社を建て直したときじゃ。そのとき、箱も新しくした」
「ということは、取り出したりみたりすることが禁じられてるわけじゃないんだね」
「うむ」
「なら、まずそれをみてみる必要がある」
「なぜじゃ? あれは〈はふり〉の一族以外、ふれることができぬ。何か起こるはずなどないぞ」
「あ、そうなんだ。うーん。でも、荒御霊の封印を解くには、何といっても、その護符をどうにかするのが一番の早道な気がするんだ。むだでもいいから、一度確認しておきたい」
「わかった。念のため、法師どのにも立ち会ってもらおう」
「それから、さっき言ってた石像は、〈子無き地蔵〉のことだよね?」
「そうじゃ」
「それを持ち込んだのが誰かを、まず突き止めよう」
「突き止められるものであろうか」
「それはわからないね。でも訊いてみることはできる」
「ふむ。わらわはあまり人との付き合いがうまくない。鈴太がそれをやってくれるなら、助かる」
「ところで、和尚さんは、結界内のあやかしを討つのが役目ということだったけど、〈やまびこ〉のときは、現場はぼくに任せっきりだったよね。お寺でご祈祷してくれたのかもしれないけど。それに、石像に妖気がたまっていたっていうのに、何かしようとはしてなかった。これはどういうことなんだろう」
「法師どのは、長年の戦いで満身創痍なのじゃ。今は体を動かすのもつらいようでな。それでもいざとなれば戦うであろうが。石像については、これは致し方ないのじゃ。石像に妖気がたまっていても、それをどうすることもできぬ。石像を壊せば妖気は散るであろうが、またどこかで集まる。それより、石像の妖気が形をとって現れたとき倒せば妖気は弱まって散る。そのほうが効率がよいのじゃ」
「ふうん? もしかしてそれは、誰かに妖気が乗り移るのを待ってたってこと?」
「いや。まさか妖気が直接人間に移るようなことがあるとは思っておらなんだのじゃ。これは法師どのもそうじゃったし、わらわもそうじゃ」
「でも、野枝さんに移った」
「そうなのじゃ。どうも何かがおかしい。この千二百年のあいだになかったようなことが、今起きようとしておるのかもしれん」
「そうだね。ひでり神さまとしては、今までやってきたように、積み石を毎日続けていくしかない。でもぼくたちは、いろんな可能性にあたって、使命を妨げるものがあれば排除すればいい。ところで、天子さん」
「なにかの?」
「おじいちゃんは、自分の代で使命は終わると考えて、父さんにこの里の秘密を伝えなかったんだよね?」
「まったく伝えなかったかどうかはわからぬが、おおむねその通りじゃと思う」
「そしておじいちゃんは、年老いて体調が悪化しても、父さんを呼び戻そうとはしなかったんだよね?」
「その通りじゃ」
「それなのに、ぼくはここにいて、里の秘密を知っている。これはどういうことなんだろう」
「ふむ。予定したより長引いたといっても、近々満願の日を迎えることを、幣蔵は疑っておらなんだ。もう一族の役目は終わったと考えておったのじゃ。じゃから幣蔵は、弓彦にもおぬしにも、この里の成り立ちと〈はふり〉の者の歴史を教えようとはせなんだ。わらわはそう理解しておる」
「じゃあ、天子さんは、なぜぼくを呼び戻したの?」
「肉親の情として、幣蔵はおぬしに会いたくて会いたくてならなんだのじゃ。もうこの世を去る日が近いと知って、その思いはなお強まった。これは直接聞いたことじゃから、まちがいない」
「そうなんだ」
「それでも、おぬしはおぬしの人生を生きるべきじゃと意地を張って、法師どのや、わらわや、殿村が、どんなに説得しても、おぬしを呼ぶことにうんとは言わなんだ。それでも、わらわは、おぬしが喪主を務めることが幣蔵の遺志にかなうと信じた。それにのう、一族の末裔であるおぬしに、この里のことを知っていてほしいという気持は、きっと幣蔵のなかにあったと思う。一族の汗と血がしみ込んだこの里をのう」
「うん。いい村だと思う」
「そして、代々の〈はふり〉の者たちの御霊は、長年にわたる使命が果たされる瞬間を、法師どのとわらわだけでなく、一族の末裔が立ち会うことを願っておると、わらわは思うたのじゃ」
「なるほど。それはそうだよね。でも、それじゃあ、こうやって秘密を教えてくれたのは、なぜなの?」
「それは、おぬしがそうさせたのじゃ」
「ぼくが?」
「おぬしは、言葉の力だけで、山口美保を人間に戻した」
「えっ? あれは護摩とお札の力でしょう?」
「札はあやかしの力の供給を絶つものであって、その以上のものではない。今にして思えば、あのとき法師どのが直接出向かなかったのは、法師どのが幽谷響に会えば、殺すほかなかったからかもしれぬ。そして法師どのは、おぬしの才能にうすうす気づいていたのかもしれぬ」
「才能? ぼくに?」
「佐々の家の法要のときも、荒御霊になりかかったぶらり火を、言葉の力だけで鎮めて、しかも親兄弟に礼まで言わせたそうじゃな」
「あれはちょっとご参考までに言っただけだ。成三さんが素直だったんだよ」
「大塚野枝のとき、わらわは目の前でみておった。圧巻であった。まさに邪悪なあやかしとして生まれ落ちようとした異形に、言葉をかけただけで、自分は人間の赤ちゃんで、お母さんである野枝を幸せにするのが役目だと、納得させてしもうた」
「いや、人をそんな詐欺師みたいに」
「そばで聞いておるわらわの身もしびれた。おぬしの言葉におぼれそうになった。おぼれたいと思った。おぬしは、特別な力を持った人間じゃ。一族の血を強く受け継いだ人間じゃ。わらわはおぬしに、ともにいてほしいと思った。使命が果たされるまでともに戦い、果たされる瞬間をともに迎えてほしいと思った。じゃからおぬしに秘密を教えたのじゃ」
ともにいてほしい。
ともに戦ってほしい。
長き人生の目的が達せられるその瞬間を、ともに迎えてほしい。
天子さんが、そう願っていると知って、ぼくは歓喜した。
ぼくが天子さんに必要とされ、求められているという事実に驚喜した。
その喜びが、ぼくを大胆にさせた。
ぼくは立ち上がって天子さんに近寄り、右手で彼女の左肩を、左手で彼女の右肩をそっとつかむと、彼女を立ち上がらせた。
彼女の瞳が、ぼくを映している。
ぼくと彼女は、お互いに息がかかるほどの距離にいる。
「ぼくの力が必要なんだね?」
「そうじゃ」
「ぼくに、ともに戦ってほしいんだね?」
「そうじゃ」
「ぼくと一緒に、願いが成就する瞬間を迎えたいんだね?」
「そうじゃ」
「わかった。ぼくは天子さんと一緒に戦う。天子さんとともに進む」
「おお!」
「だから、天子さん」
「うむ」
「使命が終わったら消えるなんて言うな」
「え」
「生きろ」
「…………」
「ぼくとともに生きろ」
「…………」
「ぼくは君のために生きる。君はぼくのために生きろ」
「…………」
「ぼくは君が好きだ」
天子さんは美しい両眼を、大きくみひらいた。
「君もぼくを好きになれ」
ぼくは思わず彼女を引き寄せた。
彼女の瞳にはぼくが映っている。ぼくだけが映っている。
ぼくの瞳にも、彼女だけが映っているはずだ。
彼女だけが映るぼくの瞳を、彼女はじっとみつめている。
この瞬間の天子さんの美しさを表現する言葉は地上にはない。
月明かりを浴びて、まるで森の妖精のような淡い光を放ちながら。
彼女はそっと目を閉じ。
くちびるを、ぼくに差し出した。
ぼくはやさしく覆いかぶさるように、自分のくちびるを、そこに重ねた。
自分の体が自分自身のものではないように感じた。
それでいて、心臓は激しく脈打ち、血は全身を狂おしく駆けめぐり、ぼくは幸せにおぼれた。
ふれあったくちびるのやわらかさが、脳髄をしびれさせる。
ぼくは彼女を抱きしめた。
腕と胸に感じる彼女の肉体が、まぎれもなく生身の人間であることを知って、ぼくはいっそう彼女をいとおしく思った。
彼女がこんなに細くてか細いなんて知らなかった。
彼女が、おずおずとぼくの背中に回してくれた手が、ぼくの喜びを沸騰させた。
いっそう強く抱きしめた。彼女は控えめに、ぼくに答えてくれた。
無限とも思える時間が過ぎたあと、そっとくちびるを離すと、天子さんはうっすらと目を開けた。
「法師どのの勘違いかと思うたが」
「え?」
「そうでもなかったようじゃ」
「何のこと?」
「何でもない。忘れるがよい」
「すごく気になる」
「ふふ。さて、時間はずいぶん遅い。帰ろうかの」
うん、と返事して体の向きを変えようとしたが、うまく自分の体がコントロールできず、ぼくはその場に倒れ込んでしまった。
「ど、どうしたのじゃ?」
「足が、しびれた」
椅子に座ってても足がしびれることってあるんだね。はじめて知ったよ。
その夜、変な夢をみた。
誰かが闇のなかから話しかけてくるんだ。
「オトウサン。オトウサン」
「誰だ? 君は、誰だ?」
「オトウサン。オトウサン」
「ぼくに話しかける君は誰?」
「ミツケタヨ。ヤットミツケタ」
「何をみつけたんだ?」
「アイツ、ミツケタ」
「あいつ?」
「コレデシアワセナレルネ」
「幸せ? 誰が?」
「オカアサン、シアワセナル」
天子さんの記憶でぼくの心はいっぱいだったから、こんな夢をみたことは忘れてしまった。
「第5話 ひでり神」完/次回「第6話 長壁姫」