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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
王都の毒と蜜

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28/42

第28話: 甘い毒

 プティフール。


 小菓子の詰め合わせ——辺境の四季を、一皿に載せる。


 その構想が頭の中で形を取り始めてから三日。リゼットは宿の厨房にこもり、各パーツの試作を繰り返していた。黒胡桃のフィナンシェは秋。霜花蜜のボンボンは冬。高原りんごのコンポートは春。ベリーのタルトレットは夏。そして中央に——辺境の蜂蜜を使ったカラメルで、全てをつなぐ。


 辺境の太陽。


 一つの菓子では伝えきれなかったものを、五つの小菓子で語る。審査員の物差しを変えるための、たった一皿。


 本選まで、あと七日。




 その日の午後、品評会の主催から全参加者への通達が届いた。


「本選前の親睦茶会を開催する。参加は任意だが、審査員との交流の場でもある」


 リゼットは行くつもりはなかった。厨房にこもって試作を続けたかった。


 だがセドリックが言った。


「行け」


 仏頂面のまま、腕を組んで。


「行きたくないんです。試作の時間が——」


「審査員が来る場だ。辺境伯の推薦で出場している以上、顔を見せないのは俺の顔を潰すことになる」


「……それは」


「俺の顔のことはどうでもいいが——」


 セドリックが視線を逸らした。


「お前の菓子を、多くの人間に見せる機会だ」


 そういうことは——もっと素直に言えないものだろうか。


「……分かりました。行きます」


「ああ」




 茶会は、宮廷の庭園に面した大広間で催された。


 リゼットは三年ぶりに宮廷の大広間に足を踏み入れた。天井のシャンデリアが百の蝋燭を灯し、磨き上げられた大理石の床に光の波紋を落としている。窓際には秋薔薇が活けられ、甘い香りが空気に溶けていた。


 参加者は二十名ほど。菓子師たちは正装に着替え、審査員たちと歓談している。テーブルには王都の名店が持ち寄った菓子が並び、銀の器に盛られた砂糖菓子が宝石のように輝いている。


 リゼットのワンピースは辺境から持ってきた一張羅だ。質素だが清潔。白いエプロンは外してきた。髪は三つ編みから下ろして、蜂蜜色のセミロングが肩にかかっている。


 場違い。


 その言葉が、頭をよぎった。三年前にも、こういう場で何度も感じた感覚。宮廷菓子師の末席として、華やかな社交の中で——いつも少しだけ、はみ出していた。


 でも。


 今は違う。あの頃のわたしとは、違う。


 辺境の厨房で、セドリックの「前のより、いい」をもらった。ハインリヒ師範の「味は受け継がれている」を聞いた。父の辛辣な批評を血肉にした。


 何も怖くない——とは言えない。でも、逃げる理由はない。


「リゼット」


 低い声。振り返ると、セドリックが入口に立っていた。質素な革鎧の上に、辺境伯家の正装用の外套を羽織っている。紺色の厚い布地に、銀糸で風の紋章が刺繍されている。


 見慣れない姿だった。


「セドリック様……正装、されたんですね」


「俺は推薦者だ。それなりの格好をしなければ、お前が軽んじられる」


 また——そういう言い方をする。自分のためではなく、リゼットのため。でも「お前のためだ」とは絶対に言わない。


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。早く行け。俺は壁際にいる」


 壁際。この人らしい。社交の場で壁際に陣取る辺境伯。




 茶会が始まって半刻ほど経った頃だった。


 リゼットはテーブルの端で、審査員の一人——年配の女性菓子師——と話をしていた。辺境の素材について質問され、霜花蜜の特性を説明していたところだった。


「へえ、冬の花から採れる蜜。加熱すると香りが立つの? 面白いわね」


「はい。辺境の蜜蜂は寒さに強い品種で、冬でも——」


 給仕が新しい皿を運んできた。


 銀の皿に、小ぶりのフィナンシェが六つ。琥珀色の焼き色。表面にスライスアーモンドが散らしてある。


「あら、これは後任の宮廷菓子師の作品ね。品評会の参考出品として、茶会用に焼いたのよ」


 審査員が一つ手に取り、口に運んだ。


「うん、悪くないわ。バターの質が良いわね」


 リゼットも一つ手に取った。


 菓子師として——他の菓子師の作品を知ることは大切だ。特に後任の菓子師。かつて自分がいた場所に立つ人間の菓子を。


 フィナンシェを半分に割った。断面を見る。きめは細かい。気泡は均一。焼き色も悪くない。技術的には——申し分ない。


 鼻に近づけた。


 バターの甘い香り。アーモンドの香ばしさ。砂糖の穏やかな甘さ——。


 そして。


 ほんの微か。微かすぎて、普通の鼻では拾えない。百人のうち九十九人が気づかないほどの——小さな、鋭い刺。


 リゼットの鼻が——捉えた。


 苦い。


 甘い香りの底に——苦みがある。杏仁のような、でもそれよりずっと鋭い。もっと刺すような、尖った苦み。


 手が止まった。


 口に運びかけたフィナンシェを——止めた。


「……どうしたの?」


 審査員が不思議そうにこちらを見た。


 リゼットの頭の中で、記憶が回転していた。


 この匂い。この苦み。宮廷菓子師だった頃——素材学の講義で習った。苦扁桃くへんとう。アーモンドの近縁種で、生のまま大量に摂取すれば毒になる。菓子の風味づけに微量を使うこともあるが——その場合は必ず加熱処理で毒性を減じる。


 だがこのフィナンシェの苦みは——加熱処理されていない生の苦扁桃に特有の、あの鋭さだ。


 焼成の熱で多少は減じているはずだが——量が多い。微量の風味づけではない。これは——明らかに、通常の使用量を超えている。


 心臓が速くなった。


 審査員は——もう食べている。一つ目を完食して、二つ目に手を伸ばしている。


「——待ってください」


 声が、思ったより大きく出た。


 周囲の会話が——止まった。


 リゼットは自分の声の大きさに驚いたが、今はそれどころではない。


「この菓子——食べないでください」


「え?」


 審査員の手が止まった。二つ目のフィナンシェを持ったまま、困惑した目でリゼットを見ている。


「どういうこと?」


 テーブルの周囲に、人が集まり始めた。リゼットの声を聞いた参加者たちが、何事かと首を伸ばしている。


 落ち着け。


 リゼットは深呼吸をした。


 菓子師として——今、自分がすべきことを。


「この菓子に——わずかに苦味があります」


 リゼットはフィナンシェを持ち上げた。断面を人々に見せる。


「苦扁桃です。風味づけに微量を使うことはありますが——この量は、通常の使用量ではありません」


 ざわめきが広がった。


「苦扁桃……毒?」


「まさか、宮廷菓子師の作品に?」


 声が重なる。驚き、困惑、恐怖——さまざまな感情が、一瞬で広間を満たした。


「落ち着いてください」


 リゼットの声は——震えていなかった。


 自分でも不思議なほど、落ち着いていた。菓子の話をしている時の自分は——いつも、こうだ。菓子の前では、恐怖も緊張も消える。ただ、舌が教えてくれることだけに集中できる。


「一つ食べた程度では——致命的な量にはならないはずです。苦扁桃の毒性は量に依存します。ただし、何個も食べれば身体に症状が出る可能性があります。食べた方は、念のため水を多めに飲んでください」


 リゼットはフィナンシェを鼻に近づけ、もう一度確かめた。


 苦扁桃の鋭い苦み。間違いない。


「この匂いは——焼成で多少飛んでいますが、元の投入量はかなり多い。風味づけの十倍は入っています」


「十倍だと……」


 参加者の一人が顔を青くした。


「一個で致命量に達することはありませんが、二個、三個と食べれば——嘔吐、めまい、最悪の場合は意識障害を起こす可能性があります」


 広間がざわめいた。すでにフィナンシェを二つ食べた者もいる。顔を見合わせ、口元を押さえ、青ざめている。




「何の騒ぎだ」


 鋭い声が、広間の入口から響いた。


 ヴァレンティン殿下だった。


 金髪が蝋燭の光を反射している。翡翠色の目が、広間を一瞥して——混乱を把握した。


「殿下」


 侍従の一人が駆け寄り、耳元で状況を伝えている。ヴァレンティン殿下の表情が——変わった。


 驚き。そして——怒り。


「宮廷菓子師の作品に毒だと?」


 殿下の声が広間に響いた。


 視線がリゼットに向けられた。


「——メルヴェーユ嬢。お前がそれを看破したのか」


「はい、殿下」


 リゼットは背筋を伸ばした。


「わたしの舌が、苦扁桃の苦味を検知しました。通常の風味づけの量ではありません」


 ヴァレンティン殿下が——リゼットを見た。


 三年前、「お前の菓子はもう不要だ」と告げた目とは——違う目で。


 困惑と、それから——何かを思い出そうとするような、奇妙な眼差し。


「……お前の舌は、昔からそうだったな」


 呟くように。誰にも聞こえないほど小さく。


 でもリゼットには——聞こえた。


 殿下は視線を切って、衛士を呼んだ。


「衛士隊長。この菓子を即座に回収しろ。厨房を封鎖し、関係者全員から事情を聴け。これは品評会の茶会で起きた毒物事件だ」


「ただちに」


 衛士たちが動き出した。銀の皿が回収される。食べた者の名前が記録される。薬師が呼ばれる。


 宮廷が——一瞬で、戦場のような緊張に包まれた。




 混乱の中——セドリックが壁際から動いた。


 人混みをすり抜けて、リゼットの隣に立った。


 何も言わなかった。ただ——そこにいた。


 リゼットの隣に。菓子師が毒を看破した女の隣に。追放された元宮廷菓子師の隣に。


 リゼットは——その無言の存在に、どれほど救われたか分からない。


「……セドリック様」


「ああ」


「わたし——正しいことをしたんでしょうか」


 声が——かすかに揺れた。


 正しいことをした。毒を看破して、人を救った。でも——これから何が起こるか、リゼットには想像がついていた。


 宮廷という場所を、知っている。


 追放された元宮廷菓子師が、毒を見抜いた。なぜ毒の味を知っている? なぜ一口で分かった? あの女は宮廷の内情に詳しい。動機もある——追放の恨みがあるだろう。


 善意が、善意のまま受け取られる場所ではない。


 三年前に——それを、学んだはずなのに。


「お前は正しい」


 セドリックが言った。短く。強く。


「味を見抜くのは菓子師の仕事だ。お前はそれをした。それだけだ」


 いつもの、ぶっきらぼうな声。でも——一切の迷いがない声。


 リゼットは——頷いた。


 そうだ。


 菓子師の仕事だ。素材の声を聴く。味の異常を見抜く。食べる人を守る。それが——菓子師の仕事だ。


 たとえそれが、宮廷で新たな疑惑を生むとしても。




 茶会は中止になった。


 食べた者は薬師の診察を受け、幸い重症者はいなかった。苦扁桃の量は致死量には遠く、軽い吐き気を訴えた者が数名。リゼットの早い看破が、被害を最小限に食い止めた。


 だが——問題はそこではなかった。


 宮廷の菓子に毒が混入された。それは「食の冒涜罪」——この国で最も重い罪の一つに該当する。豊穣神への冒涜。食は聖なる行為だという教えに、正面から反する行為。


 衛士隊が厨房を封鎖し、関係者の事情聴取が始まった。


 リゼットも聴取を受けた。淡々と——自分の味覚がどのように苦扁桃を検知したか。苦扁桃の性質。菓子師としての知識。すべてを正直に話した。


 衛士の目が——冷たかった。


「つまりメルヴェーユ嬢、あなたは毒物の性質に精通しているわけですね」


 分かっていた。こう来ることは——分かっていた。


「菓子師として、素材の安全性に関する知識を持っています」


「安全性……つまり、危険性も」


 リゼットは答えなかった。答えられなかった。


 正しいことをした。人を救った。


 なのに——その結果が、これだ。


 宮廷の茶会で、毒を見抜いた女。追放された元宮廷菓子師。宮廷の裏も表も知っている女。毒の味を知っている女。


 疑惑の材料は——十分すぎるほど揃っていた。




 聴取が終わって、宿に戻った。


 セドリックは一言も口を利かなかった。廊下を歩く足音が、いつもより重い。怒っている——リゼットではなく、衛士たちの目に。


 宿の部屋の前で、ようやくセドリックが口を開いた。


「明日、俺が衛士隊に行く」


「セドリック様——」


「辺境伯として、お前の行動を保証する。俺の目の届く範囲でお前が何をしていたか、全て証言する」


 低い声。決意の色が、青灰色の目に灯っている。


「……ありがとうございます。でも、ご迷惑を——」


「迷惑ではない」


 遮られた。


「お前は人を助けた。それを罪にするなら——俺が許さん」


 短い。でも——あの声だ。辺境の戦場で、敵を前にした時の声と同じ。


 守ると決めた者を守る、武人の声。


 リゼットは——深く、頭を下げた。


「おやすみなさい、セドリック様」


「……ああ」


 セドリックが自分の部屋に向かった。


 重い足音が廊下に響いて——消えた。




 一人になった部屋で、リゼットは窓辺に立った。


 秋の夜の王都。遠くに菓子店街の灯りがぼんやりと光っている。


 口の中に——まだ、あの苦味の記憶が残っていた。


 苦扁桃。甘い菓子の中に潜ませた毒。誰が、何のために。後任の宮廷菓子師が焼いた菓子に——なぜ。


 菓子に毒を盛る。


 食べる人を笑顔にするために作るものに——害意を忍ばせる。


 それは菓子師として——最も許しがたい行為だ。


 リゼットの手が——握りしめられた。


 怒りだ。恐怖よりも、疑惑の不安よりも——怒りが勝った。


 菓子は、人を幸せにするためのもの。母がそう教えてくれた。辺境の厨房で、木の実を砕きながら、蜜を煮詰めながら——リゼットはそれを確かめ続けてきた。


 その菓子を——汚す者がいる。


 窓の外の暗闇に向かって、小さく呟いた。


「……許さない」


 菓子師として。


 この手で菓子を焼く者として。


 食を冒涜する者を——許さない。


 だが今のリゼットにできることは、限られていた。疑惑の目は自分に向けられている。品評会は続く。プティフールの仕上げもある。


 やるべきことを、やるしかない。


 厨房に戻ろう。


 明日も——菓子を焼こう。


 リゼットは窓を閉めて、作業台の上のレシピ帳を手に取った。プティフールの試作メモ。辺境の四季を一皿に載せる構想。毒事件があろうと、疑惑があろうと——この菓子だけは、必ず完成させる。


 食べた人を笑顔にする菓子を。


 誰に疑われようと——わたしの菓子は、わたしのものだ。

毒事件発生! リゼットの絶対味覚が毒を見抜くシーン、書いていて「この能力、こういう使い方もあるのか」と自分で納得しました。宮廷の闘が動き始めます。甘いお菓子の世界に「毒」という影——このギャップが好きです。

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