中編1
5
「いたっ!!」
〈子無き地蔵〉を磨いていた野枝さんが、大声をあげた。
ぼくは店のなかで商品にはたきをかけてたんだけど、はたきを放り出して、すぐに表にかけだした。
野枝さんが、石像の前に倒れて、体をくの字に折り曲げ、腹を押さえてのたうっている。こんなことを言っちゃいけないんだけど、その姿は、人間のようにみえなかった。地面にたたき付けられた牛蛙がのたうっているみたいだった。
「痛い、痛い、痛いっ」
あわてて近寄ってひざまずいたが、何をしていいかわからない。
「だ、だいじょうぶですかっ」
「痛い、痛い、痛い、痛いっ」
顔を左右に激しく振りながら、痛みを訴える。
長い髪がばさばさになって顔を隠している。その乱れた髪になかば隠れながら、口を大きく開いて、痛い、痛いと叫び続ける。その口のまわりのしわが恐ろしい感じがした。
「どうした、野枝?」
ぼくの後ろから天子さんがやって来た。
「ここか? ここが痛いのか?」
座り込んで、野枝さんが腹を両手で押さえている、その上に右手を当てて、天子さんが訊いた。
「痛い、痛い、痛いっ」
相変わらず野枝さんは、痛いとしか言わないけど、ずっと横に振ってた首を、今度は縦に振った。
「そうか」
右手を野江さんの腹に当てたまま、天子さんは目を閉じた。
そのうち、痛がって暴れていた野枝さんの動きが、だんだん静かになっていき、やがて悲鳴も止まった。
「鈴太。正露丸とコップに水をくんで持って来るのじゃ!」
言われた通りにした。
正露丸とコップを小さな丸盆に載せて持って来たんだけど、それを地面においていいか判断できなくてまごまごしていた。
「その盆を下に置いて、野枝を抱き起こせ」
「え?」
「正露丸を飲ませねばならん。上半身を起こすのじゃ」
「う、うん」
女の人にさわるのって、勇気がいる。肩に手がふれたときは、ちょっとどきっとした。でも、そんなこと言ってる場合じゃない。両肩を持って、野枝さんの上半身を起こした。意外に軽かった。
天子さんは野枝さんに正露丸を飲ませ、水の入ったコップを口に当てた。
「飲め」
野枝さんは、ごくり、ごくり、と水を飲んだ。
「落ち着いたか?」
ぶっきらぼうな言い方だけど、天子さんの言葉は優しい。
野枝さんは、うん、うんと、声を出さずに二度うなずいた。
「よしよし。玉置先生のところに行こうな」
玉置先生という人は、六十代ぐらいの鍼灸師さんだ。この村には病院がない。ちょっとした病気は自分で薬を飲んで治すし、治らなければ玉置先生に診てもらうんだ。
そう言われた野枝さんは、首を二度横に振った。
「いやなのか?」
天子さんが訊くと、今度は縦に首を振った。
「なぜ、いやなのじゃ?」
野枝さんは、しわがれた小声で返事した。
「赤ちゃん、とられる」
その返事を聞いたぼくは、背中に冷水を流し込まれたような気分になった。
「そうか。それなら家に帰ろうか」
首を縦に振った。
「鈴太。手を貸せ。野枝を立たせる」
そして野枝さんを立たせると、天子さんは野枝さんに寄り添いながら、北西の方角に歩いていった。
そのようすをみていて、今日はもう帰ってこないだろうなと思った。その通りだった。
6
翌朝、何事もなかったかのように、天子さんはやって来た。天子さんが食事当番の日だったので、台所のことはお任せして、神社の掃除に出かけた。
帰ってくると、朝食の用意はできていた。
野枝さんのことは、すごく気になってたけど、食事中は訊かなかった。食事が終わってお茶を飲んでいるとき、天子さんのほうから話してくれた。
「野枝は、帰ると落ち着いた。もう痛みもないようであった」
「そうなんだ。よかったね」
「腫れ物ができておった」
「腫れ物?」
「へそのすぐ上に、ぷくり、とな」
「ぷくりと?」
「例えていえば、大柄の男の手の親指を切り取って、貼り付けたような腫れ物じゃな」
「親指って」
「針でつつけばはじけそうなほど、ぷっくりふくらんで、しかも真っ赤に色づいておった」
「真っ赤な親指……」
「いや、親指というより、あれじゃな。たらこじゃ」
「たらこ……」
「たらこをへその上に貼り付けたような腫れ物じゃ」
「何かに刺されたのかな。蜂とか」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん」
「ムカデとか」
「そういうこともあるかもしれん」
「そんなに腫れちゃったんなら、さぞ痛いだろうね」
「それがの。家に連れて帰ったころには、けろっとしておっての。そのまま一応寝かせたのじゃが、そのうち起き出してきて、〈花むしろ〉を織っておった」
「大丈夫なのかなあ?」
「痛みはないと言うておった」
「蜂とかムカデとか、毒のあるものに刺されたんだったら、そうはいかないよね」
「わからん。人間の体というものは、わからんものじゃ」
「たいしたことなければいいけどね」
「昼はようすをみに行く。そのままこちらには帰らん。昼ご飯のおかずは冷蔵庫に入れてあるからの」
「ありがとう」
昼ご飯のおかずは、たらこだった。
7
「法師どの。奇妙なことになった」
「例の石の件じゃな」
「そうじゃ。秀が〈子無き地蔵〉と名づけした石じゃ」
「秀が名づけをしたのかどうか、わからん。ほかの者のしわざかもしれん」
「そうよなあ。しかし、鈴太がうまく聞きまちがえて、〈こなきじじい〉と名づけ直した」
「あれの言葉には力があるからのう。呪を掛け直したようなものじゃな」
「ところが、それを野枝が〈子無き地蔵〉と聞きまちがえ、呪をまた掛け直した」
「ああいう一念の者の思いは強いからのう。強力な呪が掛かったじゃろうなあ」
「その〈子無き地蔵〉の石像を、野枝は、毎日毎日磨きながら念を込めた」
「成就するはずのない願いじゃがな」
「法師どの。あの石は、〈溜石〉でまちがいないのだな?」
「ほかに、あのように妖気をためる石があろうはずもない」
「自然にできた溜石とは考えられぬのだな?」
「溜石が自然にできることはあるかもしれん。じゃが、あれはちがう。あれは作られたものじゃ」
「溜石を作れるあやかしか」
「あやかしにしか作れん。かなり強力なあやかしじゃなあ」
「ただし石を結界のなかに持ち込んだのは、そのあやかしではないと」
「そんな強力なあやかしが結界のなかに入れるわけがない」
「ということは、あやかしではない誰かが運んだということになる」
「そういうことじゃ。そこまでは、もう何度も話し合うたではないか」
「鈴太のそばに石が置かれていたことが気になるのじゃ」
「ならば石を結界の外に捨てるか?」
「それはもう遅い」
「なに?」
「そのことはあとで話す。それより、あの石は意図して運び込まれたものであろうか」
「む。溜石がどこかにあって、誰かが知らず知らずに結界のうちに運び込んだということかの?」
「そうじゃ」
「ううむ。ない、とはいえぬが……」
「わらわがあれに気づいたときは、すでに危険なほど妖気がたまっておった」
「わしもみて驚いた」
「石のなかにある妖気には手が出せぬので、あやかしが生まれるのを待って倒せばよい、と法師どのは言うた」
「おぬしも賛成したではないか」
「あれを運び込ませた者の意図も探りたい、とも法師どのは言うた」
「言うた。じゃが、今にして思えば、考えすぎじゃったかもしれん」
「ほう?」
「あの石を運び込ませた者がいるとしたら、その者は、この里のことを知り、この里の役目を妨げようとしている、ということになる」
「そうであろうな」
「じゃが、今まで長いあいだ、そんなことが起きたことはない。本来ならすでに満願を迎えておってもよいこの時期に、今さらそんなことが起きるとは考えにくい。そうじゃろう?」
「それはそうじゃな」
「あの石は、草むらのなかにあったのを野枝がみつけたのじゃったな」
「そうじゃ」
「何年、あるいは何十年かけたら、あれだけの妖気がたまるかのう」
「……ふむ」
「そう考えると、仕掛けた者がかりにおったとしても、それは何十年も前のことになる」
「……そうよなあ。思い過ごしか」
「思い過ごしでないとしたら、どういう思惑なのか、それがわからん」
「溜石の妖気が消えた」
「何じゃと!」
「順を追って話す。わらわは、あれが溜石ではないかと気づき、法師どのにみてもろうたうえで、結界の外に捨てようと言うた」
「言うた、言うた」
「じゃが法師どのは、結界の内においてようすをみるべきじゃと言うた」
「言うた、言うた」
「あの石には、最初、〈子無き地蔵〉という呪が掛けられ、〈こなきじじい〉に掛け直され、また〈子無き地蔵〉に戻された」
「そこまでは聞いちょる」
「野枝は〈子無き地蔵〉に強い祈りを込め続けた。つまり呪をずんずん強めていった」
「それも聞いた」
「すると石が妖気を吸う勢いが強くなった」
「なに!」
「もうこれはいかんと思い、石像を捨てようと決めた矢先、野枝が石像の前で倒れた」
「それで、どうなった」
「野枝は、腹が痛い痛いと言ってのたうち回った」
「それで、どうした」
「〈手当〉をすると、落ち着いた」
「ふむ、ふむ」
「気がついてみれば、石像から妖気が抜けておった」
「そんなばかなことがあるか。抜けたとしたら、どこに行った」
「野枝の腹に」
「……なんじゃと」
「野枝の腹に、腫れ物ができた。その腫れ物からは、すさまじい妖気が立ちのぼっておったのじゃ」
「哀れな」
「妖気に取りつかれた人間は、もはや妖怪じゃ」
「しかり、しかり」
「しかもあれほどの妖気を取り込んだら、人間らしい心など吹き飛んでしまう」
「そうじゃろうなあ」
「わらわは野枝を殺すために、家に送って行った」
「殺したか?」
「布団に寝かせて妖気のぐあいを調べたところ、妖気が消えておった」
「それはどういうことじゃな」
「わからん。一瞬たりとも目は離しておらんのじゃ。じゃから、妖気は今も野枝のなかにあるはず。しかし、みえぬ」
「それが本当なら、この世ならざるところに隠れておるのじゃろう」
「わらわも、そう考えた。その状態の野枝を殺しても意味がない」
「意味がないどころか、行き場のない妖気の塊が野放しになる。危険この上ない」
「じゃから、これから毎日、野枝のようすをみる。今度妖気が顕れたら、野枝を殺す」
「殺すしかないか」
「殺すしかなかろう」
「天狐よ」
「何かな、法師どの」
「おぬし、人間を殺したことがあったかのう」
「……ない」
「では、わしがやろう」
「これは、鈴太を守るためにすることじゃ。〈はふり〉の者を守護するは、わらわがかのおかたから命じられた役目ぞ」
「溜石のことは、わしが言い出したことじゃ。それに、結界のなかのあやかしを討つは、わしがかのおかたから命じられたこと。人には譲れん」
「……ならば法師どのに頼もう」
「そうしてくれ。そのときが来たら、知らせを頼むのう」
「心得た。かたじけない、法師どの」




