一章:裏切りと誠実の境界
そして夜。
「テオ様は?」
「すこし用事を頼んで今は出かけています。今夜中には戻ってこれないでしょうから、夕飯は食べていていいと」
そう言ってシオンは持っていたらしい酒をグラスについで飲みはじめた。
「あの……」
「俺のぶんは結構です。……食欲がないもので」
そう言って酒に口をつけはじめたシオンに困った顔をしながら、ヴェルフはリノの給仕をはじめた。
「なんなの? あいつ」
そういいながらリノは運ばれ切り分けられていく夕飯を食べていた。
ヴェルフはなにもしゃべらずにもくもくと給仕を続けている。
「シオン様」
「はい?」
琥珀色の液体に口をつけながらシオンが冷たい視線をヴェルフに送る。
「テオ様は、いつお戻りに?」
「翌朝から昼にかけてでしょう。明日中には戻ります」
そういいながら酒を飲み干して、持っていたビンの中からグラスへ注ぐ。
琥珀色がろうそくの炎に照らされ美しくきらめく。
「左様でございますか。では、馬車は明日の夕暮れに出しましょう」
その言葉を聞いた侍女らしき一人が頭を下げて食堂からでていく。
その姿をシオンがただ黙って見送る。
「なにか?」
「……いえ」
無理やりといった風に目をそらしたシオンはぐいっと酒をあおって席を立った。
「お部屋に?」
「はい」
うなずいたシオンをヴェルフが微笑を浮かべながら頭を下げて見送る。
そんなヴェルフの袖を、むっと唇を引き結んだリノが引っ張っていた。
「ヴェルフ」
「なんでしょうか?」
「あんなやつ、お兄様の前に出してはいけないわ」
「なぜそのようなことを……。お嬢様はあの方に助けていただいたのでしょう? 最大限の礼を尽くさなければあとでなにが起こるかわかりませんよ?」
「起こったとしてもサナン様が助けてくれるわ」
きっぱりと言い切ったリノの言葉にヴェルフがいぶかしげに眉を寄せる。
「また、そのようなことを……。もう何年会っていないのです?」
答えに詰まったリノを見て、深くため息をついたヴェルフは、諌めるようにリノの頭を撫でた。
「それは……」
「いるかもわからないような人物を当てにするより、今いる若い殿方を見ろと長老はいつも」
「爺様はいいわ。あんなジジイ」
「お嬢様」
口がすぎると言わんばかりのヴェルフの口調に、リノはむすっとした表情でそっぽを向いた。
「興ざめだわ。私も部屋に戻る」
「……はい」
イスを引いてリノを抱き上げたヴェルフは、そのままシオンの隣の部屋にリノを降ろして、忙しそうに出ていった。
ひねった足を引きずりながら、リノはそっと窓際によって星空を見上げた。
真っ暗闇に浮かぶのは幾千もの銀色の輝き。窓の外は風が吹いているらしく時折砂煙が輝きを鈍らせる。
凛とした冷たい空気の中、遠くで汽笛が聞こえた。
あの銀瑠璃の星々のような輝きを放つ、きれいな銀色の髪を持った青年のことをふと思い出す。
「……サナン様」
貴族令嬢であるリノに課せられた宿命。
それは、自分よりも身分の高い貴族に輿入れをして、当主とその貴族の橋渡しをすること。
リノは、その宿命にしたがって、公爵家に嫁ぐことが半ば決まっている。
鋭く引き締まった印象を持たされる顔がくしゃりと子供のように笑う瞬間。
いたずらににやにやとして笑う顔。
慈しみの表情を浮かべて頭を撫でてくれるあの暖かい手。
「……」
リノはそっと胸元にしまってある一つのネックレスを握り締めて目を閉じた。
公爵家次男であり、公爵位継承権第二位を持っている、サナン・H・J・ヴィストラートこそが、リノの伴侶となるべき人であり、そして、恋人だった。
恋人といってもあちらから言えばただの幼馴染だろう。
年の差は八つ。
貴族婚ではまた差がないほうだが、それでも、話が合わないほど年が離れているのだ。
「……」
そんな彼も、諸事情によって行方知れずのまま。
そしてその諸事情をリノは聞かされていない。
「……サナン様」
ポツリつぶやくさびしげな声は部屋を訪れようとしたシオンが耳にしていた。
「…………サナンか」
部屋の外でノックをしようとしたところでその声に気づいたシオンはそうつぶやいて、ゆっくりと扉を開けて窓際に寄りかかるリノの姿を見つめていた。
無論、そんな扉近くのことを知ることもできず、リノは胸元のネックレスを握ったまま、かくんと膝を折って窓際にもたれるようにして眠り込んでしまった。
そんなリノをそっと抱き上げてベッドに入れてやったシオンは、リノの手に握られた藍色の地に金で描かれた公爵家の紋章にそっと触れて目を閉じて、何事もなかったように部屋を立ち去った。




