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空に、君の名を呼べば。  作者: 佐藤和輔
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朝陽にとけて

 福引きで特賞でも出たのだろうか、携帯電話店の中からでも、鐘の音が聴こえてくる。

 機種変更の諸手続きを終えて、待ち時間のあいまに、店内に設置されているテレビの前に座ると、新年チャリティーライブという名目で、数々のアーティストのパフォーマンスが放送されているところだった。

 

 ~愛はきっと奪うでも 与えるでもなくて 気がつけばそこにあるもの~


 ミスターチルドレンの【名もなき詩】が流れている。画面の中の四人組に思わずタワリシチを重ねてしまいそうだった。

「喜多山さん」

 和弥の名が呼ばれる。

 窓口に行き、新しい機種が手渡される。ポイントを使ったので、実質的な負担は無かった。会社のロゴが入ったオレンジ色の袋には、箱や、取扱説明書の他にも、ボールペン、携帯電話クリーナー、マウスパッド、タオルやキャラクターのぬいぐるみ、2ギガバイトのUSBフラッシュメモリー――メーカーのロゴ入り――などが詰め込まれていた。そして、帰りしな、入り口にいた振袖の店員が商店街の福引券を三枚くれた。福引はどうやら、ここから二十メートルほど先のデパートでできるらしかった。

 和弥は、それも悪くないな。そう思いながらデパートへと向かった。


 結局、福引きで手にしたのは、カップ麺一つと、ティッシュが二つだった。それでも、どことなく心が踊った。おそらく、新年という独特の雰囲気のせいだろう。

 四日からは、仕事が始まる。新しい携帯電話機の使い方を覚える頃には休みも終わるだろう。

 和弥はそうやって、街に溢れる人たちよりも少しだけ早く、日常へと戻っていった。


 社長の話しぶりや、和弥の予想からして、正社員になれるのは、四月からだと思っていたが、それは、思いのほか早く訪れた。

 内示を受けたのは、二月十九日のことだった。

「和弥君なぁ。ほんとは四月から正社員になってもらおうと考えてたんだけど、いつも頑張ってもらっているから、三月から正社員になってもらおうと思うんだけど……、いいかな」

 最初、驚きを隠せなかった和弥だったが、次第にそれは自分が認められたことへの喜びへと変わった。

「はい。ありがとうございます」

 温厚な笑みで和弥の返事を受け止めた社長は、

「ところで、今日は何の日か知ってるか?」

 社長は意味ありげに外を見ている。朝から降っていた雪は、雨に変わっていた。

「いえ。なんの日ですか」

「今日は、暦の上では雨水といってな、降り積もった雪が融けて水となって流れていき、草木の芽が出始める時期とされているんだよ。――和弥君という新しい芽が力強く育っていってくれれば、と思ってこの日を選んで君に伝えたんだよ」

 素直に嬉しかった。しかし、

「今日は早く切り上げてみんなで飯でも食いにいこう。和弥君の昇格祝いだ」

 そう言った社長の好意が少し面倒だと感じてしまうほどに和弥の心は冷め始めていた。

 残酷なまでにゆっくりと心は固まり、そして凍てついていった。時間もまた、残酷なまでにその速度を速めようとも、緩めようともせず、ただ、淡々と過ぎ去っていった。


* * *


 まさ美が静かに話し始めた。

「あの時のこと、話してもいい?」

 和弥は無言で頷いた。

「あの、悠平との喧嘩のとき、和弥、泣いてたでしょ。私ね、その涙の意味、すぐにわかった。――あぁ、この人はきっと悔しいんだって。ひどく、悲しいんだって……。言い訳しなかったのは琴乃ちゃんを守ってのことだというのも察しがついたし、あのとき、へたなこと言ったら悠平は私にまで侮蔑の念を抱くだろうって、和弥は思ったんだよね」

 その通りだった。でも、そのせいで……。

 まさ美はゆっくりと首を振った。

「私ね、そのとき、もう一つ気付いたことがあったの。それはね、悠平のこと。あのときはあんなに好きだったのに、あの、乱れた悠平を見ていたら急に気持ちが冷めちゃったの。悪い人ではないんだけどね。あのとき、私は、二人の心の芯の部分が見えたっていうか、人間性を見たっていうか……。言葉にするのは難しいけど、そこに感じるものがあったのは確かなの。そして、友の為にあれだけ涙を流せる和弥が眩しかった。琴乃ちゃんが羨ましかった」

 琴乃の名前が出てきたことで、ほんの僅かに和弥の視野が狭窄した。

「私、あのあとずっと琴乃ちゃんと一緒でね、和弥と別れるって話し聞いたとき、本当に残念だった。でもそれはあくまでも表面上の話であって、心の奥では、何か、ずる賢い考えがあったの」

 和弥はまさ美の、これから語ろうとする言葉と気持ちを推し量るように意識を集中させた。また、まさ美も和弥の、そんな心を推し量っているようだった。

「琴乃ちゃん、結婚したんだよ」

 まさ美の目は、和弥を見つめたままだ。和弥は表情を変えなかった。それどころか、そうやって幸せになってもらうことこそが和弥の本心だったはずだ。

「そうか」

「子供もね、もう、三歳になるんだよ」

「ずっと連絡、取り合っていたのか」

「そうだよ。ずっと……。たとえどんなことがあったとしても私たち、親友だもん」

 とくんっ、と心臓が大きく跳ねた。

「和弥にメールで琴乃ちゃんのこと頼むって言われたから。気づいたときには私、和弥のことが好きになってた。だから、和弥との約束、ずっと守ってた」

 まさ美は、乱れる呼吸を必死で抑えようとしている。すぐに感情を涙へと還元してしまった自分と比べて、女は強いな、と思った。

「琴乃ちゃん、ずっと言ってた。もう、彼氏としては愛せなくなっちゃったけど、和弥のことはいつまでも大好きだって。それに、悠平だって。悠平だってずっと後悔してた。ちゃんと話聞いていればって。もっと親友を信じていればって。あのとき、あんなことになってしまったけど、それでも悠平は、自分に頑張れって言ってくれた和弥を尊敬してる、って。――悠平とは連絡、あまりしてないけど、彼も、彼なりに苦しんだんだよ。そして、今は、なんとか頑張ってるみたい。悠平は和弥のような尊敬できる人間に自分もなれたなら、そのときは和弥と笑って話ができるはずだって。そう、信じてた」

 カーテンの隙間から、外が青白んでいるのが見えた。


――随分と、時間がかかってしまったんだな……。


「みんなね、和弥が最後にくれたあのメールで自分の生き方をしっかりと見つめることができたんだよ……。それなのに」

 まさ美の声が、震えていた。

 歯噛みの音に感作して、和弥の心がぎりぎりと締め上げられていた。

「それなのに、どうして和弥だけがこんな……、こんな辛い思いしなきゃいけないの?」

 こらえきれなくなったまさ美の涙が床に落ちた。

 和弥と向かい合っていたまさ美は、両手で和弥の胸を握って項垂れている。和弥のTシャツの首周りがだらしなく、伸びている。


――きっと、一ノ瀬の両手にかかるこの重さは、計り知れない感情の、ほんの欠片でしかないのだろう。


「和弥とのメールだって次第に音信不通になってさ……。私、すごい不安だった。私が普通に暮らしているこの瞬間に、和弥が苦しんでいたら、どうしようって……」

 

――俺が苦しむことで、まさ美もこんなに……。


「私、叔父さんの店に偶然和弥が入ってきたとき、最初、和弥だってわからなかった。感情もなくて、目は虚ろで、何よりも寂しげで……。和弥だって気づいたとき、もう、声をかけることすらできなくて、私、店の奥で泣いてたんだよ」

 知らなかった。

「それから勇気出して声かけて。私が和弥を助けてあげなきゃって、そう思ったの。その時の和弥を苛んでいるものが私にはわかってたから。和弥はそれを必死で隠そうとしてたみたいだけど」

 まさ美の表情が苦悶の色を浮かべていた。きっと、俺もこんな顔をしていたのだろう。そう思うと、やりきれない

思いでいっぱいだった。

「それが、余計に痛々しくって。見てるのが、本当に、ツラかった……」

 まさ美の言葉が切れた。下を向いたまま肩を震わせている。零れ落ちるまさ美の涙と、カーテンの隙間から射し込む微かな陽光が和弥の胸の内を照らし出した。


「相変わらず、世話好きだなぁ」


「えっ?」


 まさ美は和弥の顔を見上げた。


「昔と、ちっとも変わってないじゃん」


 そういった和弥の声色も昔と変わらない優しい音を奏でていた。


 和弥の瞳の中に、朝の輝きが遷移する。その、光を取り戻した瞳を見つめていたまさ美の顔が、柔らかく、弛緩した。

「でも――」和弥は言った。

「ん?」まさ美が首を傾げた。


「ありがとな、ノロちゃん」


 和弥は優しくまさ美を抱き寄せた。

 窓から入り込む輝きは、次第に強さを増していた。


* * *


 年月は否応なしに過ぎていった。

 世の中はめまぐるしいほどの変化を遂げ、内閣総理大臣が一年の内に三回も変わったかと思えば、宇宙で迷子になっていた人工衛星が奇跡の地球帰還を果たして日本中が湧き上がったり、テレビの電波が全てデジタル波に変わったかと思えば、それによって増えた電波帯を利用しての高速通信を可能にしたスマートフォンなるものが爆発的に普及した。一方で、大震災の発生により言葉にならない悲しみを世界が背負い、かと思えば、歴史的な経済回復に兆しが見え始めている。死亡者まで出した食中毒事件は、蓋を開けてみれば杜撰な管理が原因で、それによって生肉の一部の流通が完全に無くなった。

 その間に和弥に訪れた変化といえば、人間関係に嫌気をさして会社を辞め、携帯電話も止められ、インスタントフードが主食の生活保護で暮らす28才になったということくらいだ。

 そして、観客を巻き込んでのライブの熱気に感じた興奮は、一個一円のパチンコ玉の挙動に一喜一憂することへと変わった。

 贅沢といえば、少しでも勝った時に飲む酒と、焼き鳥数本。

 人間関係は面倒くさいが、大変な時は、一ノ瀬に甘んじていればいい。


「和弥君、あんまりウチのまさ美をいじめないでやってくれよ」

「はいはい。――おっちゃん、もう一杯ビールね」

「随分景気いいじゃない。勝ったの?」

「だから、一ノ瀬には関係ないだろって」

 店の中から聴こえてくる和弥の声は、いつもより、ほんの少しだけ弾んでいる。


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