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羽振村妖怪譚  作者: 支援BIS
第4話 こなきじじい
15/90

後編

12


 今日も神社に着いたとき、神社から出て来る艶さんに会った。

 あちらもこちらに気づいたみたいで、深々とお辞儀をしてきた。だからぼくも深々とお辞儀を返した。

 腰の低い人だよね。だけど奇妙な気品があるような感じもする。

 ぼくが朝早く来たときに帰ってゆく艶さんに会うということは、あちらはもっと早く来てるってことだよね。いったい何時に来てたんだろう。

 そんなことを考えながら、神社のなかと境内の掃除をして帰ろうとして、ふと思った。

 神社の正面にある石の八足。

 あれは最初から奇麗だった。

 長いあいだには、たくさんの泥がこびりついていて当然なのに、なぜか八足の上だけは奇麗だった。

 誰かがずっと掃除してたんだろうか。もしかして、その誰かというのは艶さんなんだろうか。

 そんなことを考えながら家のほうに帰る途中、バス停のほうに向かってあるく照さんをみかけた。ということは、今日は月曜日だ。

 乾物屋は日祝日関係なく開けてるし、最近はテレビをあまりみないので、曜日感覚がなくなってきてる。

 照さんと秀さんと艶さんは、三人合わせて〈三婆(さんばあ)〉と呼ばれている。

 その三婆の一人、照さんは、毎週月曜日の朝、バスで最寄りの地方都市に行く。総合病院に行くためだ。その総合病院で、朝から午後まで、いくつかの科を渡り歩く。どこかが格別に悪いというわけでもないようだが、やはり年齢相応に、いろいろと調子の悪い所はあるらしい。

 総合病院の待合には、かねてからの知り合いがいる。総合受付の前の待合にも誰か知り合いがいるし、各科の待ち合わせでも、たいてい知り合いがいる。その知り合いたちとだべって時間を過ごすのが楽しみなのだ。

 そしてたくさんの薬をもらって帰る。道中の景色も、照さんの楽しみだ。

「町への行き帰りに、橋の上から天逆川(あめのさかがわ)をみるんが、ほん好きなんじゃ」

 〈ほん好き〉というのは、〈本当に好き〉という意味だと思う。そのうち誰かに確認しとかなくちゃ。

 まあ、そんなわけで、照さんは通院を楽しみにしてる。ほんと元気だよ、この村のお年寄りは。

 さて、家に帰ると朝食の用意ができてた。

 食べ終えて、天子さんと話しながら、お茶を飲んでまったりして。

 そしてぼつぼつ店の掃除をしていると、入れ替わりお客さんが来る。

 この店はたぶん、情報収集と交流のスペースみたいな機能を持ってる。

 お客さん同士で話をかわすことも多い。店の外で話が始まると、木の古い長椅子を出してあげたり、灰皿を出してあげたりする。売り上げノルマなんてないんだから、商売といっても気楽なものだ。

 この日も昼前に野枝さんが来た。

 うわ。

 生々しい。

 おへその上の腫れ物が、少し大きくなってる。なんか不気味だ。

 ところが不思議なことに、そんな不気味な腫れ物をおなかに貼り付けている野枝さん本人は、憑きものが落ちたような涼やかな顔をしている。むしろ、晴れやかというか誇らしげというか、女であることを堂々と表明しているようなまぶしさがある。

 この状態の野枝さんとなら、つきあいたいと考える男の人もいるんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、少しばかりとりとめのない世間話をした。

 あとで思えば、このときすでに異常は始まっていたんだ。


13


「うわ。また大きくなりましたね」

「うふふ。そうなんじゃ」

 少しずつ、少しずつ、腫れ物は大きくなっていった。

 そのあいだに、いろんなことがあった。

 〈やまびこ〉の事件もあった。

 〈ぶらり火〉の事件もあった。

 ぼくは、村の人のなかに段々知り合いも増えてきている。

 そして七月の初旬も過ぎようとするころには、野枝さんのおなかは、ほんとに異常なことになってきてた。

 ここのところ数日の、腫れ物の成長具合は普通じゃない。

 一日ごとに、目にみえて大きくなってゆく。そして、大きくなるごとに、不気味さが増す。

 これはいったい何なんだろう?

 ただの腫れ物なんかじゃない。

 そんな普通のものじゃない。

 もっと異常で禍々しい何かだ。

 どこまで大きくなるんだろう。

 いつ成長がとまるんだろう。

 止まったとき、何が起こるんだろう。

「あれ? お化粧、してます?」

「わかる? ファンデーションと、ちょこっとね」

 控えめな笑顔が美しい、と思った。

 まさか野枝さんをみて美しいと思う日が来るとは。

 でも、ほんとに今の野枝さんは、女らしくて、みずみずしくて、そして幸せそうだ。

 顔だけをみて会話してると、思わず言いたくなる。

「元気なお子さんが生まれるといいですね」

 そんな言葉は絶対に発してはだめだ。

 だって、野枝さんのおなかで何が起きてるにしても、それは妊娠なんかではあり得ない。こどもの誕生を楽しみにすればするほど、あとで野枝さんの悲しみも深くなる。

 かといって、今の幸せを壊したくない。ほんのわずかなあいだの夢だとしても。

「痛みはないのか」

 今日は珍しく天子さんが会話に参加してきた。

「へえ。痛みはねえけん。おとなしゅうしとってくれます」

「夜はよく眠れるか」

「へえ。そりゃもう。ぐっすり寝てます」

「そうか」

 そう言うと天子さんは、後ろに下がってしまった。掃除機の音が聞こえる。奧の掃除をしてくれているんだ。

「お体、大事にしてくださいね」

 帰り際の野枝さんにそう声をかけると、振り向いて、まぶしいような笑顔でうなずいた。

 それからも、腫れ物が大きくなるスピードはゆるまなかった。むしろ加速した。それは恐ろしい出来事だった。

 誰かこの異常に気づいてないんだろうか。

 誰かこの異常を何とかしてくれないのか。

 ぼくの心の叫びを聞いてくれる人はいない。

 そして、さらに腫れ物は大きくなっていった。

 今や、はっきり人間の形をしている。いや、小さな地蔵のような形といったほうがいいだろうか。頭部と胴体のあいだがくびれているんだ。

 野枝さんは、おなかをそのままにしておくのが苦しくなったのか、腹に包帯をぐるぐる巻いている。包帯を巻いたその上に、はっきりと小さな人間の形が浮き出ている。

 それをみていると、どきどきする。

 不安で不安で、じっとしていられなくなる。

 どうしてあんなものをおなかに抱えて、野枝さんは平気なんだろう。

 おかしい。

 何かがおかしい。


14


「昨日、みたぞ」

「法師どの。みたというのは何のことか」

「野枝じゃよ。野枝の腹じゃ」

「野枝の家に行ったのかえ?」

「来たんじゃ。わしに腹をみせていきよった。自慢げにのう」

「どうみた」

「妖気を感じたが、わずかなものじゃ」

「そうであろうなあ」

「つまり、石像にたまっておった妖気の大方は、まだみえんところに隠れておる。この世ならざるどこかにの」

「あれは、どこまでふくらむのであろう」

「さてと。わからんなあ」

「幸い、といってよいのか、野枝は毎日鈴太のところに来る」

「野枝は存外鋭いところがある。自分をきらわずに受け入れてくれるのが誰かを、直感的に知っておるんじゃな」

「この状態で野枝の腹を攻撃したら、何がおきるかのう」

「野枝は死ぬじゃろうなあ。腹のものも滅するかもしれん。じゃが、石像にたまっておった妖気の大部分は、どうなるかわからん。その場で現れるかもしれんし、別の所に現れるかもしれん」

「あやかしになるかのう」

「それが普通じゃ。あやかしになれば討てばよい」

「人に憑くかもしれん」

「そんなことはない、とは言えなくなってしもうたのう」

「厄介だのう」

「厄介じゃとも」

「しかし厄介であっても、鈴太が危ないと判断したら、わらわはあれを攻撃する」

「鈴太の目の前でか?」

「それはわからんが、たぶんどこかに飛ばしてから処理する」

「そうじゃの。人目のあるところで野枝を殺せば、何かと面倒なことになる。今はまだお役目の途中じゃからな」

「そうじゃ。途中じゃ」

「しかし普通の人間の目はごまかせても、鈴太の目はごまかせんかもしれんぞ」

「それならそれで、しかたあるまい」

「その前に、話してしもうたらどうじゃ」

「……今回の件が片付いたら話そう」

「……そうか」

「うむ」

「いっそ、こちらから出向いてはどうじゃな」

「ふむ。それもよいな。いや、それがよい。明日から毎朝、野枝の家に行く」

「鈴太の朝食が遅うなりはせんか」

「……しかたなかろう」


15


 天子さんが来ない。

 神社の掃除を早めに済ませ、家に帰って朝食の準備をした。

 そして天子さんが来るのを待ってるんだけど、どうしたんだろう。

 一人で先に食べようかと思ったけど、やっぱり待つことにした。

 なんだか落ち着かない。

 テレビをつけては消す。またつけては消す。

 思えば、この村に来て以来、ずっと朝食は天子さんと一緒だった。

 ずっと一人で朝ご飯を食べてたぼくなのに、二人での食事、しかもとびっきりのかわいい女の子との食事が、当たり前になってしまった。

 それがどんなに幸せなことだったのかなんて気づきもせずに。

 いや、ちがう。

 奇麗な女の人なら誰でもいいんじゃない。

 天子さんだから楽しいんだ。

 楽しい、というのともちがうかも。

 何ていうか、もっとおだやかで、もっと満たされてて、もっと……

 玄関のほうに人の気配がした。

(天子さんだ!)

 部屋一つを越え、上がりかまちを飛び降りて、ぼくは天子さんを迎えに玄関に急ぎ、あいさつをした。自分でもびっくりするような、明るくて元気な声が出た。

「おはよう!」

「お、おはよう」

 返ってきた返事は、天子さんの声とは全然ちがう声だ。

 そこにいたのは天子さんじゃなかった。野枝さんだった。

(どうしたんだろう。声がひどくかれてるけど)

 こんな時刻に来たのははじめてだ。

 重そうにおなかを抱えて、ゆっくりと歩いてきた。

 この速度で来たんだとすると、家から相当時間がかかったんじゃないんだろうか。

 おなかをみて、驚いた。

 昨日より格段に大きくなっている。

 もう、赤ちゃんが生まれるときの大きさなんか、完全に追い越している。

 ぼくは急いで丸椅子を差し出した。

 野枝さんは、椅子に座って、少し楽そうな顔をした。

「水を、一杯、もらえるじゃろうか」

「あ、はい。ちょっと待ってくださいね」

 冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、コップにそそいで丸盆に載せ、上がりかまちを降りて野枝さんにお盆を差し出そうとして……


 ぎょっとした。


 一回り大きくなっている。

 さっきみたときよりも。

 ぼくが水をくんでくる、わずかなあいだに、腹の腫れ物は成長したんだ。

 そんなばかなことがあるだろうか。だけど確かに大きくなった。

(まさか)

「み、水を……」

「あ、はい。どうぞ」

 お盆を差し出すと、野枝さんは、コップを受け取り、ごくごくと飲んだ。

 ぼくはそのとき、ばかなことをした。

 目を離したら何か起きるか確かめようと、後ろを振り返ったんだ。

 部屋のなかのちゃぶ台や、カレンダーや、いろんなものをみまわして、少し時間を置いてから、ぐるっと体を回して、野枝さんのほうをみた。

 大きくなってる。

 まちがいない。

 こいつ、人が目を離すと成長するんだ。

「あ、ありがと」

 コップをお盆で受け取って、座敷のほうに押しやった。

 運動した直後に水を飲んだので、野枝さんは汗をかいている。そうでなくても薄い服が、その汗で透けてみえる。

 包帯の下の腫れ物は、くっきりとした輪郭だ。

 野枝さんは、少し後ろに背をそらして、ぐっと口を引き結び、苦しそうに鼻で息をしている。両手は腫れ物を抱え込むような感じで下腹に当てられている。

 顔からはどんどん汗があふれ出る。体も汗をかいているようだ。

 腫れ物の色までが、うっすらみえてきた。

 熟れすぎた柿のような色だ。

 野枝さんが、口を開けて、はあはあと、荒い息をつきはじめた。

 腫れ物の色が、段々濃くなってゆく。

 どす黒くなってゆく。

 もうすぐだ。

 もうすぐ腫れ物のなかのものが、正体を現す。

 腫れ物は、大きくなりながら、どす黒くなりながら、ますます不吉で凶悪な気配を強めていく。みる者を不安に陥れる波動を放ってくる。

 野枝さんは、唇をかみしめ、顔をくしゃくしゃにして、苦痛に耐えている。

 いけない。

 このまま放っておいてはいけない。

 そのときぼくは、それをした。

 あとになってみて、どうしてそんなことをしたのかわかない。

 けれどもそのときは、自然にそうしていた。

 ぼくは思わず、心のなかで腫れ物に話しかけていたんだ。

(おい、お前)

(…………)

(お前、わかってるか)

(…………)

(どうして自分がこの世に生まれるのか、わかってるのか)

(…………)

(何が自分を生み出すのか、わかってるのか)

(…………)

(自分が何をしに生まれてくるのか、わかってるのか)

(…………)

(お前をこの世に生むのは、野枝さんだ)

(…………)

(野枝さんが、お前を生むんだ)

(…………)

(野枝さんが、お前のお母さんなんだ)

(…………)

(野枝さんが、〈子無き地蔵〉に願をかけた)

(…………)

(毎日毎日、願をかけた)

(…………)

(毎日毎日、歩いてやって来て、〈子無き地蔵〉に願をかけた)

(…………)

(必死の思いで願をかけた)

(…………)

(新しい命をください)

(…………)

(私に赤ちゃんをください)

(…………)

(いい子をください)

(…………)

(元気な子をください)

(…………)

(五体満足で)

(…………)

(肌がすべすべして)

(…………)

(いい笑顔で笑う)

(…………)

(素敵な赤ちゃんを)

(…………)

(立派にすくすく成長して)

(…………)

(親孝行して)

(…………)

(世のなかのお役に立つ)

(…………)

(立派な子を)

(…………)

(どうぞ私に育てさせてください)

(…………)

(そんなふうに願をかけた)

(…………)

(だからお前は生まれるんだ)

(…………)

(だからお前は命を得たんだ)

(…………)

(野枝さんは、どんなに苦労をしても)

(…………)

(お前を立派に育てるつもりだ)

(…………)

(お前を幸せにするつもりだ)

(…………)

(だからお前は)

(…………)

(お母さんを幸せにするために生まれてこい)

(…………)

(いい子に生まれてこい)

(…………)

(わかったか)

(オカアサンヲ?)

(そうだ)

(シアワセ?)

(そうだ)

(イイコ?)

(そうだ)


 ちりーん。


 奧の部屋のお社の前に置いてあるはずの鈴が鳴った。

 とても奇麗な音でなった。

 すると、野枝さんの腹の腫れ物は、ぐりぐりと前にせり出してきて。

 そして、ぽろりと転がり出た。

 ぼくは両手を差し出して、それをそっと受け止めた。

 玉のような赤ん坊だ。

 いつのまにかやって来た天子さんが、入り口のほうから、じっとその赤ん坊をみつめていた。


16


「信じられぬ」

「さっきから、そればっかりじゃな」

「自分の目でみたことが信じられぬ」

「いいから、順を追って、きちんと説明してくれんか」

「わらわは、今朝、野枝の家に行った」

「ほう。行ったのか」

「行った。あれが危険なほどにふくらんでおったら、たとえ妖気の大部分がこの世に現れておらなんだとしても、法師どのを呼んで滅してしまうつもりであった」

「うむ。昨夜の話の通りじゃな」

「ところが野枝はおらなんだ」

「危険を察知して逃げたのか」

「そうではあるまいな。今から思えば、腹が異常にふくらんでじっとしていられなくなり、助けを求めてさまよい出たのであろう」

「鈴太の家にな」

「鈴太の家にじゃ。そして鈴太の目の前で、あの異形は最後の成長を始めた」

「おぬしはすぐに野枝を追いかけたのかの?」

「野枝が鈴太の家に行ったとは思わなんだ。そのため近所を探して、時間を取ってしもうた」

「ふむふむ」

「もしやと思い鈴太の家に向かった。家に近づいたところで、鈴太の声が聞こえた。口でしゃべる声ではない。心でしゃべる声じゃ。心でしゃべる声なのに、練達の行者のようにはっきりした声じゃった」

「ああ、それは佐々の家のぶらり火のときもそうだったのじゃ。言うておらんかったのか」

「聞いておらんな」

「それはすまんことをした」

「鈴太は異形に言い聞かせておった」

「ほう。何をじゃ」

「お前は野枝に祈られて生まれてくるのだ。野枝はどんな苦労をしてもお前を幸せにすると願をかけた。だからお前のお母さんは野枝だ。お前は野枝を幸せにするために生まれてこい。そう言い聞かせておった」

「異形にそんなことを言い聞かせたのか?」

「言い聞かせたのじゃ」

「聞きはすまい。聞いたとしても、異形は異形じゃ」

「あの声を聞かせてやりたいのう。わらわは身がしびれた」

「ほう?」

「鈴太の声はじんじんと全身に響き、こちらを埋め尽くすのじゃ。わらわは声の海の深みでおぼれるかと思うた」

「なんとのう」

「一方、異形は成長しきっており、まさに闇の世界から妖気の塊が飛び出そうとしておった」

「なに?」

「それが出てきたら滅するつもりで、わらわは爪を振り上げた」

「そ、それで、どうなった」

「まさに妖気が異形の身に落ちる瞬間、異形が鈴太に質問をした」

「質問じゃと」

「はっきりとした意味はわからなんだが、お母さんを幸せにするのか、自分はいい子に生まれればいいのか、というようなことを訊いたと思う」

「異形が?」

「異形がそう尋ねたのじゃ。鈴太は、そうだ、と確信を持って答えておった」

「異形がそんなことを訊くわけがないし、答えを聞いたとして、どうなるというのじゃ」

「その瞬間、ついに妖気は異形のなかに入り、この世に生まれ落ちた」

「正体を現したか!」

「生まれたものは、けがれなき赤子であった」

「……は?」

「美しい赤子であった」

「そんなばかな」

「妖気のかけらもない、生気にみちた、ういういしい清浄な赤子であった」

「信じられん」

「みよ。法師どのもそう言うであろう」

「信じられるわけがない」

「それでもこれは、事実なのだ」

「…………」

「…………」

「のう、天狐よ」

「何かのう、法師どの」

「あやかしを滅することはできる。それだけの力があればの」

「うむ」

「特別な加護があれば、浄化することもできる」

「もちろんじゃ」

「じゃが、あやかしそのものである異形を、そのまま人間の赤子に作りかえることなど、誰にもできん」

「法師どの」

「何じゃ?」

「あれは、ただのあやかしだったのじゃろうか」

「ふむ?」

「ただの異形であったのか」

「異形以外の何物でもあるまい」

「野枝が〈子無き地蔵〉に祈願を込め、あれが生じた。われらは、石像の妖気が乗り移ったのだと考えた。法師どのも、そう考えた」

「それ以外、どう考えられよう」

「確かに妖気は野枝の腹に宿った。しかし、あの腫れ物のもとになったのは、野枝の体の一部、野枝の魂の一部ではないのか」

「む。そういえば、そうにちがいない」

「野枝の体の一部と野枝の魂の一部に、妖気が入り込んで、あの腫れ物となった」

「なるほど」

「野枝の体の一部と野枝の魂の一部なら、正常な清い赤子のもとになったとしても、不思議ではないのじゃ。ただし、生じた時点では異形の雛でしかなかったがの」

「むむ、むむ」

「異形の雛は成長し、そこに妖気の本体が入り込こもうとした。妖気という力を得て、異形は異形として誕生しようとした」

「むうう。それで?」

「しかし鈴太の言葉の力で、妖気という陰の力は、生命という陽の力に転じ、野枝の体と魂の一部は、赤ん坊としてこの世に落ちたのじゃ」

「……よくわからん。しかし、そんなこともあるかもしれん、という気はしてきた」

「驚くべきは、鈴太の言葉の圧倒的な感化の力じゃ。なにしろ異形に、自分は人間の赤ん坊だと納得させたのじゃからのう」

「むちゃくちゃな話じゃのう」

「何度も何度も確かめたが、赤ん坊は確かに赤ん坊なのじゃ。そこに疑いの余地はない。法師どのもみにゆくがよい」

「行くとも。行かいでか」

「わらわにも、何がどうなったか、本当のところはわからん。だが、得られた結果は最上じゃ」

「最上じゃなあ。石像の妖気が完全にはらわれたのならなあ」

「しかも野枝は念願の赤子を得た」

「ばっはっはっは。まさに、まさに」

「殿村を呼んだ。手続きをしてもらうためにの」

「男親のない子など、世のなかにいくらでもおる。とはいえ、野枝はこれから重荷を背負うのう」

「背負いがいのある荷物よ」

「天狐」

「なにかの?」

「おぬしも赤子が欲しいか」

「……そうよなあ。自分の子を持ってみたいと思ったことはない、と言えば嘘になる」

「そうか」

「じゃが、法師どのも知るように、何十人という〈はふり〉の者の赤子を、母代わりとして育ててきた。子育ての味は、充分に味おうてきた」

「今、思いついたのじゃが」

「うむ。何かな」

「もしや野枝は異形に操られたのではないかな」

「異形に?」

「異形に操られて、鈴太のもとに行ったのではないかな」

「鈴太のもとに? なにゆえ」

「〈はふり〉の者を害するため」

「……………………」

「考えられぬか」

「もし、そうだとしたら、この里の秘密を知り、それを妨げようとしている者がある、ということになる」

「そうじゃのう」

「その話はこの前もした。今になって、われらの役目を邪魔する者が現れるなど、あり得ることであろうか」

「それはそうじゃ。しかし、ここ百数十年は、これといったあやかしは出なかったのに、鈴太が来てからは、短い期間に三度も出た。しかもそのうち二度は、人間に取り憑いて生じたあやかしじゃ。これも今までにはなかったことじゃ」

「それはそうじゃな」

「いずれにしても、いよいよ心を引きしめねばならぬ」

「まさにそうじゃ」

「鈴太には話したのかの?」

「いや。折をみて話す」

「そうか」

「そうじゃ」


「第4話 こなきじじい」完/次回「第5話 ひでり神」

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