86粒目
羊の群れが見えたのは、当初の予定より数日遅れた日の夜だった。
男は、血と唾液の甘さを、
「同じくらいだな」
と答えた後に、すっと唐突に眠ってしまい。
「……?」
ここの所、荷台では特に、我が眠るまで見届けてくれることがほとんどだったのだけれど。
それでも、男の胸の中で、たまにはそんな日もあるかと眠りに就いた。
しかし翌朝。
「ぬぬ……?」
馬の小さな寝起きの呻きに目を覚ましたけれど、男は目覚めず。
「……起きぬの?」
緩く身体を揺すってみるも、起きない。
呼吸はしている。
「……」
『主様の血のせいでは』
起きていたらしい狸擬きが隣にぺたりと座り込む。
「の?」
そうなのか。
『主様の、唾液より遥かに密度の濃い血、あれだけの量でも生身の人間の身体には、負担がかかります』
迂闊だったか。
『いえ、奇跡のように優しい副作用かと思われます』
「ならいいけれど、いつ起きるのかの」
『それは私にも分かりかねます』
少しの間、男を眺めていたけれど、起きる様子はなく、普段の男に倣い、まずは馬の寝床の天幕から、馬を出して天幕を仕舞う。
馬は勝手に水を飲みに行ったり草を食むから楽でいい。
広げっぱなしの敷物の上で赤飯を炊き、マッチで石に火を点け、湯を沸かす。
「何だか久しいの」
狸擬きと2人きりの屋外での食事は。
『私はともかく、主様の食事が寂しくなりますね』
「そうの、でも朝はおにぎりだけでも珍しくないだろうの」
食べ終わっても男は起きず、敷物の上で狸擬きの背中の毛を梳いてやる。
『昨夜もでしたが、大変心地好きにございます』
『それは何よりの』
そよそよと流れる風。
馬の一頭がとんとんとこちらに跳ねて来たため、
「今日は休みの、遊んでおれの」
通じるか分からないけれどそう声を掛けると、通じたのか、またとんとんと跳ねて行き、もう1匹とどこかへ駆けていく。
「お主もそこいらへ走ってきても良いの?」
隣で横たわる狸擬きにも声を掛けたけれど。
「いえ、ここにいます」
と動かない。
たまに荷台を覗いてみるも、男は微動だにしない。
狸擬きを枕にして、しばらく空を見上げたり、笹舟には向かない草原の葉で何とか舟を作り、川に浮かべてみたり。
狸擬きに、手遊びのアルプス一万尺を教えて遊んでみたり。
歌は知っていたけれど、今まで相手がいなかったのだ。
狸擬きが歌と動きを気に入り、手の平に当たる肉球が柔く、触れる感触が楽しい。
一番楽しいはずの小豆洗いは、いまいち身が入らず。
「折り紙でも教えようの?」
隣でじっとしている狸擬きを振り返るけれど。
『あまりにあの男が起きないようでしたら、私が先に向かい、狼たちに遅れる旨を伝えます』
そんな言葉が返ってきた。
「……あぁ、そうの、お願いするの」
男が故郷へ帰った時より、あの時遥かにあるもどかしさと、1人の時はとんと感じることのなかった、また現れる「後悔」と言う感情。
「やはり、もう少し考えるべきだったかの」
膝を抱えると、
『あの男は、主様と時を共に過ごすことを望んでいました』
「……」
『これから永遠とも言える時を過ごすと考えれば、あの男が寝ている時間など、ほんの毛の先にも過ぎません』
「……」
『北の方へ行ってみませんか』
「……ぬ?」
北?
『あの男には置き手紙でも書けばいいかと。周りの気配を探りましたが、人の気配、大型の動物の気配共になく、快晴が続き、風も当分は穏やか。馬もいます、彼らの忠誠心はほどほどですが、何かあったら困るのは自分たちですから、何かしらの対応をしてくるでしょう』
北の方は確かに気になっていたけれど、アイスクリームの存在に、北のことなど、とうに頭からすっぽ抜けていた。
「背に乗せてくれるかの?」
『私が奇跡的にあなた様に選ばれたのも、あなた様を乗せられる大きさとして、適切だったからなのでしょう』
荷台へ向かい、男の横に、
「北へ行ってくる、すぐに戻る」
と書いた紙を置いて、狸擬きの背に乗ると。
「飛ばします」
言葉と共に、一瞬息が止まる程の勢いで、草原を駆け抜けていく。
「おおお……」
速さだけでなく、持久力も他の獣たちの追従を許さない。
さすが、
(擬き、よの……)
この世界はらこの草原しかないのではと錯覚するほどの広さも、狸擬きの足では、それでも小半時だろうか。
「のの……?」
狸擬きが速度を緩めたのは、段々と草がまだらになり始め、地肌が剥き出しの地面が広がり。
「荒野の……」
先はやがてゴツゴツした崖と、遥か崖下は濁った黄土色の濁流が見えた。
ゴロゴロした岩も転がり、木も見るからに細く乾いている。
『主様』
狸擬きの声に顔を上げると、濁流の流れる向こう側の崖の、僅かな出っ張りに、鹿のような、鹿に長い毛を生やしたような生き物が、崖に添うように立ち、こちらを見ていた。
「おや、勇ましいの」
その生き物のいる崖の上は見上げても、高過ぎて何も見えない。
そして、いつの間にか、どこに隠れていたのか、我らを獲物と認識してやってきた、毛色が少し赤茶けた、小さな、とは言っても、犬でいう中型程度の狼たちが均等に我らを囲んだ。
濁流を背に、退路を防ぐように。
小柄故群れの数も多め。
「……」
しかし。
そう。
我は、あの道徳心高き狼たちを見習おうと思うのだ。
「無駄な殺生は良くないの」
胸を張ってみる。
『……明日は雨どころか、槍でも降るのでしょうか』
「ふぬ。では見せしめにまずはお主からの」
『冗談でございます』
そう言えば。
「お主は強いのかの?」
『逃げることしか脳がありません』
聞くまでもなかった。
このまま狸擬きの走りで逃げても良いけれど。
「の、こやつらの毛皮は使えるのの?」
『色が若干貴重かもしれません。が、何分知識不足で……』
なぜこの狸擬きは、言葉を話す時だけは、こう謙虚なのだろう。
「ふぬ。ならば、解体と毛を剥ぐ練習がてら狩るかの」
あの賢い狼たちを見習いはしたいけれど、こちらは明らかな敵意を向けられ、獲物として見られているのだ。
我等も、やはりそれには、相応の気持ちで応えなくては失礼ではないか。
ここの世界の生き物を剥ぐ時に「なめし」とやらが必要ない。
乾かしてから、男が持っていた何か油の様な何か塗ればしばらく加工いらずのはず。
赤茶狼たちは、ジリジリと迫って来ていたけれど、我の、
「狩るか」
の一言で、ピリッと緊張が走っている。
言葉ではなく、こちらからの殺気を感じたからだろう。
「すまぬの」
一応謝ってから、手の平の小豆を、1粒ずつ狼の額に貫通させていく。
小さな呻きと共に、バタリバタリと周りの仲間が倒れていく姿に、
「……」
残された狼たちは、あからさまに狼狽え、そして微動だにしない我と狸擬きを凝視してから、ズッと地面を擦る様に足を引き、真ん中の狼から背中を向けて、パッと散っていく。
酷く忌々しそうな視線を残して。
「ふぬ」
少しでも毛並みのいいものを選別し、両手に狼の足を1本ずつ、数体分持ち、計6体。
残りは、逃げた狼たちの餌として残してやろう。
狸擬きに捕まるのが両足だけになるため。
「少しゆっくり目に頼むの」
「承知しました」
狼たちの毛を引き摺らないように両手を上げて、狸擬きの胴を両足で挟むと、狸擬きが先程よりもゆっくりと走り出す。
だいぶ先の気配を探っても、男が起きた様子はない。
(眠れる草原の王子様、の)
我を乗せてすったかすったか草原を駆ける狸擬きは楽しそうだ。
徐々に、遠くに点のような荷台が見えてきた。
あぁ。
やはり。
(あれは、我にとって)
大事な家の。
食事処が外だろうと、屋根も壁も布だとしても。
荷台の前の敷物の手前で狸擬きは止まり、
「どんな時でも、我と共にいてくれるお主に感謝するの」
言葉を掛けてから、狼を地面に落とし降りる。
『勿体なきお言葉』
荷台へよじ登り、全く起きない男の頬を撫で。
解体道具の入った箱からナイフや研ぎ石、その他もろもろを取り出しては、下にいる狸擬きに渡し、狼たちを川の方へ引き摺っていく。
「お主もやるのの?」
『お手伝い致します』
巫女装束を汚さないため、キャミソールとかぼちゃパンツ姿になると、
「ふん、ふん」
解体を始める。
ザクり、ザクりと腹を切り裂く。
「我の着るものはまだ乾かせるから良いがの、お主は川に浸かるなの」
『はい』
狼たちの内蔵はまだほんの少し温かい。
「……の」
『なんでしょう』
「今まで一緒にいて、我が魔法を授かれると思うことはあったかの?」
狸擬きは、我の問いかけに、しばらく空を眺めてから。
『主様のその強き腕のお力で、摩擦での火を起こしたり』
「……ぬ?」
『大きな扇的な物で、強い風を起こすことは、充分可能かと』
では。
「……氷は?」
『その冷たく醒められた眼差しで、大概の人や獣なら固まらせる事なら、余裕かと』
「……お主の」
ナイフを草むらに落とすと、
『じ、冗談でごさいますっ』
狸擬きはぴゃっとその場で飛び上がり。
「冗談とは笑えるものを言うのだのっ!」
贓物を放り投げ狸擬きに飛びかかろうとしたけれど。
血塗れの贓物を片手にした我の姿に、ヒュンッと距離を取り、
『解体は時間が早さが命です、主様っ!』
「……ふんっ」
渋々、落としたナイフを手にする。
「……男の、あの食べ物の劣化を凍らせずに遅くする魔法は、我のいた国でもなかったの」
『そうなのですか?』
「研究はしていたと思うけれどの」
『話を聞く限り、文明は若干進んでいるかに思えましたが』
「そうの、でも全部ではないし、以前も話したけれども、人に関しては、こちらの人間の方が魔法も使えるし、心の持ちようも遥かに賢く、人として優れているの」
魔法が使える理由と関係も、そこにありそうな気がする。
『……』
臭い肉と内蔵は、穴を掘って埋めた。
「ふぬ、やはり結構掛かったの。昼も抜いているし、早めに食事にするかの」
『男の目覚めを待たなくて良いのですか?』
狸擬きが、スンと荷台に鼻先を向けるも。
「……今日は起きない気がするの」
ただの勘だけれど。
それに。
『雨ですか……』
狸擬きが鼻をひくつかせる。
遠くから微かに雨の匂い。
「外に出しているものを片付けないといけないからの」
夜の早い時間に少し降りそうだ。
狸擬きに多めにおにぎりを握り、お茶を飲む。
男は眠ったまま。
「男のあの保存魔法は、どの程度保つのだろうの」
場合によっては使いきらなければ腐り始めてしまう。
『しばらくは保つと思いますが、……あの男もそこまでは眠り続けないと思います』
「の?獣の勘の?」
『主様に忠誠を誓った従者が、主様を置いて、おちおち眠り続けているとは思えません』
ふぬ。
片付けをして、荷台へ上がり、寝ている男の隣で、狸擬きとお絵描きに勤しみ、紙で簡単な蛙を折って、跳ねさせて距離を競ってみたり。
雨が降り出してくると、
「雨は眠いの……」
狸擬きの敷物を敷いてやり、男の隣に寄り添うと、狸擬きも背中に背中をほわりと押し付けてきた。
灯りが消され。
(早く起きるといいの……)
そう願いながら、睡魔に身体を委ねた。




