企画 B面
『ユリ』
苦い思い出しかない。
それは、高校二年生の時。面と向かって私に、「ハルユキと別れて欲しい」と言ってきた、ただ一人の人物だ。
「みんな、困ってるんだよね。ハルユキはあんただけのハルユキじゃないってこと、わかんない?」
「私、そんなつもりじゃ……私とハルユキは隣の家だし、」
「ただの幼馴染なんでしょ? だったら、毎日一緒に帰るとか、やめてくれない?」
そして、捨て台詞のように、「ハルユキと絡む時間が全然ないのって、あんたのせいだから。女子全員、そう言ってるんだからね」
女子全員なわけないでしょ、クラスの半数が彼氏持ちなんだから、とツッコミたかったけど、不毛なのでやめた。
それ以来、この子ハルユキのこと好きなんだオーラ全開で、私を事あるごとに睨みつけてくる。それが苦痛に過ぎて、私の胃腸が最初に悲鳴をあげた。診断は急性胃腸炎。とまあ、こんな風にとんだ目にあったことがある。
その頃からもちろん、ユリは私の苦手な人物となった。
そして、当の本人は。最近では周りにも引かれているというのにそんなことどこ吹く風でケロリとして、今もハルユキにアタックし続けている。
「あんたから奪ってやるって息巻いてたの、私、聞いちゃったよ」
十年来の私の友人、サッちゃんからそう聞いたこともあった。サッちゃんとは大学が違ってしまったので、最近はあまり会えていないけど、久しぶりに会えば会ったで、ユリに邪魔されていない? アイツほんと粘着だな、と心配を寄越してくれる。
そんなこともあり、スマホの着歴を見てさあ、心の中ではあーあってなったんだよ。
(まだ、諦めてくれていないんだ)
私はそんなことを考えながら、車のフロントガラスがそのまま負のオーラに侵食され、真っ白けっけになるのを、ぼうっと見ていた。
ハルユキが着替え終わるまで、ずっと。
「ナツナ、フロント、エアコン回して」
悪戦苦闘がようやく終わり、後ろから声が掛かる。
はっとして、意識を戻す。
「あ、う、……うん」
エアコンのツマミを回す。ボオォォっと音を立てて、ぬるい空気が流れていくる。
そして、今度は白く曇っていたフロントガラスが、クリアになっていくのを見ていた。
(もしかして……早く帰って、ユリに会うのかな)
ユリが時々、ハルユキの家に押しかけてきていることを知っている。
そして、お昼ごはんの時、コーヒーを買う自販機の前で、ハルユキがスマホを見ていたことも、悲しいけれど知っていた。
✳︎✳︎✳︎
「なあ、なんか怒ってる?」
ハルユキがハンドルを回しながら、顔を覗き込んでくる、気配。私が頑なに真正面を見つめているもんだから、ハルユキがどんな表情を浮かべているかは、実際のところわからないのだけれど。
きっと、眉毛がくっつきそうなくらい、眉間に皺を寄せているのだと思う。
「別に」
「そう? なんか機嫌悪そうだから」
「そんなことない」
帰りの雪道。やっぱりハルユキはいつもより、急いでいる。ハンドルを操る手が、全然丁寧じゃない。雑の極み。
「晩メシ、一緒食うだろ?」
「え?」
「え、って。なに? なんか、用事あんの?」
(用事あんのは、あんたでしょーよ)
ひねた心は歪な形。私は今朝握ったおにぎりを握るように、歪な形を直そうと試みる。けれど、今朝は良かったんだよ。楽しみでわくわくしてたから。玉子焼きだって、ハルユキが好きな調味料の配合、ちゃんとメモ通りに作ったし。
(やっぱり急いでる。……夜、ユリと会うのかな)
さっきから右に左にと身体にGがかかってる。アクセルを踏む足に力が入っていて、そうなっていることに、私はとっくに気づいてしまっている。
「ねえ、雪道だからもうちょっとゆっくり……」
「なあ晩めし、食わねえの?」
「スピード速すぎるよ」
そして、一旦はアクセルを緩める。
「俺、今日さ……」
ハルユキが言いかけて、私は慌てて遮った。
「わかったわかった、用事があるってんでしょ。早く帰りたいんだったら、スピードでもなんでも出せばいいよ」
言い方。失敗。溢れ出る感情に蓋ができなかった。公園の飲み水の水道のように、ぶしゃあっと水がほとばしるようにでも。
「なんだよ、それ」
少し不満な口ぶり。
そんなハルユキの返しに、やはり私の感情は焼き切れた。
「どうせ事故して死んだって、別にそれでいいってことでしょ」
ハルユキが、急にブレーキの方へと足を踏みかえた。
ぐうんっと前のめり。
路肩にスペースを見つけて、車を停車させたのだ。それからは、ゆっくりと停まる。
沈黙が、空間を埋めた。
ハザードの、カッカッカッという音が、このまま永遠に響いていくような気がして、背中にゾッと寒気が走る。
「……今日のナツナ、おかしい」
その言葉に、私は心底、笑ってしまった。
「はっ、おかしいのはハルユキの方だよ」
「俺は、別に……」
ユリの名前なんて、この口からもあの口からも出したくない。もう一度言うけれど、高校の時、散々振り回されて、胃腸炎にもなったんだから。しかも急性だぞ、急性て‼︎
「私だって別にだよ。もう早く帰ろ」
「死んでもいいだなんて、」
「もういいからっっ、帰ろっっ‼︎」
そして、ハルユキはハザードを切ると、そろりと運転を始めた。車がのろっと本道へと出る。
「ごめん、ゆっくり行くから」
暗い声。
私がスピードのことで怒っているんだと思ってる。
違うし、いや違わないけど、やっぱり違う。
けれど、私は窓の外を睨みつけているから。喉の奥にねっとりとした言葉が詰まったようになっている。
その場を取り繕うような言葉は、ひとつでさえ言えなかった。
✳︎✳︎✳︎
「もうスピード出さないから。機嫌直せよ」
「……ん」
霞んだ道の向こう。行きに通った、あのハラハラした橋が見えてきた。
私が怒ってから、ハルユキはゆっくりの運転に戻してくれている。
その様子を見て、ほっと胸を撫で下ろすと同時に、ハルユキのしぼんでいった態度に、私の中は徐々に申し訳ない気持ちで占められていった。
「な、晩メシ、俺が奢るから」
「……お金あんの?」
「うっ、あんま高いのは奢れんけど」
「わかった、もういいよ」
まだ、声に尖った部分がある。自分でもわかる。よくわかるのは、自分の言葉だからだ。
「ナツナ、今日さ、晩メシ食ったらさ……」
橋に差し掛かる。ぶおっとエンジンが吹いて、上りの坂道をあがっていく、カチンコチンに凍った細かい雪を、ガガガッと潰しながら、スタッドレスが悲鳴のような音を立てている。
橋は凍る。
それを証明しているような音が、車内にも遠慮なく響いてくる。
もちろん、車のタイヤが氷を食んでいく細かな振動が、お尻にも腰にも、そして身体全体にも伝わってくる。
「ば、晩メシ食ったらさ、ちょ、ちょっと時間、……」
ハルユキが言いかけた、その時。距離で言うと橋の真ん中、高さでいうと橋の頂上を通り過ぎた時だ。
西日がキラッと光り、一瞬、目の前が光で包み込まれた。
「わ」
「わ」
ガリガリガリガリ。
そして、ザザザー‼︎
「え、え、うわ、うわああ」
目の前の景色が横へと流れていく。
「ハルユキっ」
私は両手を伸ばし、左手はドアの手すりに、そして右手は宙を掴んで、そして。
「わわわわあああ」
ハルユキの絶叫。
もちろん、横にスライドしていく目の前の景色で、車が滑っていることはわかっている。
ハルユキがギュッと握ったハンドルを、左右に細かく切っている。
一瞬、ブオンって音がしたのは、ブレーキを踏もうとしてアクセル踏んだ音なんだと思う。けれど、ブレーキなんて、踏んじゃだめっっ。
そう言いたかったのに、「やだっやだっ、うそっっ」としか声に出なかった。
今通ったばかりで、本来なら見えないはずの橋の欄干が視界に入ると、さあっと顔だけじゃなく、身体も青く、色と熱を失っていく。
ぞっと、背中に悪寒が走った。「うそっ、やだやだっ」
全身が総毛立つ瞬間。
そして更に、ザリザリザリザリとかき氷機で氷をかくような音。
ふわっと宙に投げ出されたかのような浮遊感。
視界は、道、橋、欄干、川、そして道、横断歩道、信号と、スローモーションで流れていった。車が滑るようにして、一回転していくのが、視界に入ってくる景色でわかる。
私は、ああ死ぬかも、とかなんとか思っていたんだと思う。けれど。
「ナツナっ、掴まれっっ」
宙を彷徨っていた私の右手は、ハルユキの左手にぐっと力強く掴まれて。
そして、視界に真っ白な壁。
迫ってくる。
白い壁が‼︎
思った瞬間、ドンっと衝撃があった。
その衝撃で、前へとつんのめる。身体を斜めに走っているシートベルトに圧。
次の瞬間には、顔を殴られたような、第二の衝撃。
ボスンと顔を覆われて、とっさに目を瞑る。
「ぶっっ」
そして、私は意識を失った。
✳︎✳︎✳︎
と、思っていたら、これがまた全然失ってなかったわ、意識っ‼︎
エアバックに突っ込んでいた顔を上げて隣を見る。と、隣から同じようにエアバックに突っ込んでいた顔を上げて、ハルユキが「ナツナっ」と私の名を呼んだ。
その顔。見たこともないような、必死な顔。
「な、ナツナっ、大丈夫か? ケガは? ケガはないかっっ?」
私は、私の全髪の毛がばさあっと前方向に垂れているのを感じながら、なんとか声を出して言った。
「……ハルユキは? 大丈夫? わ、私は大丈夫だよ。どこもケガして、な、い、と思う……」
そして、顔を元に戻す。首に少しの痛み。そして、目の前のフロントガラスには大量の雪が積もっていて、視界が遮られている。
はああっと目一杯に、息を吐いたハルユキ。
その安堵の息に促されるように、再度ハルユキの方を見た。すると、ハルユキは膨らんだエアバックに、ボスっと顔を埋めた。
「よ、……良かったあ。良かったよう、良かったぁぁぁ、う、う、」
え。
え。
え。
まさか、ハルユキ、泣いてる?
「ハルユキ、」
「ごめん、ごめん、ナツナ。お前が何度も、スピードっ、て注意してくれてた、のに、俺。……ひっく、ひっく、」
「うそ、ここで泣くかあ? イヤだ、泣かないでよぉ」
そして私も涙腺崩壊。安心した途端、私の目からも、ぼろぼろと涙が溢れて落ちた。
けれど、そこではっとした。
「ハルユキ、ここ、ほ、歩道みたい。だ、誰か巻き込んでない、かな」
そして、二人。顔を見合わせてから、車から慌てて降りた。周りを一周し、誰も巻き込んでないことを確認すると、
「ナツナ、ナツナ、」と、ハルユキが抱きついてきた。ハルユキの鼻が真っ赤に染まっている。
それはもちろん、この車の惨状を見たら、こうなることはわかった。
橋を渡り切った場所。歩道横。ちょっとした空き地のようなスペースに、大量の雪が捨てられていた。これは多分、除雪車かブルドーザーかで、道に降り積もった雪をかいて、一箇所に集めて捨ててあったような、そんな雪の山に、車は見事に頭から突っ込んでいる。
ある程度は固まっていた雪であったのだろう、車のフロントはグシャと潰れている。車高よりも高く積み上がった雪が、その衝撃で落ちてきて、フロントガラスを覆っている。
これは結構な事故にあわない限り、こんな風にはならないだろう、という車の有様だった。
「ごめんな、ナツナ。こ、こんな危ない目にあわせ、て。ご、ごめ」
抱きついたまま、鼻声で謝ってくる。
私もハルユキの背中に手を回すと、ぎゅっと抱きしめて目を瞑った。
「ごめん、私もごめん、私もごめんう、うえ、うわあん」
助かったという安堵と、怖かったという恐怖から、私とハルユキは抱き合ったまま、その場に座り込んだ。
「ハルユキぃ、良かったよう、生きてて良かったよう」
「うんうん、良かった、ケガなくてほんと良かったな」
「奇跡だよ、これ。だって、一回転したんだよ?」
「九死に一生を得るっていうの、まさにこのことだろぉ」
お互いに涙を拭きながら、顔を見る。
ハルユキの腫れ上がった瞼を見ても、私は心底、良かったと思った。
こんな時になんだけど、好きなんだ、ハルユキが。
物心ついた頃からもうずっとずっと。
ハルユキの顔が近づいてくる。どちらからともなく、ちゅっと音を立てて、唇にキスをした。
「ナツナ、ナツナ」
私の名前を呟きながら、ハルユキは両手で私の頬を包み込む。
そして。
「ナツナ、今から大事なことを言うから聞いて欲しい」
んえ? 私は鼻水をすすりながら、ハルユキの次の言葉を待った。
ハルユキの手は温かいなあと、その体温を頬で感じていると。
「ナツナ、いいか。よく聞いて。俺と…… 俺と、結婚してください」
え。
え。
え?
「え、なに言って、」
頭真っ白でなに言ってんのこんな時に、と言おうとする唇に、ちゅっとキスをしてくる。
「ちょ、え、え? ちょ、と、ま、って、」
そして、私の顔を解放すると、すぐにごそごそと上着のポケットから、なにかを取り出した。
これは……まさか。
それはブランドのロゴが入った、小さな小箱。
それをパカッと開けて。
「はい、これ。サイズはいいと思うんだけど、ほら、左手っ‼︎ 出してみ」
私が、唖然としながら左手をそろっと持ち上げると、がっと掴んで。
左の薬指にはめた。
はめた。
はめた?
なにを?
ゆびわーーーーー‼︎
「なになになになにこれなにこれなに、」
「結婚してください‼︎」
なんで今ーーーー⁇
「いやこれ、吊り橋効果ってやつだな……って、そうじゃねえ。ナツナ、早くっ、うんって言え‼︎」
「え、え、え、」
「ナツナ‼︎」
「あーはいはいはいはい」
「よしっっ‼︎」
小さくガッツポーズ。うわ、かっこい。
すると、ハルユキはがばっと立ち上がり、雪山に頭から突っ込んだ車の後ろへと回り、トランクをがっと盛大に開けた。
そして。
「ナツナ、これ」
抱えているのは、真っ赤なバラの花束。それを座り込んだ私の目の前に差し出しながら、ハルユキもしゃがみ込んだ。
「ナツナ、俺のためにこれからもオニギリと玉子焼きを作ってください」
手をそろっと伸ばす。バラの花束に指先が届く。それを素直に受け取ると。
自然と笑みが溢れた。
涙が乾いてカビカビになった頬。にかっと笑うと、バリバリバリっと音を立てそうなくらいにきしんでいるけれど。
なーんだ。だから、トランクを触らせてくれなかったんだね。
「ほんとはさ、宝探し」
「え、」
「参加して、宝の山からこの指輪を探し出すって、俺設定だったんだけど」
「マジか」
「うん、その時にプロポーズしようと思ってた」
「……そうだったんだ」
ようやく、合点がいった。もしかして、それで昨日の夜、眠れんかった⁇
「あ、じゃあ、早く帰ろうとしてたのは?」
「目論見が崩れたから、早く帰って晩メシ食ってから、おまえの家でプロポーズ仕切り直しのつもりだった。だけど……」
ハルユキが、事故った車を見る。
「命、助かったから。今しかないって思って」
「……ハルユキ」
「一生、おまえと一緒に生きていこう、って」
ぶはっと笑いそうになったけれど、これでも一生懸命、我慢したんだぞ。だって、九死に一生のちプロポーズだなんて、聞いたことも見たこともないし、どうせこれからも一生ないだろうから、笑い出したりしてこの雰囲気をぶち壊したくなくて。
「ありがと」
色々、ありがとう。
「それにしても良かったああぁ」
「うん。だね。ちょっと、ホッとした」
「OKもらえて、これで安心だわ。おまえ、大学の先輩にちょっかいかけられてただろ。あれ、俺すげえ、ヒヤヒヤしてたんだからな」
「え、滝先輩? あの残念なチャラ男? あー。ない。それはないそれだけはない」
「そうなんか? はああ、良かったあ」
「ってか、それはあんたでしょ。ユリに言い寄られてるくせに」
「ユリー‼︎」
ハルユキが両手で頭を抱えて、オーマイガというジェスチャーをした。
「おまえと結婚すれば、ユリも諦めんだろ。あいつ、怖ええ。俺がどんだけ、ナツナに惚れてるって言っても、全然きかねえから。怖ええ。ストーカーっつーか何度でもよみがえるゾンビだなありゃ」
「……そ、そう……だったんだ」
なんだ心配して損した。再度、ホッと胸を撫で下ろした。
その途端。
座り込んでいた場所、これはまあ歩道ということになるんだけど、もちろん雪道だし、だから滑ったんだし、ずっとお尻ついていたから、履いていたクロップドパンツがじんわりと濡れてきて、「やだっおもらしみたいになってるっ」と気づいた頃には時すでに遅しで。
ハルユキがハルユキの父君に電話して、事故ったことを報告して電話口でひととおり怒鳴られてから、車をバックさせるとなんとかまだ運転できるもんだから、グチャグチャになったフロントを晒しながら家まで帰ってきたのだ。
ただし超低速で。
ハルユキの父君が菓子折りを持って、うちに謝りに来たのは、その日の夕方。
そして、そのまま結婚の報告会という、なんともわちゃわちゃな日だった。
こんなドラマティックな出来事は、もちろんその時だけ。
けれど、ユリにも滝先輩(?)にも、もちろん誰一人として邪魔されることなく、その事故から一ヶ月後。
滞りなく、私はハルユキと結納とキスとを交わしたんだ。