エピローグ
エピローグ
その年の秋、和弥とまさ美は一緒に暮らし始めた。
まさ美は以前にも増して快活さに磨きがかかり、その無邪気な奔放さは、少しでも目を離すと何処かに行ってしまいそうな危うさも孕んでいた。しかし、それをまた、愛しく思えるだけの心を和弥は徐々に取り戻していた。
普段はあまり気にすることのなかった、アパートの前に並ぶプラタナスの街路樹も、黄色い葉をひらひらと地面に舞落としている。
遠い山々は、日毎鮮やかに色づき始め、そこに時の流れを鑑みる和弥の姿があった。
「随分と、時間がかかってしまったな」
和弥はひとり呟く。はっと気づいて照れたように、
「またひとり言、いってるな」
まさ美に向かって微笑んだ。
さらりとした秋風がカーテンを揺らす。
「ひとりじゃないでしょ」
まさ美が笑った。
それもそうだ。和弥の隣には、いつもまさ美がいるのだから、これからは、それはひとり言とはいえない。
そのかわり、最近は、笑うことが多くなってきたと、まさ美に言われる。
今まで、長いあいだ、笑いと縁のない生活をしてきたせいか、大声で笑ったときなどは、少し、顔が引き攣る。
色んな、固く、絡み合っていた何かが、するすると絹糸のようにほどけていく、あきらかな実感が和弥にはあった。
しかし、その反面和弥は、心の中に微かな靄がかかっているのにも気づいていた。
――いつまでも、こうしてはいられない。
まさ美は、時間をかけて焦らないで、と言ってくれるが、本来の自分を取り戻しつつある和弥の積極性は、いつまでもヒモのような生活をしている自分への嫌気を引き起こしていた。それは、不安にも似た感情だった。
おそらく、幸せというものは、こういった不安にも気づかせてくれる一面も担っているのだろう。そう思えば、尚更この幸せの尊さにも気づく。かけがえのないものに思えてくる。それを守らなければ、という責任も感じる。
「何、考えてるの?」
まさ美が心配そうな目で訊いてくる。
「いや……。焦ってるわけじゃないけどさ、なかなかうまく進まないなと思って」
「進まない?」
「うん。何か、物事がイメージ通りに進まないっていうかさ……。最近、空回りばっかしているような気がするんだ」
昨今の日本経済の低迷は、和弥の世代にも例外なく煽りを与え、連日のハローワーク通いも実を結ぶことは、なかなか叶わなかった。最近では【ハローワーク難民】たる言葉もあるくらいだ。
「それを焦ってるって言うんだよ。和弥、もう昔のように勢いが通用する歳でもないんだから、ゆっくりと進んで行こうよ」
一つ年下といえども、やはり女は強いな、と思う。
ふと、熱い想いだけで駆け抜けてきた過去のことを思い出す。
勢いは衰えたかもしれないけれど、あの熱さは忘れていない。はずだ。
「あぁっ、また考え込んでるっ」
まさ美がすねたような顔で覗き込んでくる。
「ごめんごめん」
笑顔でごまかす。
「最近、疲れてるんだよ、きっと。――そうだっ、今度の日曜日、久しぶりにご飯でも食べに行こうよ」
まさ美の屈託のない笑顔が心に痛かった。
「でも――」結局、まさ美の懐に頼るしかない。
「でも、何?それ以上は言わないの。和弥は嫌がるだろうからなかなか言えなかったけど、私は二人で外出したくてしょうがないんだからね」
彼女の笑顔には負ける。――和弥はふっ、と微笑んだ。
「ありがとな、まさ美」
そう言って手のひらをぽんっ、とまさ美の頭にのせた。
――いつも、この笑顔に助けられていたんだ……、俺たちは。
気づけば、いつもそこにはまさ美がいてくれた。ずっと前から――。
隣ですやすやと寝息を立てて、仔猫のように顔の前でふわりと手を握っているまさ美をみて、和弥は微笑んだ。
琴乃の親友として、いつもバンドを支えてくれた彼女。
悠平に想いを寄せ、自分の気持ちに懸命になっていた彼女。
和弥のメールに唯一返事をくれた彼女――結果、それが、今の和弥を救ってくれた。
そして、長い時間の末、泣きながら和弥に想いを告げた彼女。
まさ美のおかげで和弥は、今という時間を実感出来ているのだと思った。現実に繋ぎとめてくれたのはまさ美にほかならなかった。
楽しい夢でも見ているのだろうか、まさ美は口元を僅かに緩ませて天使のような微笑みを浮かべている。
抱きしめずにはいられなかった。和弥は、彼女を起こさないようにそっと、でも、しっかりとまさ美を抱きしめた。
微かな石鹸の香りが、まるで、彼女の優しさを物語っているようだった。
「うん?」
まさ美が瞼を開けた。窓から入り込む朝陽が眩しそうだった。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん――、どうしたの?」
「いや……」和弥は言葉に詰まった。
「和弥、あったかいね」
まさ美は、和弥の背中に両腕を回して、無邪気な子供の微笑みを浮かべる。
その仕草がたまらなく愛しかった。どうしようもないくらいに……。
「愛してる」
和弥の真剣な眼差しに、まさ美も真顔になる。
「どうしたの、急に」
まさ美は、眠たげな瞳のまま、首を傾げた。
「愛してるんだ」
和弥はそう言って強く、まさ美を引き寄せた。まさ美がくすぐったそうに笑う。そして、
「わたしも、だよ――」
言葉の途中で和弥はまさ美に、キスをした。
日曜日の朝日は、いつもより少しだけ柔らかく二人を照らしていた。
やがて日が昏れ、街を覆う茜色が、次第に紫色に染め上げられる時間になると、二人はアパートを出た。
まさ美に連れられてきた場所は、電車でふた駅、さらにそこから歩いて十分ほどの繁華街にある小洒落たバーだった。
とは言っても、それほど大きな街でもないので、日曜ということもあり開いている店舗は6割ほどだった。
「ここで、飯、食うのかよ」
和弥のイメージでは、酒と、ちょっとしたつまみしかないような、こぢんまりとしたバーにしか見えなかった。
「創作料理とかも出してくれるんだよ。せっかく予約までしたんだから。さっ、入ろっ」
ぐいっ、と腕を引かれる。
中に入ると、ベストをつけたアルバイトらしい女が、まさ美と一言、二言会話を交わすと、リザーブ席へと二人を案内した。
「本日は、ご予約有難うございました。もうすぐオーナーもみえると思いますので、ごゆっくりとお過ごしください。お飲み物はいかがなさいますか」
和弥は、まさ美を見た。なんとなく、この畏まった雰囲気が和弥の肌には馴染まなかった。
「じゃあ、とりあえずビール二つで」いいよね?とまさ美が和弥を見る。
和弥は頷いて煙草に火をつけた。
「かしこまりました」
女は軽く会釈をすると、カウンターへ戻り、すぐにビール二つと、チャームを持ってきてテーブルに置き、それからすぐに料理の準備だろうか、カウンターの中で作業をし始めた。
店内にひとしきり目をやると、所々に鮮やかなブルーのLED照明がしつらえており、清潔感が感じられた。流れるBGMは、有線だろうか、JーPOPをラグタイム調にアレンジしたピアノの演奏が聴こえてくる。まだ、出来てから五年ほどの店だというのは、テーブルに置かれたポップから知ることができた。店名は筆記体で書かれていて、和弥には読み取れなかった。
「まさ美、よく来るの?ここ」
なんとなく、焼き鳥屋での彼女のイメージが強かったので、いくら客として来ているとはいえ、まさ美がここに来ている姿が想像しにくかった。
「よく、ではないけどね。オーナーが知り合いだから」
「そうなんだ。そういえばオーナー、もうすぐ来るって言ってたもんな」
和弥がそう言うと、まさ美は腕時計にちらと目をやって、
「遅刻だなぁ」
と、いたずらに笑った。
ビールが二杯目のグラスの底を見せた時には、すでにまさ美たちが店に来てから30分が経とうとしていた。まだ、他の客は入っていない。
料理は、なるほど、まさ美が勧めるだけあって、久しく口にしたことのないような滋味が口の中に広がっていった。
「しかし、ほんとに美味いなぁ。変な話、高くないの?」
和弥は小声になって訊いた。
「またぁ……、それは気にしなくていいんだって」
まさ美はそう言って笑うと、何かに気付いたように視線を和弥の後ろに向けた。
「バー、tovarishchに、ようこそいらっしゃいました」
まさ美の視線よりも、和弥はその声にはっと弾かれたように振り向いた。
まさ美は、「よっ、オーナー」と、手をあげて挨拶している。
「久し、ぶりだな――」
和弥は、椅子を鳴らして立ち上がり、声の主と正対した。
「お前、悠平か。それより、この店の名前……。嘘だろ。まさ美、お前」
和弥は何から理解し、何から言葉にすれば良いかがわからなかった。一瞬にして過去の出来事が、思い出が和弥の脳裏を駆け巡った。その情報量は、およそ和弥には処理しきれるものではなかった。
まさ美は、おどけた顔の裏に緊張を孕ませながら、
「びっくりした?」などと言っている。
「ここの名前、タワリシチっていうのか?」
和弥は誰にともなく言った。
悠平が真剣なまなざしで大きく頷く。そして、意を決したように和弥の目を見て、
「和弥、色々、ごめん。俺、和弥に謝っても謝りきれないこと……」
深く、頭を下げた。
「お前……」
体が熱かった。あの時のような熱さだった。――これは、怒り、なのか?
和弥にはわからなかった。今の感情も、この体の熱さも、何処から来るものなのかが。
まさ美が言った。
「今の和弥ならもう大丈夫だと思ったの。ほんとは琴乃ちゃんにも連絡してたんだけど、今日は来れないって。もう一度、みんなで集まりたかったの……」
なぜか、声が震えていた。おそらくまさ美にとっては大きな賭けだったのだろう。恐る恐る事の顛末を窺っている。
「和弥、俺、謝ってもゆるしてもらえるなんて思ってない。でも、謝りたいんだ。何度でも……。話、聞いてくれるか」
和弥は言葉を失っていた。ただ、得体のしれない感情に耐えるように拳を握り、奥歯をぎりぎりと噛み締めるしかなかった。
悠平は大きく息を吸ってから語り始めた。
「俺な、ほんと自分の女々しさにうんざりしてるんだ。情けなくて、カッコ悪くて。親友のお前の人生まで狂わせてしまって」
そう言われると、本当に悠平のせいで人生が狂ったと思いたくもなる。しかし、和弥の自我が深いところでその思考を拒否していた。
「お前からもらったメール、俺、全部読んでたよ。でも、返事も出来なくて……。ごめんな。でも、お前はそんな俺に頑張れ、ともありがとう、とも言ってくれた。そう言えるお前を俺は、本当に尊敬してるんだ。この年になってもあの頃の――高校生のお前が大きな存在なんだ」
――俺は自分から逃げていただけなんだ。尊敬されるには値しない。
「もちろん、今だって和弥は大きな存在だし、それに、親友だって思ってる。……俺、頑張ったよ。お前に頑張れっていう言葉をもらえたから、必死に頑張ったんだ。そして、いつか自分を誇れる日がきたら、その時はお前たちと笑い合って話ができる。そう、信じてた」
――うるせぇ……
和弥の体内を巡る感情の処理が完全にダウンした。
「だから、いつかそんな日が来ることを信じて。いや、願って、この店をタワリシチとして始めたんだ。いつか、ここで再開できることを願って」
――どうして人間ってやつはこんなに……。
「……る、せぇ……」
声が震えていた。拳は強く、握られたままだった。
「え?」「和弥……」
悠平とまさ美の緊張を帯びた声が重なる。
「うるせぇんだよっ」
和弥は全身を使って叫んだ。アルバイトの女も何事かと不安気な目をしている。
まさ美が、和弥の手を握ってくる。
和弥は、そのまさ美の
手を力いっぱいに振り払った。その様子を見ていた女店員も思わず、「お客様っ」と駆け寄ってくる。
「うるせぇっ、男同士の話に女は入ってくんじゃねぇよ」
和弥の目は悠平を見据えたままだ。和弥はゆっくりと口を開いた。
「悠平、お前、あの時のこと、憶えてるよな」
「あ、あぁ」
「じゃぁ、あの時お前、何発俺を殴った?」
悠平の顔は、戸惑いに満ちている。
「いや、そこまでは……」
「だろうな。でもな、俺は憶えてるんだよ。お前は確かに俺より三発多く殴った。――左で一発、右で二発」
「そうだったか……」
悠平は項垂れている。和弥は相変わらず拳を握っている。
「なら、今ここで殴ってくれ。三発どころか、和弥、お前の気のすむまで――」
悠平はそう言うと、歯をくいしばって目を閉じた。
「当たり前だ。その代わり、目はつむるなよ。しっかり見届けろ、この拳をっ」
和弥はそう言って両手を胸の高さまで上げた。
「ちょっと、和弥やめてよ。こんなことしたって何にもならないじゃない」
まさ美が二人の間に割って入る。女店員は今にも泣き出しそうだ。
「言っただろ。女は引っ込んでろ」
和弥の声色からは、全ての感情が剥落しているようだった。
「悠平っ。しっかり歯ぁくいしばれっ」
和弥は右腕を弓矢のごとく引いた。徐々に力が溜め込まれてゆく。悠平は目を見開いている。その瞳には寸分のブレも無かった。
「思いっきり殴るからな。怪我しても文句は無しだ。いいな?」
「あぁ、かまわない」
和弥は、力を満たした腕ごとからだをひねった。
「もう、やめてよ……。私、こんなつもりじゃ」
まさ美も、今にも泣き出しそうだった。
「まさ美、下がってろ。――悠平、いいんだな?」
抑揚のない声で和弥は言った。
「あぁ。気の済むまで思いっきり殴ってくれ」
無音の時間が流れていた。いや、正確には、沈黙の中に、奥歯を噛みしめている音は聞こえていたのかもしれない。和弥の、あるいは悠平の。
静寂を破ったのは和弥だった。
「おい、悠平。お前にとって、この店は、何だ?」
「俺の、希望だ」
悠平は力強く答えた。
「なら、お前は、タワリシチの何だ?」
和弥の真意を酌み取ろうと、悠平の瞳がせわしなく動く。
「オーナー、だけど……」
「はぁ……」和弥の、長い溜息が店内に広がる。「違うだろうが」
一転した雰囲気の異様さに、まさ美は言葉を失った彫像になっている。
「じゃあ、いったい」
そう言った悠平の言葉に重ねて、和弥は声を荒げた。
「お前は、タワリシチのリーダーだろうがっ」
「えっ?」悠平が、弾かれたように顔を上げた。
「悠平。お前はどう思ってるか知らねぇけどよ、俺はタワリシチが解散したなんて話、聞いた覚えはねぇぞ。――まさ美、お前もそんな話、聞いてねぇだろ?」
急に名前を呼ばれたまさ美が、あわてて「う、うん」と言って、二人を交互に見た。
「それなのによぉ……、お前、俺の言いたいこと、わかるか?」
悠平は、その一瞬で素早く思惟を巡らせているようだったが、ほどなくして、
「いや、ごめん」力なく首を横に振った。
「悠平、お前なんで殴ろうとする俺を止めないんだよ」
「それは、仕方の無いこと――」
「ばかやろうっ、殴って手ぇ怪我したら、ギター弾けなくなるだろうがっ。俺は、タワリシチのギターじゃねぇのかよ、あっ?」
「和弥、お前……」
「それに、お前が希望だと言うこの店の中で、お前を殴れるわけねぇだろうが」
「和弥――」悠平と、まさ美の声が重なった。
「和弥。ありがとう」
そう言って悠平は項垂れたまま肩を震わせた。その肩に和弥の手が乗せられた。
「悠平、ごめんな」
まさ美が和弥の元へと歩み寄ってきて、手を握った。
悠平はまた、力なく首を横に振った。その時、床に向けて一筋の光跡が走ったのを、和弥は見逃さなかった。
「今日のために、色々準備してたんだ」
悠平が、そう言って料理を運んでくる。
「和弥、食べてくれるよな。まさ美も」
「あたりまえだろ。お前も席、つけよ」
「じゃあ料理、全部出し終えたら言葉に甘えるとするかな」
和弥とまさ美は顔を見合わせて微笑んだ。
その時、まさ美の携帯が鳴った。
「あっ、ごめん。電話、出ていい?」
まさ美は立ち上がりながら携帯の画面を見た。そして、動きを止めた。
「琴乃ちゃんからだ」
和弥と悠平の視線が合った。和弥は、
「出ろよ」
一言だけ言うと、手もとの料理を口に運んだ。
「もしもし――」
まさ美が電話に出る様子を和弥は無言で見ていた。
「――うん。うん、大丈夫だよ。しょうがないじゃない。忙しいのはわかってるから。……うん。――あっ、今度時間あったら子供も連れて来なよ、ね?――え?あ、あぁ……」
まさ美は和弥と悠平の顔を交互に見やった。
「大丈夫だよ。今、同じテーブルにいる。――うん。――えっ?ちょっと、まってて――」
まさ美は電話口を手でふさぎながら、
「今日は行けなくてごめんね、だって」
悠平は「ぜんぜん」と言って、にっこりと笑った。そしてまさ美は和弥に、
「琴乃ちゃん、変わってほしいって」
携帯を差し出した。
和弥は一瞬躊躇したが、意を決して電話を耳に運んだ。
「もしもし」
電話の向こうで息を呑む気配がはっきりと伝わってきた。
『和弥、今、大丈夫?』
胸の奥が、大きく脈動していた。その言葉から始まる癖は、昔と全く変わっていなかった。
「あ、あぁ……」
『そっか……』琴乃の声が、懐かしかった。
「結婚、したんだってな」
『うん』
「子供も、いるんだってな」
『うん……。和弥、ごめんね』
「なんだよ、急に」
『私、ずっと和弥に謝らなければって』
「それはこっちのセリフだよ。琴乃、ごめんな」
『やめてよ……』
気づかないふりをしていたが、琴乃の声は涙に濡れていた。
「泣いてんのか?」
『だって……』
「笑えよ。――あっ、そうだ。これ、重要なことなんだけど、子供は男の子か?それとも女の子?」
『え?――女の子、だけど。どうして?』
和弥はふっと笑った。
「だってさ、男の子でお前に似たら、背が小さくてかわいそうじゃん」
『あっ、ひどぉい』微かに琴乃が笑ったような気がした。
「でも、そうだろ?」
『……だね』今度は、琴乃の笑った声がはっきりと聞こえた。
電話の奥から『ママー』と声が聞こえた。
「子供、なんて名前?」
『変わってみる?』いたずらじみた声もあの頃のままだ。
「あ、いや……」
そう言うやいなや、『もちもちぃ?』語尾をあげた可愛らしい声が、和弥の耳朶を小気味良くくすぐっていた。
その後ろで琴乃が子供に呼びかける声がする。
『みぃちゃん、お名前言ってごらん』慈愛に満ちた声だった。
思わず和弥の声は、丸みを帯びた。
「お名前、なんていうの?」
えっとねぇ、と電話の声が一瞬遠のいたと思ったら急に声が近くなって、
『みさきぃ』弾むような声だった。
「みさきちゃんだね。いい名前だね」
『ありがとぉ』無邪気で屈託のない声に、和弥は心が澄み渡る思いだった。
「みさきちゃん――」質問せずにはいられなかった。
『なぁにぃ?』
両手いっぱいに電話を持って和弥の声に耳を傾ける彼女の姿が目に浮かぶようだった。見なくてもわかる――琴乃によく似た可愛い子だ。
「お母さんのこと、好き?」
彼女は一度、笑うような声で、くはっ、と息を吸ってから、
『うんっ、だぁいすきっ』和弥は顔が緩んだ。そして、
『――おにいさんはぁ?』予想だにしなかった質問に戸惑いながらも、
「僕もね、大好きなんだ」そう言うと彼女は、
『ええぇ~』
語尾をさらに高くあげて、きゃははっと笑った。
和弥はすかさず、
「ないしょだよ」
悪戯っぽく言うと、
『うんっ、ないしょ』
そう言って彼女は琴乃へと電話を返した。
『何、話してたの?』
もう、その声は和弥の知っている琴乃の声ではなく、れっきとした母親の声だった。
「ん?――ないしょ」
時の移ろいに憂いを感じずにはいられなかった。
『ええぇ~』
そういった琴乃の声は、みさきちゃんの声にそっくりだった。
「いいじゃんか。……琴乃、幸せそうだね」
『うん。私、今、幸せだよ。きっと、和弥も幸せになってね、まさ美ちゃんと』
「知ってたのか」
『当たり前じゃない。だって私達、親友だもん』
「そうだよな」
琴乃の言葉は、和弥の心に潤いを与えていた。
『ねえ、和弥?』
急に琴乃の声が変わった。また昔の、あの頃の声だ。
「なんだよ、あらたまって……」
『和弥、今、大丈夫?』
それは最も意味のある、大切な言葉のように思えた。
和弥は大きく息を吸い込んだ。
「ああ、大丈夫だよ」
和弥は自信を持って答えた。
何か、ひとつの時代が去ってゆくような、筆舌に尽くし難い想いが和弥を包んでいた。しかし、そこに哀しみではなく、喜びを見出せたことは、和弥にとって大きな発見だった。
「タワリシチは、やっぱ解散だな。な、悠平」
まさ美は寂しげな目をしている。
「そうだな」
三人の座るテーブルは、しばし静寂に包まれていた。
悠平が言った。
「和弥、今まで大変だっただろう?」
「なんで?」
「いや、実はさ、結構前から和弥の状況は知ってたんだ。まさ美に聞いて。でも、その時は俺、自分にまだ自信を持てなかったから何も出来なかった」
「そんな事はどうでもいいんだよ。荒んだ生活もまんざら捨てたもんでもなかったぜ」
和弥はわざと戯けてみせた。しかし、まさ美が抗議の目を向けてくるのですぐに止めた。
様子を見ていた悠平が、ははっと笑う。
――あっ、この感じ。
懐かしさが急速に溢れてきた。
数々の思い出が体の隅々に浸透してゆくようだった。そして思い出は美しい科学変化のように、和弥の心にたちこめていた靄の帳を、すぅっと晴れ渡らせた。
と、急激に込み上げる何かに和弥は気付いた。
和弥はそれえを堪え、強がるようにグラスの酒を煽った。しかし、その後の悠平の言葉で、最後の防波堤が瞬時に崩れ去った。
「なぁ、和弥」
「ん?」
グラスを手にしたまま悠平を見た。グラスの底の氷が二つ、カランと揺れた。
「タワリシチ、一緒にやっていこう」
和弥は雷撃に貫かれたように体を強張らせた。
あの頃、毎日のように感じていた、懐かしい熱さが身体中を駆け回り、やがて瞳からみるみる溢れ出た。
「お前、何言って……」
本当は、悠平が何を言わんとしているかはわかっていた。しかし、それでも理解できないふりをしたのは和弥の、精一杯の強がりに他ならなかった。
「もし、お前さえよければこの店、一緒にやってくれないか?――まあ、今日は見ての通り暇だけどさ、普段は結構忙しいんだよ、こう見えて。……最初、店始めた時は客も全然入らなかったんだけど、それでも耐えて、耐えて。ここまでやってこれたのは、和弥、お前の頑張れ、という言葉があったからなんだ。――タワリシチ、一緒にやってもらえないか?」
途中から、悠平の言葉はわからなくなっていた。
――これだから人間ってやつは……。
和弥の持つグラスの氷に、ぽたぽたと涙が零れ落ちていた。
不意に和弥は立ち上がった。
「ちょっと、外で煙草吸ってくる」
「和弥……」
悠平が和弥を追いかけようとすると、まさ美がそれを手で制し、
「ほんと、素直じゃないんだから」
笑いながら和弥の後に続いた。
晩秋の寂しげな夜空に抱かれた街は、何処か物憂げな雰囲気を醸し出していた。
道を歩く人たちは、心なしか皆、灯影を選んで歩いているようで、それが一層、目に哀愁を感じさせた。
バーの扉を乱暴に開けて出てきた和弥を、通行人たちは一瞬、ぎょっとした目で見ながらも、すぐに意に介さない様子を衒って、足早に歩いてゆく。
この人たちは何処へと歩いてゆくのだろうか。
そんな思いを馳せてみたところで、この双眸から流れる雫を止めるきっかけになど、なるはずはなかった。
天を仰ぐと、秋空唯一の一等星フォーマルハウトが、孤独な輝きを放っていたが、涙に滲んだその姿は二重に見えた。
和弥は、その星を見上げながら、空に、その名を呼んだ。
「まさ美……」
思えば、まさ美がここまで自分を連れてきてくれたのだ。
彼女に心からありがとうを伝えたかった。
今度は、和弥がまさ美を未来へと導く番だ。
背後でドアが開く音がした。僅かな呼吸音を耳にして、和弥には振り向かずともそれがまさ美だとわかった。
和弥の見上げている方向を、まさ美も仰ぎ見た。そして、空に、その名を呼んだ。
「和弥……」
その声で、はじめてまさ美に気づいたふりをして和弥は振り返った。
まさ美が言った。
「星、綺麗だね」
涙を拭いて空を見上げたら、二重の輝きが、やがて一つに重なった。
風は、静かに吹いている。
読んでいただいた皆さん、本当にありがとうございます。
何か、読者の方々の心の中に残るような作品を描きたい一心で書き上げました。
もし、よろしければ、感想お待ちしております。




