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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
王都の毒と蜜

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第26話: あの味は

 悔しい。


 厨房の作業台に並べた試作品を見つめながら、リゼットは唇を噛んだ。予選の審査で言われた言葉が、まだ頭の中で回り続けている。


 ——技術は確かだが、素材が貧弱。


 分かっている。辺境の素材は、王都の菓子師たちが使う高級素材には遠く及ばない。南部の上白糖、東方の香辛料、温室で育てた季節外れの果実——そんなものは、手元にない。


 あるのは黒胡桃。霜花蜜。高原りんご。寒さと風に鍛えられた、素朴で硬い、辺境の恵み。


 でも——悔しいのは、それだけじゃない。


 父の言葉。


 あの、偏屈で口うるさい、食客暮らしの元伯爵。品評会の観覧席からわざわざ降りてきて、予選の菓子を一口食べて言い放った——「蜂蜜の投入タイミングが遅い」。


 あの批評が、正しかった。




 翌朝。宿の一角を借りた仮の厨房で、リゼットは黒胡桃を焙煎していた。


 品評会の本選まで、あと十日。予選は通過した。だが、あのままでは本選で戦えない。


 黒胡桃を鉄鍋に入れ、弱火にかける。木べらでゆっくりと転がしながら、香りを嗅ぐ。


 辺境の厨房では、いつもこの温度で焙煎していた。殻が黒く色づき始めて、ほんのり苦い煙が立ちのぼる——この瞬間が、焙煎の頃合い。


 でも。


 今日は、もう少し攻めてみる。


 火を気持ち一段上げた。黒胡桃の表面が、いつもより深い焦げ色に変わっていく。煙が増える。苦みが——鼻を突く。


 普通なら、ここで止める。焦がしすぎれば苦みが勝って、繊細な風味が死んでしまう。


 もう少し。


 リゼットの鼻が捉えたのは、苦みの奥に隠れた——甘い香り。黒胡桃が持つ、深い深いところにある油の甘さ。低温では出てこない、高温でしか引き出せない香り。


 ——ここだ。


 火から下ろした。すぐに広い皿に移して冷ます。焙煎は余熱でも進む。一瞬の判断が明暗を分ける。


 指先で一粒つまみ、かじった。


 苦い——最初は。でもその奥に、ぐっと押し寄せてくる甘さと、鼻に抜ける芳醇な香り。辺境の黒胡桃にしか出せない、野生の深み。


 いける。


 次は、霜花蜜。


 父の批評が、耳の奥で鳴っている。「蜂蜜の投入タイミングが遅い」——あの男は、何も説明しなかった。ただ事実だけを、尊大な口調で突きつけた。


 だからリゼットが自分で考えた。


 これまでのフィナンシェでは、生地を混ぜ合わせた最後に霜花蜜を加えていた。焼成中に蜜の香りが飛ばないように——そう思って。


 でも違う。


 霜花蜜は加熱すると花の香りが立つ。それが霜花蜜の最大の特長だ。最後に加えて香りを閉じ込めるのではなく、最初に加えてバターと一緒に熱する。蜜の香りを生地全体に行き渡らせて、焼成で花開かせる。


 そうすれば——焼き上がった瞬間に、花の香りが窯から溢れる。


 悔しい。悔しいけれど——あの男の舌は、正しかった。




 フィナンシェが焼き上がった。


 窯の扉を開けた瞬間——ふわりと、甘い香りが厨房を満たした。


 霜花蜜の花の香り。黒胡桃の深い焙煎香。焦がしバターのこっくりとした甘さ。三つの香りが重なって、一つの波になって押し寄せてくる。


 型から外した。きつね色に焼けた表面。縁がかりっと立ち上がり、中央がふっくらと膨らんでいる。焼き色は——前の試作より、ほんの少しだけ濃い。


 指で押してみた。弾力がある。しっとりと指を押し返してくる。


 一つ手に取って、半分に割った。断面は——きめ細かく、薄い金色。黒胡桃の粒が生地の中に散らばって、琥珀のような模様を作っている。


 口に運んだ。


 ——違う。


 前のとは、明らかに違う。


 霜花蜜の甘さが、最初から舌の上に広がる。遅れて黒胡桃の香ばしさが追いかけてきて、バターのコクと溶け合って——口の中で、辺境の秋の山が広がるような。


 美味しい。


 自分で言うのも変だけれど——これは、美味しい。


 だが、まだ足りない。何かが足りない。予選で「素材が貧弱」と言われたのは、味だけの問題ではない。一品で審査員の心を掴みきれていない——そんな感覚が、胸の奥にわだかまっている。




 昼過ぎ。


 厨房の戸を叩く音がした。


 セドリックの重い足音ではない。もっと軽く、でもゆっくりとした——歩幅の狭い足音。


「ごめんください」


 穏やかな声だった。年配の男の声。聞き覚えは——ある。


 戸を開けると、そこに立っていたのは白髪の老人だった。


 背はさほど高くない。だが背筋が真っ直ぐで、体の中に一本の芯が通っているような佇まいをしている。深い皺の刻まれた顔。穏やかだが——目だけが、鋭い。職人の目だ。


 品評会の予選で、審査員席の端に座っていた人。リゼットの菓子を食べて、一瞬だけ——顔色を変えた人。


「あの……品評会の」


「ああ、覚えていてくれたかね」


 老人は穏やかに微笑んだ。


「ハインリヒ・ヴェーバー。昔、菓子師ギルドで師範をしていた者だよ。今は隠居の身だがね」


 師範——菓子師ギルドの最高位。リゼットは背筋を正した。


「リゼット・フォン・メルヴェーユです。わざわざお越しいただき——」


「単刀直入に言おう」


 ハインリヒの目が、穏やかなまま——真っ直ぐにリゼットを見た。


「君の菓子を、もう一度食べさせてもらえないかね」




 厨房に案内した。


 ハインリヒは椅子に腰を下ろし、厨房を見回した。王都の品評会に出る菓子師が使う厨房にしては——あまりにも質素な設えだ。宿の一角を借りた、小さな部屋。石窯が一台。作業台が一つ。


 だが、ハインリヒは何も言わなかった。厨房の広さではなく、作業台の上を見ていた。


 そこには、さっき焼き上がったばかりのフィナンシェが並んでいる。


「これは……改良版かね」


「はい。今朝焼いたばかりです。予選の時から——配合を変えました」


 リゼットは一つを小皿に載せて、ハインリヒの前に差し出した。


 老菓子師は皿を受け取り、まずフィナンシェを目で見た。色合い、膨らみ、表面の焼きムラ。それから鼻に近づけて、香りを嗅いだ。


 ゆっくりと——一口、齧った。


 咀嚼している。目を閉じている。


 長い、沈黙。


 リゼットは息を詰めて見ていた。師範格の菓子師が、自分の菓子を食べている。予選の時とは違う——改良した、今の自分の精一杯を。


 ハインリヒが、目を開けた。


「……この味は」


 声が——かすかに、震えていた。


「やはり」


「あの……」


「君は」


 老菓子師の目が——深い光を帯びた。懐かしさと、驚きと、それから何か別のものが混ざった、複雑な光。


「エレーヌ・メルヴェーユを知っているかね」


 心臓が——止まった。


 母の名。


 この人の口から、母の名が出た。


「……わたしの、母です」


 声が震えた。自分でも驚くほどに。


 ハインリヒは——深く、息を吐いた。長い長い息を。まるで何十年も胸に溜めていたものを、ようやく吐き出すように。


「そうか。やはり——そうか」


「母を……ご存じなのですか」


「四十年ほど前になる」


 ハインリヒの目が遠くなった。今ここではない、ずっと昔の景色を見ている目。


「私がまだ二級菓子師だった頃だ。メルヴェーユ伯爵家の茶会に呼ばれたことがあってね。まだ若い伯爵夫人が——客人たちに手作りの焼き菓子を振る舞っていた」


 母が。


 母が——菓子を。


「貴族の夫人が自ら菓子を焼くなど、当時は聞いたことがなかった。周囲は笑っていたよ。物好きな夫人だとね。だが私は——一口食べて、言葉を失った」


 ハインリヒの手が、フィナンシェの残りを握ったまま、かすかに震えていた。


「素朴な焼き菓子だった。砂糖も控えめで、飾りもない。街のパン屋でも作れそうな、何の変哲もないもの——に見えた。だが味が違った。素材の扱いが、他の誰とも違っていた」


「素材の……」


「蜂蜜のいちばん美味しい瞬間を知っている人の菓子だった。粉の混ぜ方、火の入れ方、全てが——素材に敬意を払っていた。私はあの時思ったよ。ああ、この人には才能がある。菓子師にならなかったのが惜しい——と」


 涙が——出そうだった。


 母は、菓子師ではなかった。伯爵夫人だった。でも厨房に立つことが好きで、リゼットにも——幼い頃から、一緒に菓子を焼いてくれた。


 その母の菓子を——この人は、食べていた。覚えていた。四十年も。


「君の菓子を食べた時」


 ハインリヒが、リゼットを見た。


「あの味がした。あの時の——エレーヌ殿の菓子と、同じ手触りがした。素材への敬意。素材が持つ力を、最後の一滴まで引き出そうとする意志。だから予選の時、驚いたのだよ」


「……母は」


 声が詰まった。


「母は、五年前に亡くなりました」


「そうか。……惜しい人を亡くしたね」


 静かな声だった。悼みの重さがある声。社交辞令ではない——本当に、母の菓子を惜しんでいる声。


「だが」


 ハインリヒが——フィナンシェの最後の一口を、噛みしめた。


「味は、受け継がれている」


 リゼットは——泣いた。


 堪えようとしたけれど、堪えられなかった。母の味を知っている人がいた。母が作る菓子を「才能がある」と言ってくれた人がいた。そして——その味が、自分の中に生きていると言ってくれた。


 エプロンの裾で目元を押さえて、嗚咽を噛み殺す。厨房に、しゃくりあげる音だけが響いた。


 ハインリヒは何も言わず、待っていた。菓子師が泣く理由を、この人は知っているのだろう。




 落ち着いてから——ハインリヒは、椅子に深く腰かけて言った。


「予選の講評、聞いたかね。『素材が貧弱』と」


「……はい」


「あの評価は間違っていない。王都の基準で言えば、君の素材は確かに貧弱だ」


 分かっている。それは——分かっている。


「だがね」


 老菓子師の目が、穏やかに細まった。


「素材の貧弱さを嘆くな」


「え……」


「その素材だからこそ出る味がある。君の母もそうだった。伯爵夫人が使える素材など、宮廷菓子師に比べれば限られていたものだよ。砂糖の量も、香辛料の種類も。だがエレーヌ殿は——手元にあるもので、他の誰にも出せない味を作った」


 母も——そうだったのか。


 高級素材がなくても。限られた中でも。


「辺境の素材には、辺境の力がある。寒さに耐えた木の実の硬さ。短い夏で凝縮されたりんごの酸味。冬の花から集めた蜜の透明さ——それは、王都の温室では絶対に生まれない力だ」


 ハインリヒが立ち上がった。


「老いぼれが出すぎた真似をした。だが——一つだけ、言わせてもらう」


 リゼットは背筋を正した。


「本選では、審査員の『基準』を変えてやりなさい。王都の物差しで測らせるな。君の菓子は、君の物差しで出すんだよ」


 深く頭を下げるリゼットに、ハインリヒは穏やかに手を振って——厨房を出ていった。




 夕方。


 リゼットは改良したフィナンシェを皿に盛って、宿の食堂に持っていった。


 セドリックは窓際の席にいた。いつものように腕を組んで、窓の外を見ている。王都に来てからのセドリックは、辺境にいた時より——少しだけ、肩に力が入っている。人の多い場所が得意ではないのだ。


「セドリック」


 呼称が、いつの間にか変わっていた。王都に来てから——「様」がいつのまにか取れた。セドリック自身は何も言わない。気にしていないのか、気づいていないのか。


「……何だ」


「試作品です。食べてもらえますか」


 皿を置いた。セドリックが——一瞬、フィナンシェを見つめた。


 手を伸ばし、一つ取って、口に運んだ。


 咀嚼が——遅い。


 リゼットの心臓が速くなる。咀嚼が遅い時は——味を感じている時だ。


「……前のより、いい」


 短い言葉。ぶっきらぼうな声。でも——的確だった。


「本当ですか? どこが良くなったと思いますか? 蜂蜜の投入タイミングを変えたんです。それと黒胡桃の焙煎温度を上げて、表面をもう少しだけ深く——」


「知らん」


 遮られた。


 いつものパターンだ。リゼットが菓子の話を始めると早口になって、セドリックが「知らん」で止める。


 でも——セドリックの口角が、ほんのかすかに上がっていた。呆れたような、でも嫌ではない顔。


「知らないじゃなくて、もう少し具体的に……」


「うまいか不味いかしか分からん。うまい。それだけだ」


「それだけ、って……」


 リゼットは——笑ってしまった。


 うまい。


 セドリックの「うまい」は、どんな審査員の講評よりも嬉しい。味覚を取り戻したあの人が、辺境の素材と一緒に過ごした冬を知っているあの人が——うまいと言ってくれた。


「ありがとうございます」


「……礼を言われることじゃない」


 セドリックは二つ目のフィナンシェに手を伸ばした。


 食べてくれている。黙って、二つ目を。


 それだけで——十分だった。




 夜。


 一人きりの厨房で、レシピ帳を開いた。


 今日の改良点を書き留める。黒胡桃の焙煎温度。霜花蜜の投入タイミング。焼成時間。すべてを数字にして、記録する。


 書きながら——ハインリヒの言葉が蘇る。


 「その素材だからこそ出る味がある」


 「本選では、審査員の基準を変えてやりなさい」


 改良したフィナンシェは——確かに良くなった。セドリックも「前のより、いい」と言ってくれた。父の批評も、老菓子師の助言も、全てが一つの菓子に注ぎ込まれて、確かに一段上がった。


 でも。


 リゼットはペンを止めた。


 一品で——辺境の全部を、見せられるだろうか。


 黒胡桃のフィナンシェは秋の山の味だ。でも辺境には、冬の森もある。春の果樹園もある。夏の野原もある。四季のそれぞれが育んだ素材が、それぞれの味を持っている。


 一つの菓子に詰め込めば、どうしても何かが犠牲になる。


 フィナンシェを見つめた。美味しい。自信がある。でも——これだけでは、辺境の「全部」は伝わらない。


 頭の中で、何かが引っかかった。


 一つの菓子では、辺境の全部は詰められない。


 でも、もし——


 一つでなければ。


 ペンが止まったまま、リゼットは天井を見上げた。まだ形にならない。言葉にもならない。でも——種のようなものが、胸の奥に落ちた気がした。


 窯の火が、赤く揺れている。


 明日も焼こう。明後日も。本選まで——まだ、時間はある。


 レシピ帳に、小さく書き足した。


『一品では足りない——?』


 疑問符つきの、たった一行。


 だが、その一行が——やがて、辺境の四季を一皿に載せる菓子へと育つことを、今のリゼットはまだ知らない。

老菓子師の「あの味は……」という反応、伏線です。リゼットが父の批評を参考にしながら改良していく過程、職人としての成長を丁寧に描きたかったです。黒胡桃のフィナンシェ、試作段階でもう美味しそうですよね。本選が楽しみです。

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