中編2
6
古代中国で、強大な力を持つ暴君が地上を支配していた。のちにその暴君は、〈蚩尤〉と呼ばれるようになる。
蚩尤は、神の子であり、強大な霊力を備え、その配下には、雨師と風伯という二柱の神をはじめ、一騎当千のつわものがあまたいた。もともと地上を治めていたのは、別の神の子である君主だったが、蚩尤は戦争によってその君主を倒し、地上を支配下に置いたのだった。
ここに一人の少年がいた。少年は両親を蚩尤に殺された。そして人々が蚩尤に苦しめられる姿をまのあたりにして、人々をその苦しみから救いたいと願った。
神々のなかの最も偉大な一柱であり、古代中国では〈天帝〉と呼ばれた至高神は、少年が王の資質を持っていることをみぬき、神気と試練を与えた。
天帝がこのとき少年に与えた神気は、蚩尤が倒した君主の親たる神のものだった。この神は〈黄帝〉と呼ばれている。
試練とは、放浪の運命と数多くの困難だった。少年は中国各地を放浪して、さまざまな敵を倒し、問題を解決し、実力と声望を得てゆく。
少年は成長して青年となり、仲間をともなって故郷に帰った。そして蚩尤に戦いを挑んだのである。
いったんは、青年の軍勢が優勢であるかのようにみえた。
だが蚩尤は、隠していた配下の妖怪たちを解き放った。青年の軍勢は人間であり、あやかしと戦って倒せるのは青年だけだった。たちまち軍勢は危機を迎える。
そのとき、青年が各地を放浪していたとき友誼を結んだ妖怪たちが駆けつけて参戦した。かくて争いは妖怪大戦争に発展した。
配下が苦戦しているのをみた蚩尤は、最後の切り札である雨師と風伯を投入した。二柱の神はあまりに強力であり、青年の軍勢と妖怪たちは蹴散らされ、ちりぢりになった。
ここに一人の少女がいた。この少女は実は黄帝の娘〈ばつ〉であり、父の神気を宿す少年のふがいなさにあきれて地上に降り、放浪の旅のなかで、陰から少年を助けてきたのである。
〈ばつ〉は力を求めて日天(太陽)のもとに舞い上がった。そして、天界の名花とたたえられた美貌を失い、みにくいしわだらけの姿となりながらも、膨大な熱気をその身に宿すことに成功する。
〈ばつ〉の参戦を受けて青年の軍勢は再び勢いを取り戻し、攻勢に転じた。風伯が暴風を吹き寄せると、〈ばつ〉はその風を吸い込んでさらに熱気を強めた。雨師は豪雨を降らせようとしたが、雲という雲は〈ばつ〉が近づくと消え去ってしまい、さしもの雨師も力をふるうことができない。そんな〈ばつ〉を、人々は〈ひでり神〉と呼んで敬い恐れた。
ついに蚩尤の宮殿に乗り込んだ青年は、蚩尤の体を粉々に打ち砕く。
長きにわたった戦争は終わった。地には平和が訪れたのである。
青年は王となり、やがて黄帝と呼ばれるようになる。
人々が笑って暮らせる時代が幕を開けた。
〈ばつ〉は天界に帰ろうとしたが、帰れなかった。神の力を使いすぎたため、俗界の気が強くなりすぎたのである。
王は〈ばつ〉に、いつまでも地上にとどまるようにと言った。〈ばつ〉はうれしかった。
だが、〈ひでり神〉である〈ばつ〉は、そこにいるだけで周囲のすべてを干上がらせてしまう。干ばつが続き、多くの人々が死んだ。
やむなく王は、ひでり神に追放を言い渡す。ひでり神は、従容としてこれを受ける。いつのまにかひでり神は、王を深く愛していたからである。
東方の島国に飛来したひでり神は、富士山の火口に落ちた。ひでり神の膨大な熱気により噴火が起き、多くの人々が死ぬ。力を使い切ったひでり神は、長い眠りについた。
やがて目覚めたひでり神は、すっかり熱気を失っていた。そこで天界に帰ろうとしたが、門でとめられた。多くの人を殺傷したことにより罪を得た彼女は、天界に戻ることを許されなかったのだ。そのとき彼女は、愛した王が、死後その功績により天界に召し上げられ、天帝のもとで活躍していることを知る。
失意のまま地上に降りたひでり神を、一匹の妖狐がみていた。この妖狐は、かつて青年とともに戦った妖怪の子孫であり、ひでり神のことはよく知っていたのである。妖狐は、弘法大師空海を訪ね、救済を懇請した。
大師はひでり神の運命をあわれみ、ひでり神に一つの道を示す。
「罪をあがなわんとすれば、贖罪の心もて積み石をせよ。すなわち罪を背負いし罪石の労苦もて、積徳の信行となせ。なんじが殺した人の数は、かの国で二十八万三千五百六十五人、この国で十五万四千六百四十七人であり、合わせて四十三万八千二百十二人である。心から悔いてわびながら、一日に一石ずつ、四十三万八千二百十二の石を積まば、すなわち満願となり、天界はなんじを許し、しかしてその門を開いて歓喜のうちに迎えるであろう」
ひでり神は、きっとその通りにする、と誓った。
吉備国の山中に、大師はひとつの聖地をみいだしていた。その里は天空のすべての星辰にみまもられた星見の里である。星見の里は、三つの霊山に守られ、霊力のこもる森を抱えており、呪的に安定した環境を備えていた。三つの山は、それぞれ蓬莱山、白澤山、麒麟山という名を与えられ、〈三山〉として関連づけられた。
大師は、京に住む〈葬り〉のわざ、すなわち魂鎮めの修法に優れた陰陽師の一族から若き俊英を招き、〈はふり〉の姓を与え、星見の里を〈はふり〉の者の里とした。そして土地の有力者の娘を妻に迎えさせ、社を建立して〈積神社〉、すなわち徳の積もる神社と名づけ、ひでり神の荒々しい魂を祭らせた。ひでり神が積み石の積徳を成就し満願を迎えるまで、子々孫々その荒御霊を封じるのが役割である。万一にも満願を待たずして封印が破られることがあれば、ひでり神は邪神に戻るからである。
そして大師は、この世ではない別の場所に、積み石の場を設け、骨ヶ原と名づけた。骨ヶ原には、〈積神社〉の奧にある階段からしか行くことができず、その階段は、大師が骨ヶ原への出入りを許した者、すなわちひでり神にしかみえない。
さらに万一にも骨ヶ原に立ち入る者がないよう、〈はふり〉の者の里が抱える森に、ひでり神に殺された人々の魂を集めた。それにより森は呪怨の森となり、容易に人が近づけぬ場所となった。呪怨の森に集められた魂は、ひでり神の行が完成するとき、解き放たれて成仏するのである。
そのうえで、〈はふり〉の者の里に結界を張った。封じられた荒御霊の放つ邪気が、あやかしを引き寄せることを案じたのである。
さて、〈はふり〉の者は、魂鎮めの修法に通じているとはいえ、人の身であり、生きられる年限は限られている。人は、その魂に刻まれた寿命を越えては生きられない。
そこで大師は、ひでり神の荒御霊への封印を、〈はふり〉の者の血と結びつけた。そうすることで、〈はふり〉の者の子孫が居続けるかぎり、封印は維持される。
この里に、大師は故郷四国から一匹の古狸を呼び寄せた。この狸はさまざまな呪法に通じている。結界により外の邪悪なものは入って来れないが、結界の内側には、ひでり神の荒御霊からこぼれ出る妖気により、時折あやかしが生ずることが予想された。大師は狸にあやかしを倒す使命と、それに足りるだけの寿命を与えたのである。古狸は、〈呪禁法師〉の名を大師から授けられるが、人には〈持言法師〉と名乗った。のち、住まいを寺に転じ、〈持言和尚〉となる。
そしてまた大師は、ひでり神と自分を結びつけた妖狐に、〈はふり〉の一族をみまもる役目と、それに足りるだけの寿命を授けたのである。妖狐は大師の遺命を守り続けることで霊格を上げてゆき、千歳を越えたとき〈天狐〉という神格を得る。ただしもとは陰気の強い妖怪であるため、長時間結界内で過ごさない習慣となっており、村の外に住んでいる。
地守神社の社殿の前には、小さな石の八足がある。毎朝、夜明けと共に、その八足の上に白い石が生ずる。その石を秘密の階段を下って骨ヶ原に積むのがひでり神の日課である。
事が始まって以来、千二百年がすでに過ぎた。罪石(積み石)の数が満願の四十三万八千二百十二に達する日が、今まさに訪れようとしている。
7
長い物語が語り終えられたあと、長い沈黙が訪れた。
やがてぼくは、一番気になることを訊いた。
「満願の日が来たら、天子さんは、どうなるの?」
「……さあのう。もともと、あやかしといえど、千年も生きる者はまれじゃ。わらわは本来の命の長さを越えて生きておる。それは使命を果たすために、かのおかたがお授けくださった寿命じゃ。じゃから使命が終われば……」
「そんなのだめだよ!」
思わず天子さんのほうを向いて叫んだ。天子さんは目を閉じてしばらく何か思いをかみしめていた。
「まあ、本当のところはどうなるかわからぬ。とにかく、千年を越えて果たし続けた役割が無事成就すること、それこそがわらわの願いなのじゃ」
「満願の日は、いつ来るの?」
「それが、わからぬ」
「わからない。数えてなかったの?」
「事が始まった日から、四十三万八千二百十二日以上が過ぎておるのはまちがいない。ところが積み石は、まだその数に届いておらんようじゃ」
「どうしてなの?」
「例えば洪水のときなどは、積み石をすることができなんだ」
「あ」
「そのほかにも、やむを得ぬ事情で積み石ができなんだことがある」
「そりゃそうだよね」
「ただし、明らかに積み石ができないような日があれば、たいていわらわも知っておる。それを計算に入れても、もうすでに満願が来ていなければおかしいのじゃ」
「それって……」
「そこで最近気がついたのじゃが、石の出現には時間制限があるのかもしれぬ」
「時間制限?」
「ある時間までに取らねば、消えてしまうような制限じゃ」
「……消えてしまう」
「ひでり神さまも、生きておる以上、都合もあれば体調もある。何かの理由で時間制限にまにあわなんだ日があるのではないか。そう考えればつじつまが合う。
「そうか。天子さんも和尚さんも、石を積むところをみてるわけじゃないんだもんね。でも、積まれた石をみたら、数はわかるんじゃないの?」
「骨ヶ原には、ひでり神さましか入れぬ。わらわも法師どのも、積まれた石をみたことはないし、みることはできぬ」
「ひでり神さまって、誰なの?」
「おぬしは知っておるはずじゃ」
そういわれて考えた。
ひでり神。
この神社に生ずる白い石を、神社の裏の秘密の階段を降りて毎日運んでいた人。
そうか。
「艶さん、だね」
「そうじゃ」
あの人がひでり神だったのか。人間ばなれしてるとは思ってたけど。
「何個積んだかを、艶さんに訊くことはできないの?」
「訊いてどうする」
「いつ終わるのかがわかれば、みまもりやすいじゃないか」
「あのかたは、ただ責めを果たすのみ。わらわは、それをみまもるのみ。みまもる者の都合で、あのかたを煩わせようとはおもわぬ。じゃが」
天子さんがぼくのほうをみた。
一度収まった心臓のどきどきが、また復活してしまった。
「おぬしは、代々にわたってあのかたの荒御霊を封じ続けてきた一族の末裔。おぬしが訊きたいというなら、訊けばよかろう。あのかたも、おぬしの質問になら、答えてくださるはず」
「〈はふり〉の血を引く者が居続けるかぎり、封印は維持されるんだったね?」
「さようぞ」
「じゃあどうして、お父さんは、この里を出たの? おじいちゃんは、それを許したの?」
「幣蔵は、自分が生きておるあいだにすべてが終わる、と考えておったのじゃ。鶴枝は妖気に敏感なたちでのう。この里には、千二百年のあいだ法師どのが倒してきた妖怪の妖気がたまっておる。とても耐えられなんだのじゃ。じゃから、幣蔵は、弓彦に里を出ることを勧めた」
「お父さんは、この村の歴史と羽振家の使命を知ってたの?」
「知らなんだはずじゃ」
「そうなんだ」
「里を出ても、幣蔵が死ねば遺産は弓彦のものになるからのう」
「じゃあ、ぼくを呼び戻したのは、予定の日が来ても満願成就しなかったから?」
「いや、そうではない。床についた幣蔵は、しきりにお前に会いたがったが、しかし、お前の人生を縛ってはならぬと、最後までお前を呼ぼうとはせなんだ。その一方で、弓彦と鶴枝が死んでいたとわかり、またお前の境遇を知って、伯父や伯母のもとには置いておけんと、強く思っておった」
「あれ? 殿村さんはお父さんとお母さんのことを一時期見失って、ぼくをみつけたのはごく最近のことだって言ってたけど」
「最近というのがいつごろのことか知らぬが、二月のすえごろには、伯父や伯母のおぬしへの仕打ちを知って憤慨しておった。それに、あれは三月の初旬じゃったか、おぬしが京大に落ちたと聞いて、涙を流して悲しんでおった。それはみな、殿村が報告したことじゃ。そもそも、あの男が本気で探しておったのなら、もっと早くに弓彦の死はわかっておったと思うがの」
「どうしてぼくに本当のことを言わなかったんだろう」
「幣蔵を冷たいやつだと、おぬしが思うことをいやがったのかもしれんな。あの男は、何かにつけ幣蔵の都合を第一にしておったからのう」
「おじいちゃんの金払いがよかったから?」
「いや。ほとんど無償で働いておるはずじゃ。殿村という男は人間ではない。呪禁法師どのの眷属の末裔なのじゃ」
「そうだったんだ!」
びっくりだよ。あの人、人間じゃなかったのか。それにしても、弁護士ができるなんて、むちゃくちゃ人間の世界になじんでるなあ。
「幣蔵の遺志をくんで、殿村にお前を迎えに行かせたのはわらわじゃ」
「そうだったんだ。天子さんがぼくをここに呼んでくれたんだ」
「お、うれしそうじゃの。この里はおぬしの肌に合うたかの?」
「うん。ぼくはこの村が好きだ。て……」
天子さんのことも好きだ、と続けようとしたけど、口のなかが急にからからになって、言葉が出なかった。足元のペットボトルのお茶を飲んだ。
「て……?」
「でも、そうすると、ぼくはべつに何もしなくていいんだね。あと何日か、あるいは何十日かしたら、満願になって、千二百年の修業が成就するんだね?」
「それがのう。少し妙なことが起きておるようなのじゃ」
「妙なこと?」




