後編
12
今日も神社に着いたとき、神社から出て来る艶さんに会った。
あちらもこちらに気づいたみたいで、深々とお辞儀をしてきた。だからぼくも深々とお辞儀を返した。
腰の低い人だよね。だけど奇妙な気品があるような感じもする。
ぼくが朝早く来たときに帰ってゆく艶さんに会うということは、あちらはもっと早く来てるってことだよね。いったい何時に来てたんだろう。
そんなことを考えながら、神社のなかと境内の掃除をして帰ろうとして、ふと思った。
神社の正面にある石の八足。
あれは最初から奇麗だった。
長いあいだには、たくさんの泥がこびりついていて当然なのに、なぜか八足の上だけは奇麗だった。
誰かがずっと掃除してたんだろうか。もしかして、その誰かというのは艶さんなんだろうか。
そんなことを考えながら家のほうに帰る途中、バス停のほうに向かってあるく照さんをみかけた。ということは、今日は月曜日だ。
乾物屋は日祝日関係なく開けてるし、最近はテレビをあまりみないので、曜日感覚がなくなってきてる。
照さんと秀さんと艶さんは、三人合わせて〈三婆〉と呼ばれている。
その三婆の一人、照さんは、毎週月曜日の朝、バスで最寄りの地方都市に行く。総合病院に行くためだ。その総合病院で、朝から午後まで、いくつかの科を渡り歩く。どこかが格別に悪いというわけでもないようだが、やはり年齢相応に、いろいろと調子の悪い所はあるらしい。
総合病院の待合には、かねてからの知り合いがいる。総合受付の前の待合にも誰か知り合いがいるし、各科の待ち合わせでも、たいてい知り合いがいる。その知り合いたちとだべって時間を過ごすのが楽しみなのだ。
そしてたくさんの薬をもらって帰る。道中の景色も、照さんの楽しみだ。
「町への行き帰りに、橋の上から天逆川をみるんが、ほん好きなんじゃ」
〈ほん好き〉というのは、〈本当に好き〉という意味だと思う。そのうち誰かに確認しとかなくちゃ。
まあ、そんなわけで、照さんは通院を楽しみにしてる。ほんと元気だよ、この村のお年寄りは。
さて、家に帰ると朝食の用意ができてた。
食べ終えて、天子さんと話しながら、お茶を飲んでまったりして。
そしてぼつぼつ店の掃除をしていると、入れ替わりお客さんが来る。
この店はたぶん、情報収集と交流のスペースみたいな機能を持ってる。
お客さん同士で話をかわすことも多い。店の外で話が始まると、木の古い長椅子を出してあげたり、灰皿を出してあげたりする。売り上げノルマなんてないんだから、商売といっても気楽なものだ。
この日も昼前に野枝さんが来た。
うわ。
生々しい。
おへその上の腫れ物が、少し大きくなってる。なんか不気味だ。
ところが不思議なことに、そんな不気味な腫れ物をおなかに貼り付けている野枝さん本人は、憑きものが落ちたような涼やかな顔をしている。むしろ、晴れやかというか誇らしげというか、女であることを堂々と表明しているようなまぶしさがある。
この状態の野枝さんとなら、つきあいたいと考える男の人もいるんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、少しばかりとりとめのない世間話をした。
あとで思えば、このときすでに異常は始まっていたんだ。
13
「うわ。また大きくなりましたね」
「うふふ。そうなんじゃ」
少しずつ、少しずつ、腫れ物は大きくなっていった。
そのあいだに、いろんなことがあった。
〈やまびこ〉の事件もあった。
〈ぶらり火〉の事件もあった。
ぼくは、村の人のなかに段々知り合いも増えてきている。
そして七月の初旬も過ぎようとするころには、野枝さんのおなかは、ほんとに異常なことになってきてた。
ここのところ数日の、腫れ物の成長具合は普通じゃない。
一日ごとに、目にみえて大きくなってゆく。そして、大きくなるごとに、不気味さが増す。
これはいったい何なんだろう?
ただの腫れ物なんかじゃない。
そんな普通のものじゃない。
もっと異常で禍々しい何かだ。
どこまで大きくなるんだろう。
いつ成長がとまるんだろう。
止まったとき、何が起こるんだろう。
「あれ? お化粧、してます?」
「わかる? ファンデーションと、ちょこっとね」
控えめな笑顔が美しい、と思った。
まさか野枝さんをみて美しいと思う日が来るとは。
でも、ほんとに今の野枝さんは、女らしくて、みずみずしくて、そして幸せそうだ。
顔だけをみて会話してると、思わず言いたくなる。
「元気なお子さんが生まれるといいですね」
そんな言葉は絶対に発してはだめだ。
だって、野枝さんのおなかで何が起きてるにしても、それは妊娠なんかではあり得ない。こどもの誕生を楽しみにすればするほど、あとで野枝さんの悲しみも深くなる。
かといって、今の幸せを壊したくない。ほんのわずかなあいだの夢だとしても。
「痛みはないのか」
今日は珍しく天子さんが会話に参加してきた。
「へえ。痛みはねえけん。おとなしゅうしとってくれます」
「夜はよく眠れるか」
「へえ。そりゃもう。ぐっすり寝てます」
「そうか」
そう言うと天子さんは、後ろに下がってしまった。掃除機の音が聞こえる。奧の掃除をしてくれているんだ。
「お体、大事にしてくださいね」
帰り際の野枝さんにそう声をかけると、振り向いて、まぶしいような笑顔でうなずいた。
それからも、腫れ物が大きくなるスピードはゆるまなかった。むしろ加速した。それは恐ろしい出来事だった。
誰かこの異常に気づいてないんだろうか。
誰かこの異常を何とかしてくれないのか。
ぼくの心の叫びを聞いてくれる人はいない。
そして、さらに腫れ物は大きくなっていった。
今や、はっきり人間の形をしている。いや、小さな地蔵のような形といったほうがいいだろうか。頭部と胴体のあいだがくびれているんだ。
野枝さんは、おなかをそのままにしておくのが苦しくなったのか、腹に包帯をぐるぐる巻いている。包帯を巻いたその上に、はっきりと小さな人間の形が浮き出ている。
それをみていると、どきどきする。
不安で不安で、じっとしていられなくなる。
どうしてあんなものをおなかに抱えて、野枝さんは平気なんだろう。
おかしい。
何かがおかしい。
14
「昨日、みたぞ」
「法師どの。みたというのは何のことか」
「野枝じゃよ。野枝の腹じゃ」
「野枝の家に行ったのかえ?」
「来たんじゃ。わしに腹をみせていきよった。自慢げにのう」
「どうみた」
「妖気を感じたが、わずかなものじゃ」
「そうであろうなあ」
「つまり、石像にたまっておった妖気の大方は、まだみえんところに隠れておる。この世ならざるどこかにの」
「あれは、どこまでふくらむのであろう」
「さてと。わからんなあ」
「幸い、といってよいのか、野枝は毎日鈴太のところに来る」
「野枝は存外鋭いところがある。自分をきらわずに受け入れてくれるのが誰かを、直感的に知っておるんじゃな」
「この状態で野枝の腹を攻撃したら、何がおきるかのう」
「野枝は死ぬじゃろうなあ。腹のものも滅するかもしれん。じゃが、石像にたまっておった妖気の大部分は、どうなるかわからん。その場で現れるかもしれんし、別の所に現れるかもしれん」
「あやかしになるかのう」
「それが普通じゃ。あやかしになれば討てばよい」
「人に憑くかもしれん」
「そんなことはない、とは言えなくなってしもうたのう」
「厄介だのう」
「厄介じゃとも」
「しかし厄介であっても、鈴太が危ないと判断したら、わらわはあれを攻撃する」
「鈴太の目の前でか?」
「それはわからんが、たぶんどこかに飛ばしてから処理する」
「そうじゃの。人目のあるところで野枝を殺せば、何かと面倒なことになる。今はまだお役目の途中じゃからな」
「そうじゃ。途中じゃ」
「しかし普通の人間の目はごまかせても、鈴太の目はごまかせんかもしれんぞ」
「それならそれで、しかたあるまい」
「その前に、話してしもうたらどうじゃ」
「……今回の件が片付いたら話そう」
「……そうか」
「うむ」
「いっそ、こちらから出向いてはどうじゃな」
「ふむ。それもよいな。いや、それがよい。明日から毎朝、野枝の家に行く」
「鈴太の朝食が遅うなりはせんか」
「……しかたなかろう」
15
天子さんが来ない。
神社の掃除を早めに済ませ、家に帰って朝食の準備をした。
そして天子さんが来るのを待ってるんだけど、どうしたんだろう。
一人で先に食べようかと思ったけど、やっぱり待つことにした。
なんだか落ち着かない。
テレビをつけては消す。またつけては消す。
思えば、この村に来て以来、ずっと朝食は天子さんと一緒だった。
ずっと一人で朝ご飯を食べてたぼくなのに、二人での食事、しかもとびっきりのかわいい女の子との食事が、当たり前になってしまった。
それがどんなに幸せなことだったのかなんて気づきもせずに。
いや、ちがう。
奇麗な女の人なら誰でもいいんじゃない。
天子さんだから楽しいんだ。
楽しい、というのともちがうかも。
何ていうか、もっとおだやかで、もっと満たされてて、もっと……
玄関のほうに人の気配がした。
(天子さんだ!)
部屋一つを越え、上がりかまちを飛び降りて、ぼくは天子さんを迎えに玄関に急ぎ、あいさつをした。自分でもびっくりするような、明るくて元気な声が出た。
「おはよう!」
「お、おはよう」
返ってきた返事は、天子さんの声とは全然ちがう声だ。
そこにいたのは天子さんじゃなかった。野枝さんだった。
(どうしたんだろう。声がひどくかれてるけど)
こんな時刻に来たのははじめてだ。
重そうにおなかを抱えて、ゆっくりと歩いてきた。
この速度で来たんだとすると、家から相当時間がかかったんじゃないんだろうか。
おなかをみて、驚いた。
昨日より格段に大きくなっている。
もう、赤ちゃんが生まれるときの大きさなんか、完全に追い越している。
ぼくは急いで丸椅子を差し出した。
野枝さんは、椅子に座って、少し楽そうな顔をした。
「水を、一杯、もらえるじゃろうか」
「あ、はい。ちょっと待ってくださいね」
冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、コップにそそいで丸盆に載せ、上がりかまちを降りて野枝さんにお盆を差し出そうとして……
ぎょっとした。
一回り大きくなっている。
さっきみたときよりも。
ぼくが水をくんでくる、わずかなあいだに、腹の腫れ物は成長したんだ。
そんなばかなことがあるだろうか。だけど確かに大きくなった。
(まさか)
「み、水を……」
「あ、はい。どうぞ」
お盆を差し出すと、野枝さんは、コップを受け取り、ごくごくと飲んだ。
ぼくはそのとき、ばかなことをした。
目を離したら何か起きるか確かめようと、後ろを振り返ったんだ。
部屋のなかのちゃぶ台や、カレンダーや、いろんなものをみまわして、少し時間を置いてから、ぐるっと体を回して、野枝さんのほうをみた。
大きくなってる。
まちがいない。
こいつ、人が目を離すと成長するんだ。
「あ、ありがと」
コップをお盆で受け取って、座敷のほうに押しやった。
運動した直後に水を飲んだので、野枝さんは汗をかいている。そうでなくても薄い服が、その汗で透けてみえる。
包帯の下の腫れ物は、くっきりとした輪郭だ。
野枝さんは、少し後ろに背をそらして、ぐっと口を引き結び、苦しそうに鼻で息をしている。両手は腫れ物を抱え込むような感じで下腹に当てられている。
顔からはどんどん汗があふれ出る。体も汗をかいているようだ。
腫れ物の色までが、うっすらみえてきた。
熟れすぎた柿のような色だ。
野枝さんが、口を開けて、はあはあと、荒い息をつきはじめた。
腫れ物の色が、段々濃くなってゆく。
どす黒くなってゆく。
もうすぐだ。
もうすぐ腫れ物のなかのものが、正体を現す。
腫れ物は、大きくなりながら、どす黒くなりながら、ますます不吉で凶悪な気配を強めていく。みる者を不安に陥れる波動を放ってくる。
野枝さんは、唇をかみしめ、顔をくしゃくしゃにして、苦痛に耐えている。
いけない。
このまま放っておいてはいけない。
そのときぼくは、それをした。
あとになってみて、どうしてそんなことをしたのかわかない。
けれどもそのときは、自然にそうしていた。
ぼくは思わず、心のなかで腫れ物に話しかけていたんだ。
(おい、お前)
(…………)
(お前、わかってるか)
(…………)
(どうして自分がこの世に生まれるのか、わかってるのか)
(…………)
(何が自分を生み出すのか、わかってるのか)
(…………)
(自分が何をしに生まれてくるのか、わかってるのか)
(…………)
(お前をこの世に生むのは、野枝さんだ)
(…………)
(野枝さんが、お前を生むんだ)
(…………)
(野枝さんが、お前のお母さんなんだ)
(…………)
(野枝さんが、〈子無き地蔵〉に願をかけた)
(…………)
(毎日毎日、願をかけた)
(…………)
(毎日毎日、歩いてやって来て、〈子無き地蔵〉に願をかけた)
(…………)
(必死の思いで願をかけた)
(…………)
(新しい命をください)
(…………)
(私に赤ちゃんをください)
(…………)
(いい子をください)
(…………)
(元気な子をください)
(…………)
(五体満足で)
(…………)
(肌がすべすべして)
(…………)
(いい笑顔で笑う)
(…………)
(素敵な赤ちゃんを)
(…………)
(立派にすくすく成長して)
(…………)
(親孝行して)
(…………)
(世のなかのお役に立つ)
(…………)
(立派な子を)
(…………)
(どうぞ私に育てさせてください)
(…………)
(そんなふうに願をかけた)
(…………)
(だからお前は生まれるんだ)
(…………)
(だからお前は命を得たんだ)
(…………)
(野枝さんは、どんなに苦労をしても)
(…………)
(お前を立派に育てるつもりだ)
(…………)
(お前を幸せにするつもりだ)
(…………)
(だからお前は)
(…………)
(お母さんを幸せにするために生まれてこい)
(…………)
(いい子に生まれてこい)
(…………)
(わかったか)
(オカアサンヲ?)
(そうだ)
(シアワセ?)
(そうだ)
(イイコ?)
(そうだ)
ちりーん。
奧の部屋のお社の前に置いてあるはずの鈴が鳴った。
とても奇麗な音でなった。
すると、野枝さんの腹の腫れ物は、ぐりぐりと前にせり出してきて。
そして、ぽろりと転がり出た。
ぼくは両手を差し出して、それをそっと受け止めた。
玉のような赤ん坊だ。
いつのまにかやって来た天子さんが、入り口のほうから、じっとその赤ん坊をみつめていた。
16
「信じられぬ」
「さっきから、そればっかりじゃな」
「自分の目でみたことが信じられぬ」
「いいから、順を追って、きちんと説明してくれんか」
「わらわは、今朝、野枝の家に行った」
「ほう。行ったのか」
「行った。あれが危険なほどにふくらんでおったら、たとえ妖気の大部分がこの世に現れておらなんだとしても、法師どのを呼んで滅してしまうつもりであった」
「うむ。昨夜の話の通りじゃな」
「ところが野枝はおらなんだ」
「危険を察知して逃げたのか」
「そうではあるまいな。今から思えば、腹が異常にふくらんでじっとしていられなくなり、助けを求めてさまよい出たのであろう」
「鈴太の家にな」
「鈴太の家にじゃ。そして鈴太の目の前で、あの異形は最後の成長を始めた」
「おぬしはすぐに野枝を追いかけたのかの?」
「野枝が鈴太の家に行ったとは思わなんだ。そのため近所を探して、時間を取ってしもうた」
「ふむふむ」
「もしやと思い鈴太の家に向かった。家に近づいたところで、鈴太の声が聞こえた。口でしゃべる声ではない。心でしゃべる声じゃ。心でしゃべる声なのに、練達の行者のようにはっきりした声じゃった」
「ああ、それは佐々の家のぶらり火のときもそうだったのじゃ。言うておらんかったのか」
「聞いておらんな」
「それはすまんことをした」
「鈴太は異形に言い聞かせておった」
「ほう。何をじゃ」
「お前は野枝に祈られて生まれてくるのだ。野枝はどんな苦労をしてもお前を幸せにすると願をかけた。だからお前のお母さんは野枝だ。お前は野枝を幸せにするために生まれてこい。そう言い聞かせておった」
「異形にそんなことを言い聞かせたのか?」
「言い聞かせたのじゃ」
「聞きはすまい。聞いたとしても、異形は異形じゃ」
「あの声を聞かせてやりたいのう。わらわは身がしびれた」
「ほう?」
「鈴太の声はじんじんと全身に響き、こちらを埋め尽くすのじゃ。わらわは声の海の深みでおぼれるかと思うた」
「なんとのう」
「一方、異形は成長しきっており、まさに闇の世界から妖気の塊が飛び出そうとしておった」
「なに?」
「それが出てきたら滅するつもりで、わらわは爪を振り上げた」
「そ、それで、どうなった」
「まさに妖気が異形の身に落ちる瞬間、異形が鈴太に質問をした」
「質問じゃと」
「はっきりとした意味はわからなんだが、お母さんを幸せにするのか、自分はいい子に生まれればいいのか、というようなことを訊いたと思う」
「異形が?」
「異形がそう尋ねたのじゃ。鈴太は、そうだ、と確信を持って答えておった」
「異形がそんなことを訊くわけがないし、答えを聞いたとして、どうなるというのじゃ」
「その瞬間、ついに妖気は異形のなかに入り、この世に生まれ落ちた」
「正体を現したか!」
「生まれたものは、けがれなき赤子であった」
「……は?」
「美しい赤子であった」
「そんなばかな」
「妖気のかけらもない、生気にみちた、ういういしい清浄な赤子であった」
「信じられん」
「みよ。法師どのもそう言うであろう」
「信じられるわけがない」
「それでもこれは、事実なのだ」
「…………」
「…………」
「のう、天狐よ」
「何かのう、法師どの」
「あやかしを滅することはできる。それだけの力があればの」
「うむ」
「特別な加護があれば、浄化することもできる」
「もちろんじゃ」
「じゃが、あやかしそのものである異形を、そのまま人間の赤子に作りかえることなど、誰にもできん」
「法師どの」
「何じゃ?」
「あれは、ただのあやかしだったのじゃろうか」
「ふむ?」
「ただの異形であったのか」
「異形以外の何物でもあるまい」
「野枝が〈子無き地蔵〉に祈願を込め、あれが生じた。われらは、石像の妖気が乗り移ったのだと考えた。法師どのも、そう考えた」
「それ以外、どう考えられよう」
「確かに妖気は野枝の腹に宿った。しかし、あの腫れ物のもとになったのは、野枝の体の一部、野枝の魂の一部ではないのか」
「む。そういえば、そうにちがいない」
「野枝の体の一部と野枝の魂の一部に、妖気が入り込んで、あの腫れ物となった」
「なるほど」
「野枝の体の一部と野枝の魂の一部なら、正常な清い赤子のもとになったとしても、不思議ではないのじゃ。ただし、生じた時点では異形の雛でしかなかったがの」
「むむ、むむ」
「異形の雛は成長し、そこに妖気の本体が入り込こもうとした。妖気という力を得て、異形は異形として誕生しようとした」
「むうう。それで?」
「しかし鈴太の言葉の力で、妖気という陰の力は、生命という陽の力に転じ、野枝の体と魂の一部は、赤ん坊としてこの世に落ちたのじゃ」
「……よくわからん。しかし、そんなこともあるかもしれん、という気はしてきた」
「驚くべきは、鈴太の言葉の圧倒的な感化の力じゃ。なにしろ異形に、自分は人間の赤ん坊だと納得させたのじゃからのう」
「むちゃくちゃな話じゃのう」
「何度も何度も確かめたが、赤ん坊は確かに赤ん坊なのじゃ。そこに疑いの余地はない。法師どのもみにゆくがよい」
「行くとも。行かいでか」
「わらわにも、何がどうなったか、本当のところはわからん。だが、得られた結果は最上じゃ」
「最上じゃなあ。石像の妖気が完全にはらわれたのならなあ」
「しかも野枝は念願の赤子を得た」
「ばっはっはっは。まさに、まさに」
「殿村を呼んだ。手続きをしてもらうためにの」
「男親のない子など、世のなかにいくらでもおる。とはいえ、野枝はこれから重荷を背負うのう」
「背負いがいのある荷物よ」
「天狐」
「なにかの?」
「おぬしも赤子が欲しいか」
「……そうよなあ。自分の子を持ってみたいと思ったことはない、と言えば嘘になる」
「そうか」
「じゃが、法師どのも知るように、何十人という〈はふり〉の者の赤子を、母代わりとして育ててきた。子育ての味は、充分に味おうてきた」
「今、思いついたのじゃが」
「うむ。何かな」
「もしや野枝は異形に操られたのではないかな」
「異形に?」
「異形に操られて、鈴太のもとに行ったのではないかな」
「鈴太のもとに? なにゆえ」
「〈はふり〉の者を害するため」
「……………………」
「考えられぬか」
「もし、そうだとしたら、この里の秘密を知り、それを妨げようとしている者がある、ということになる」
「そうじゃのう」
「その話はこの前もした。今になって、われらの役目を邪魔する者が現れるなど、あり得ることであろうか」
「それはそうじゃ。しかし、ここ百数十年は、これといったあやかしは出なかったのに、鈴太が来てからは、短い期間に三度も出た。しかもそのうち二度は、人間に取り憑いて生じたあやかしじゃ。これも今までにはなかったことじゃ」
「それはそうじゃな」
「いずれにしても、いよいよ心を引きしめねばならぬ」
「まさにそうじゃ」
「鈴太には話したのかの?」
「いや。折をみて話す」
「そうか」
「そうじゃ」
「第4話 こなきじじい」完/次回「第5話 ひでり神」