中編1
4
「ほ、ほんとに、これ着るの?」
「うむ」
「……あ、いきなり脱がさないで!」
天子さんが箪笥の奧から出してきたものは、着物だった。
袴と羽織まである、本格的なセットだ。
「よし。やはりこの着物がぴったりじゃったの」
「袴、上げすぎじゃ?」
「足の長さからして、致し方ない」
「…………」
着物を着るなんて、生まれてはじめてだ。
しかも、天子さんが着付けをしてくれる。
畳に膝をついて帯を締めてくれたり、袴の紐を結んでくれたりするとき、いい香りがして、ちょっとくらっとした。
天子さんも、今日は着物だ。
着物は淡い藤色で、帯は少し濃い藤色だ。すっきりして美しい。それでいて、匂い立つような色気がある。
「さて、行こうかの」
「天子さん」
「どうした」
「歩けない」
和服の正装だから、当然足は白足袋だ。それに草履を履いたのはいいんだけど、どうやって歩いたらいいかわからない。
「右足と左足を順番に出せばよいのじゃ。行くぞ」
「あっ。待ってよ」
5
蓬莱山。
白澤山。
麒麟山。
〈三山〉が夕焼けにそまるころ、〈砂持ち〉は始まる。
ぼくはといえば、神社の前、石の八足の上手に、紋付き姿でパイプ椅子に座っている。羽織には、五つ紋がある。背中と両袖と両胸に。五つの紋は全部同じデザインだ。丸に抱き柊っていうらしい。
石の八足の上には四角い大きなお盆が置かれ、その上にお供え物が盛り上げてある。
餅。
水。
塩。
米。
するめ。
干し柿。
餅といっても、搗いた餅じゃない。有名メーカーの丸餅だ。十個入袋が二つ、袋入りのまま盆に置かれている。米も有名ブランド米の五キロ入り袋を、そのままお供えしてある。雑然としてるんだけど、何となく、これぞお供え物って雰囲気がある。
天子さんは、石の八足の下手に、着物姿でパイプ椅子に座ってる。
これって完全にぼくとセットの扱いだよね?
おかしいな。
天子さんて、乾物屋の従業員だよね?
なんで当たり前のように、こんな席が用意されてるの?
一応ぼくは大師堂という屋号を持つ家の当主だし、この神社を代々管理してきた家だっていうんだから、こんな位置に座らされるのも、まあわからなくはない。
でも、それと対になる位置に天子さんの席が用意され、天子さんが当たり前のように座った。これがわからない。
天子さんは、朝来たとき、すでに着物を着てたんだから、こういう席に案内されるということがわかってたんだ。
これは今年だけのこと、なはずはないよね。
この行事のどこをとっても伝統通りって感じだ。まあお供え物のお餅が現代風になったり、上がり口のところにハロゲンライトが使われてたりするけど、それは本質的な変化じゃないと思う。
あれ?
ということは、ずっとずっと昔から、〈大師堂〉当主の席と対になる位置に、乾物屋の従業員が座るならわしだったのかな?
そんなわけないか。
あ、そうか。
たぶん、本来なら、〈大師堂〉当主の奥さんが座る席なんじゃないだろうか。
儀式ってのは形式が大事だから、奥さんの代わりに天子さんが座ることになったんじゃないだろうか。なんといっても、身内みたいな人だからね。
そうしてみると、おじいちゃんが当主の席に座ってたときも、天子さんは反対側に座ってたのかもしれないな。
納得。
でも、ということは、今日の天子さんは、ぼくの奥さん役なわけか。
そんなことを考えてると、ちょっぴり体温が上がる気がした。
なんだか、横を向きにくい。
向きにくいけど、ちらちらとうかがう。
奇麗だ。
夕日に照らされた天子さんは、この世のものとも思えないくらい奇麗だ。
そよそよと吹く風に黒髪がそよいでいるけど、天子さんは直そうともせず、じっと前を向いている。
まるで千年前からそうしてきたかのように。
そしてぼくはといえば、天子さんがそこに座っていてくれるという、ただそれだけで、勇気がわいてきて、うれしくて、何でもできるような気になってくる。
境内の奥手、神社の両側ではかがり火が焚かれ、その前に村の役員六人が、三人ずつ立っている。おそろいの法被を着て。
その前には空樽と段ボール箱が置かれている。
そのまま静かに待っていると、最初の集団が近づいてきた。
薄暗くなりはじめた村の道を、提灯行列がやってくる。区域ごとに分かれていて、一つの団体は六十人から七十人だ。区域ごとに集まって出発するので、到着時間はまちまちだ。
段々と近づいてくる。
細い村道なので、ほとんど一列縦隊に近い。それで七十人近くというと、けっこうな長さになる。
提灯の色というのは、ふしぎだ。灯りが生きてるような感じがする。その生きた灯りが七十個ほども、列をなして近づくさまは、濃さをましてゆく夕闇とあいまって、幻想的な風景だ。
行列は、まったく無言というわけでもなく、こどもたちが何事かを話しながら歩いてるんだけど、それがまた妖精のささやきのようで、近づくにつれ、独特の期待感というか、高揚感のようなものが高まってくる。
そしてついに、最初の団体が入り口にたどり着いた。
今までは木と草が茂って、境内に入れば外をみることはできなかったけど、今は木々の隙間から、提灯行列をみることができる。浴衣を着てるこどももいるけど、大方の人は普段着だ。
入り口のところだけは、ハロゲンライトで明るく照らされている。階段でつまづくと危ないからだと思う。その階段をのぼって、行列の先頭が境内に入った。
右手に提灯を持ち、左手に砂袋を持っている。砂袋というけれど、なかに入れるのは砂でも土でもいいらしい。ただ、できれば砂のほうがいいということになっているそうだ。
先頭の人は、上手側の樽に近づいてゆき、ひょい、と手に持った砂袋を樽のなかに落とし、境内の端っこのほうに歩いてゆく。
次々と、そのあとに続く人々が砂袋を樽に落としてゆく。下手の樽に入れる人はいない。あとで聞いたんだけど、区域ごとに入れる樽が決まっているんだ。
あとからあとから、提灯と砂袋を持った人が境内に上がってくる。
何がおかしいのか、けらけら笑っているこどももいる。
一人の女の子の持っている提灯が、暗い。よくみれば、焼け焦げている。
たぶん、途中で振り回して、ろうそくの火が周りの紙を焼いてしまい、火も消えてしまったんだろう。
天子さんが、社殿の階段の脇に置いてある予備の提灯の一つに火をつけた。予備の提灯は何個か並べてある。竹の柄を取り付けた状態で地面に置き、提灯をたたんでろうそくをむき出しにしてあるのだ。むき出しにしておいたほうが点火しやすいからね。
そして天子さんは、焼けて火の消えた提灯を持った女の子に近づき、新しい提灯を渡して、焼けた提灯を受け取った。
「ありがとう」
女の子が発したお礼の言葉が、異国の音楽のように響いた。
その団体の全員が境内地に上がり、砂袋を樽におさめると、全員が境内地に並んだ。そして村長が社殿の前に立った。
ぼくと天子さんは、全員と向き合っている格好になる。なんだかどきどきしてきた。
村長さんに合わせて全員が柏手を打つ。そして深々と頭を下げる。
「さあさあ、みんなお菓子を受け取ってつかあさいや」
段ボール箱のなかに入った駄菓子を、一人に一つずつ渡す。おとなもこどもも、いそいそと受け取っている。
ろうそくを取り換えている人もいる。かがり火の下には金属製の四角い缶が置いてあり、そのなかに古いろうそくを捨てる。かがり火を使って新しいろうそくに火をともし、それを提灯に差す。
ここで取り換えない人は、道中で取り換えるんだろうな。
そうして行列は、ぞろぞろと境内地を出て、村道を右に進んで帰っていった。
ここに来るときには東南の方向から来て、帰るときには北西の方向に進む。たとえ神社より西にある区域であっても、わざわざ回り込んでやって来るし、帰るときも同じだ。
そうしていると、二番目の団体がやって来た。
その団体がまだ境内に上がりきらないうちに、三番目の団体がやって来た。
三番目の団体は、二番目の団体が儀式を済ませて帰ってゆくまで、手前でじっと待っていた。
二番目の団体が帰るころには、辺りはすっかり暗くなっていて、提灯の明かりは、ふらふらと宙を飛んでいるようにみえる。
星が奇麗だ。
満天の星が、村を照らしている。
どうかすると、ふらりふらりと宙に揺れる提灯が、そのまま天にのぼってしまうんじゃないかと思える。
そんなことを思ってるうちに、次々と団体がやって来ては帰り、ついに最後の団体が境内を降りた。
六人の役員さんは、社殿の正面に回り、ぱんぱんと柏手を打って拝礼した。
まるでぼくと天子さんを拝んでいるようだ。そしてかがり火の台の奧に用意してあったバケツに、ゴミばさみで薪をつかんで入れていく。
じゅうじゅう、ぼこぼと音がして、煙が上がっている。
すべての薪をバケツの水に入れたら、六人の役員さんは、ぼくと天子さんにあいさつして、ハロゲンライトを消して、懐中電灯で道を照らしながら帰っていった。
大きな二つの樽には、砂袋がいっぱいに詰まってる。これは、明日青年部の人が来て、車で河辺に運ぶんだそうだ。
そのほかの機材も、片づけは明日になる。
誰もいなくなった夜の境内で、ぼくは天子さんと二人っきりだった。
星と月をのぞいてはね。
5
「鈴太」
はい、と答えようとしたが、喉がひっついたようになって、声が出なかった。
ぼくときたら、天子さんと二人っきりだということに気づいて、なぜだか知らないけど、体中が甘くしびれたようになっていた。耳もじんじんするし、指先も、そして人にいえないような先っちょも、びりびりして、いっぱいいっぱいだった。たぶんこのとき、ぼくの顔は、真っ赤になっていただろう。
「鈴太」
ぼくは、答える代わりに、右のほうを向いた。
なんで首を回すだけのことに、こんなに力を入れなくちゃならないんだろう。
天子さんは、空をみていた。
すごく遠くをみるような目で。
ぼくも空をみた。
天空には巨大な月がある。
その月の前を、薄い雲が通り過ぎる。
天女が薄衣を脱ごうとしているみたいだ。
柄にもなく、そんな叙情的な比喩が浮かんだ。
「そのまま、空をみながら聞くがよい」
なんだか、天子さんの声が、いつもの声とちがう。
どう言えばいいんだろう。
生々しさのない声というか、透明な声というか。
ああ、そうだ。
いつか白澤山で散る桜のなかで舞いを舞ったときのような。
時間と空間を超越した天子さんが、今ここにいるんだ。
「この里の成り立ちについて話そう」
思わずぼくは、天子さんのほうをみた。
天子さんもぼくのほうをみて、柔らかにほほえむと、もう一度空のほうに顔を向けた。
「それには、古い古い、伝説のような話から始めなくてはならぬ」
そのあと天子さんの口から語られたのは、驚くべき物語だった。