中編2
8
別人かと思った。
野枝さんのことだ。
昨日、あんなに痛がっていたから、当分はこっちに来ないだろうと思ってた。
そしたら、朝は来なかった。
だから昼も来ないと思ってたんだ。
だけど、来た。
〈子無き地蔵〉を拝みにじゃなく、うちの店に来た。
「何か栄養のあるもの、ちょうでえ」
「ええっと。ここは、乾物屋ですよ?」
「乾物で何か栄養のあるものを」
謎の会話である。
ぼくが黙り込んでしまうと、野枝さんは、勝手に店のなかをみてまわり、一つの缶を手に取った。
「これにするけん」
粉ミルクだった。
「ええっと。これを、どなたが飲むんでしょう?」
「おらの赤ちゃんに決まっとるじゃろ」
そういいながら、おなかをさすった。
たらこのようなものは、服の上からではみあたらない。
ただ、その気になってみると、へその上あたりが、ほんの少しぷっくりしているかもしれない。
「あの……赤ちゃんは、まだ生まれてないんですよね?」
「みたらわかるじゃろ。まだじゃ」
野枝さんは、そう言いながら、右手でいとおしそうにおなかをさすった。
その表情は、とても女らしくて、ちょっと奇麗だなと思ってしまった。
「なのに、粉ミルク、飲むんですか?」
「おなかのなかで飲むじゃろ?」
いや、そんな当然みたいな顔で訊かないでください。
ぼくの常識としては、赤ちゃんが粉ミルクを飲むのは、生まれてからあとだ。
じゃあ、赤ちゃんが生まれる前に粉ミルクを飲んじゃいけないんだろうか。
赤ちゃんにいいぐらいのものなんだから、毒じゃないよね。べつにお母さんが飲んでもいいよね?
考えるのがめんどくさくなったので、素直に粉ミルクを売った。
というか、うちは商売でやってるんだから、商品を売ってくれと言われて売らない選択肢はない。
「向こうから来てくれたのは好都合じゃったな」
「あ、天子さん。何が好都合だって?」
「独り言じゃ。気にするでない……しかし」
「しかし?」
「鈴太。おぬし、野枝の体から邪悪なものは感じなんだか?」
「邪悪って。すごい表現だね。うーん。今日はべつに感じなかったかな」
「今日は?」
「あ、ごめん。深い意味はないんだ」
結局、野枝さんは、〈子無き地蔵〉を磨くどころか、拝みもせずに前を素通りして帰っていった。もう眼中にない感じだ。
ぼくは、〈子無き地蔵〉がちょっと気の毒になった。それで、ぼくが〈子無き地蔵〉の顔を拝んでやろうと思って近寄った。
〈子無き地蔵〉の顔は、相変わらず情けない笑顔だった。だけど……
(あれ?)
(何かが変わった?)
(何が変わったんだろう)
べつに造形が変わったわけではない。だけど確かに何かが変わった。
(あっ)
(まがまがしさがなくなったんだ)
(これじゃ、普通の石像だ)
(って、何を考えてんだ、ぼくは)
(普通の石像でいいんだよ)
「どうしたんなら。女房もおらんのに、〈子無き地蔵〉に願掛けしちょるんか」
「うわっ」
いきなり耳元で話しかけられてびっくりした。
そこにいたのは腰のまがった老婦人、秀さんだった。
「あ、秀さん。今、この石像のこと、何て呼びました?」
「こりゃあ、おめえ。〈子無き地蔵〉さんじゃろうが」
ショックだ。
〈子無き地蔵〉と聞こえる。
しかもさっきの、女房もおらんのに、という言葉からすると、やっぱりこれは〈こなきじじい〉じゃなく、〈子無き地蔵〉だったんだ。
「おい、大師堂」
「あ、はい」
「弓彦が亡うなったあと、鶴枝は再婚したんか?」
「え? いえ。父さんと母さんは、一緒に亡くなりましたけど」
「そげんこたあなかろう。二人がおめえを連れて村を出てから二年じゃったか三年じゃったかしてから、鶴枝が、おめえを連れて里帰りしとったじゃろう。もともと鶴枝は、この村が嫌えじゃった。その鶴枝が弓彦に連れられてじゃのうて、おめえだけを連れてこの村へ来たんじゃけんなあ。弓彦が死んだからじゃと、わしは思うとったけど」
「いえ。父さんと母さんが死んだのは、四年ほど前ですよ。一緒に車に乗ってて亡くなったんです」
「ありゃあ、そうじゃったんか。おかしいのう」
今の会話に、聞き逃せない情報があった。
母さんが、この村が嫌いだったという情報だ。
そういえば、そもそも父さんと母さんは、どうしてこの村を出たんだろう。
父さんはおじいちゃんの一人っ子だったみたいだ。家を継ぐ立場だったんだろう。それなのに出て行ってしまった。そして、どういうわけか、実家と没交渉だった。何があったんだろう。
(秀さんに訊くわけにもいかないか)
(今度配達に行ったとき、持言和尚さんに訊いてみよう)
9
「はっはっはっ。そりゃあ、ちがう」
「ちがうんですか?」
「おお。ちがう。鶴枝は、幣蔵と折り合いが悪かったわけでもないし、誰かにいじめられたということもない。そうじゃなくて、体質が合わんかったんじゃ」
「体質?」
「この里には、独特の〈気〉があってのう。合う人には心地よいんじゃが、合わん人には徹底的に合わん。鶴枝さんは敏感なたちで、どうしてもこの土地が合わんかったんじゃ」
「そんなことがあるんですか」
「あるんじゃ。むしろ二年も、よく辛抱した。お前もよく知っとるように、性格がいいし気遣いもできる人じゃった。何をしても手際よくしたしのう。出ていくときは、みんなに惜しまれとったよ」
「そうだったんですか」
「幣蔵さん以外に家族はなかったから、嫁いびりもなかった。他人の家の嫁をいじめて喜ぶような者もおらんかったしのう」
「まさか、おじいちゃんと父さんが仲悪かった、なんてことはないですよね?」
「仲は良かった。弓彦は、鶴枝に付き添って村を出たんじゃ。幣蔵はそれでええと思うておった」
「どういうことです?」
「羽振家は、この村で一番古い家じゃ。ほんとに長いこと、この村を守ってきた。じゃがもうその役目は終わりになるから、自分のあとの代の者は、外で自由に生きればいい。そう幣蔵は考えとったんじゃ」
「役目って、何です?」
「それは。ふむ。近々話すことになるじゃろう。とにかく幣蔵は、あと二、三年は生きられると思っちょった。そうすればすべてが終わると思っちょったんじゃ」
このとき、ぼくは、おじいちゃんと父さんがけんかしたわけじゃないと聞いて、心からほっとしてた。そのことは、ずっと心にかかってたからだ。
そして、父さんと母さんが、ふるさとを追われたわけじゃなく、惜しまれて出て行ったということも、すごくぼくを安心させた。
だからこのとき、ぼくは、秀さんがくれた本当に大切な情報を、和尚さんに伝えなかった。父さんと母さんが、ぼくを連れてこの村を離れたあと、母さんとぼくだけが、この里に来たことがあるという情報を。
というより、この情報がどんなに大きな意味を持つのか、この時点では全然気づいてなかったんだ。
10
「あ。髪、切ったんですね」
「そうなんじゃ」
「すごく似合ってますよ」
「そ、そうかのう」
「白いブラウスとカーディガンも素敵ですね」
「あ、暑うなってきたけんな」
三日間続けて、昼前に野枝さんがやって来た。
少し話をしていくけど、べつに何も買っていかない。つまり、買い物に来てるわけじゃない。
かといって、前のように〈子無き地蔵〉を拝んでというか、磨いているわけでもない。
じゃあ何をしてるのかというと、たぶんぼくと話をするためだけに、ここに来てるんだと思う。
前に野枝さんが言ってた。さんをつけて呼んでくれるのはぼくだけだって。野枝さんの心は、みかけよりずっと繊細で、心ない言葉や冷たい目線に敏感なんじゃないだろうか。
そうでなくても、今の野枝さんは、彼女の脳内設定によれば、〈行きずりの男の人のこどもを身ごもってしまったふしだらな女〉なのだから、人から好奇のまなざしを向けられる。だから人には会いたくない。でも、おなかにこどもがいる喜びを、誰かと分かち合いたい。
そんな野枝さんが、少しは優しい言葉をかけてもらえる相手として認定したのが、ぼくだったんだろう。
季節は、少しずつ夏の気配を感じさせている。薄着になったから、野枝さんのおなかに、小さなふくらみがあることが、すごくリアルにわかってしまう。
それは断じて赤ちゃんがいるようなふくらみじゃない。
何かの虫に刺された痕が腫れ上がっている、といわれたほうがうなずけるふくらみだ。
ぷっくり、という形容がぴったりだ。たらこを貼り付けたみたいだという天子さんの言葉は、うまいこと表現したもんだと思う。
店先で、ぼくが野枝さんと話すのを、天子さんは座敷のほうからじっとみていた。視線は野枝さんのおなかに向けられてたんじゃないだろうか。ふと振り向いたとき、無表情な顔で野枝さんを凝視する天子さんをみかけたときには、ぎょっとした。
そこには普段ぼくに向けてくれる優しげなまなざしはなかった。
冷たく凍るような、恐ろしい目つきだった。
もしかして、嫉妬?
ぼくが、ほかの女の人と親しげに話すのが気に入らないのかな。
そうならうれしいな、とこのときは思っていた脳天気なぼくだった。
11
「よう来た天狐。それで、どうかのう、その後」
「まだわからぬ」
「そうか」
「野枝の腹のふくらみは、この数日で、わずかに大きくなったようには思う」
「ふくらみのなかには、何が入っておるんじゃろうか」
「わからん」
「わしも一度みてみたいのう」
「出歩けるほど体調はよくなったのかえ」
「歩けんことはない。昨日も檀家の法事に行った」
「なんじゃ、そうか」
「いざとなれば多少の無理は利く。なんといっても、あやかしと戦えんようでは、お役目は果たせんからのう」
「それはそうじゃ」
「それにしても、まだ石の数はそろわんのじゃろうか」
「わからん。もうすぐじゃとは思う」
「そりゃ、そうじゃ。わしが数えた数も、天狐が数えた数も、もう満願に達しちょる。それを言うなら、幣蔵も、去年の暮れに満願じゃと言うておった」
「どうしてこんなに日にちがずれるのじゃろうか」
「それじゃがなあ。あのかたが、体調が悪かったり、何かの事情で石が積めなんだ日があろうが」
「それは知っておる」
「そのほかにも、もしかしたら積めなんだ日があるのかもしれん」
「あのかたが、石を積むのを休むとも思えん」
「そうではない。石は夜が明けると同時に現れる」
「そうらしいのう。みたことはないが」
「じゃが、雨の日などは、いつ夜が明けたか、はっきりせん」
「それはそうじゃ」
「石はいつまであるのじゃろうか」
「なに?」
「石はいつまで、あの石の八足の上にあるのじゃろうか」
「取るまでずっとあるのではないか? そして、石を取ったら、翌日の朝、また別の石が現れるのであろう」
「わしもずっとそう思っておった。じゃが、そうでないかもしれん」
「というと?」
「消えてしまうのではないかな」
「消える?」
「ある時刻までに取らないと、石は消えてしまうのではないか、と思いついたのじゃ」
「……なるほど」
「そういう日が、これまでの長い長い年月のあいだに、ごくたまにあったとすれば、五十日や百日のずれができてもおかしくない」
「そんなこと、考えもせなんだ」
「あのかたに訊けば、すぐ教えてもらえることなのじゃが」
「あのかたには、話しかけにくい」
「お前はもともとあのかたの眷属の末裔じゃろうに」
「眷属というより戦友かのう。しかし格がちがう」
「わしなぞ、かのおかたに呼び出されて引き合わされるまで、御名も存じ上げなかったわ」
「日の本の国では聞くことのない名じゃからな」
「そのときごあいさつして以来、一度も言葉をかわしておらん」
「なんじゃと。この長い年月、ひと言もかわしておらんというのか」
「そうじゃ。この前、幣蔵の葬儀のときも、顔を合わせて会釈はし合うたが、それだけじゃ」
「なんとのう。考えてみれば、妙なことじゃ」
「妙なといえば、このことの全体が妙じゃ」
「それもそうじゃ」
「そして、わしら二人が一番妙じゃ」
「確かにそうじゃな」
「はっはっはっはっはっ」
「ほほほほほ」