85粒目
「我のいた国では、煙草は、獣避けや化け狸から逃れるための道具としても、好まれていたの」
『化け狸?』
少年狼が首を傾げ、狸擬きも、自分のことかとこちらを見てくる。
「獣避けは名の通りの。後は山には化け狸がいての、山で同じ場所をぐるぐると何度も歩かせたり、人の姿に化けて、なんぞ人を唆してみたりの」
『おぉ、獣がそんな力を持つことに驚きます』
『それは、その「ばけだぬき」とやらの固有の力なのですか?』
興味津々の。
「いや、騙すのは狐もいるの」
(あぁ、むじな、奴もいたの)
『キツネ?』
『きつね……?』
「フーン?」
の?
「狐はおらぬのか?」
黙って煙草を吹かしていた男に訊ねると、
「俺も、キツネ、は聞いたことがないな」
「なんと……」
確かに、山でも里でも見たことはなかった。
ついでに、猫と犬も存在しないと知り。
「ののぅ……」
(本当に、全く見知らぬ土地に来たのの……)
姿が見えないとは思っていたが、存在しないとは。
我の拙い絵ではろくに伝わらず、今度、男に絵の勉強を頼もうと決意しつつ、穏やかなお茶の時間は終わった。
陽が長く、陽が暮れるまで、思ったより距離を稼げた。
少し路を外れるけれど、少し大きな川があると教えられ、水の音が聞こえる頃には、陽が落ちる時間。
夜目の利く我と、狸擬き、狼たちで、浅瀬の岩影に潜む魚を網と素手で追い込んでは獲り。
『毎食、申し訳ない』
『申し訳ないです』
「何を言う、大事な道案内の正当な礼の。それにもう僅かで村に着くのだから問題ないの」
男の過保護で、2人と1匹にはもて余すほどの食材を詰んでいるのだ。
(まぁ)
甘味に関しては、もて余すほどの量があっても、大歓迎なのだけれど。
鹿の大きな塊肉を、また重い鍋で蒸し焼き、細かく刻んだ水分の多い野菜をフライパンに敷き、腹を捌いた魚を乗せてこちらも蒸し上げる。
二度目の炊飯器の炊き上がりに合わせて魚は火を掛けたため、魚に火が通り過ぎることもなく。
『私たちは、少し冷めたものの方が得意なため』
「ほうほう」
先に炊き上げた赤飯を半分にして、また大きく握ったものを狼たちの前へ。
狼たちには鹿の塊肉を、我等は塊を薄切りにしたもの、それに魚と魚の旨味を吸った野菜、赤飯おにぎり。
(ぬぅ、やはり鹿も大変に美味の……)
川魚も旨味が強い。
狼たちは、自分達の居る場所で鹿は狩らないため、初めて食べますと齧り付き、美味しい美味しいと大興奮で食べていた。
食後は夜の川で、ランタンを脇に置き、
「あーずき洗おか、鹿肉食ーべよーか♪」
しゃきしゃきしゃき
しゃきしゃきしゃき
「あーずき洗おか、おー魚食ーべよーか♪」
しゃきしゃきしゃき
しゃきしゃきしゃき
ふふん、ふふん♪
ふふん、ふふん♪
楽しく小豆洗い。
狼と狸擬きは、馬車の近くに灯りはあるとはいえ、ほぼ暗闇の中で、狭めの川幅部分を飛び越える遊びをしている。
小豆を脇に置いていた袋に詰めて仕舞い、隣でやはり煙草を吹かす男に、
「抱っこの」
両手を伸ばすと。
「おいで」
男が腕を伸ばしてきた時。
不意に、
バシャーンッ!
と夜の草原に響く水音。
「おっ!?」
「のっ?」
なんぞと振り返ると、
「……フーン」
暗がりの中、川を越えきれなかった狸擬きが、川の浅瀬で耳と尻尾を倒してこちらを見てきた。
「お主の……」
なぜその短い足で、助走もなく狼たちと同じ川幅を越えられると思ったのか。
トボトボとやってくる狸擬きに、なんとも言えぬ顔をして付いてくる狼2頭。
「すまぬ、狸擬きを乾かして貰えぬかの」
抱っこを諦めて男に頼むと、
「あぁ、先に拭こうか」
男が荷台へ駆けていく。
「……フーン」
『その、申し訳ない』
『ごめんなさい、楽しくてつい』
「あぁよいの、こやつのなぜか無駄にある自信のせいの」
(客観性がないのか?いや、獣に客観性を求めることがそもそも間違っているのか?)
男が布を首から下げてきたけれど、片手には石鹸。
「ちょうどいいから、ついでに洗おう」
狸擬きはその場で飛び上がり、しかしさすがに文句は言わずに腕まくりした男に、川でごしごしと洗われている。
それを少し離れた敷物の上で眺めながら、
「お主たちも、洗われるのは苦手の?」
隣に並んで腰を下ろす2頭に訊ねてみる。
『生まれてからずっと人の手で育てられて来たので、そこまでは』
『僕もです、ただ山の獣は、石鹸の匂い自体を嫌がります』
「ほほぉ」
狸擬きもそうなのであろうか。
最近はあまり嫌がる素振りは見せないけれど。
反射的に飛び上がるのは、もう本能に近いものなのだろう。
空にはまた、めるへんなパステルカラーの星空が浮かび、仰向けに寝転がり眺めていると。
『……その』
「の?」
『頼みがあります』
青年狼が改まった声を出した。
「ぬぬ?」
と、とりあえずはすっとぼけてみたものの。
「……」
2頭が働く、村の休暇の時間は、きっととうに過ぎているはずなのに、我等と行動を共にしている。
何かあるのだろうとは思ってはいたけれど。
「我に出来ることならばの」
道案内の礼もある。
この海とすら形容できる草原を迷わずに済んだのは、あのタイミングで現れてくれた、この狼たちのお陰だ。
『……村の人間に、我等は見合い、その、繁殖はしたくないと伝えてほしいのです』
そう言えば、大爪鳥も時期が来れば見合い相手が来ると、どこだったかで聞いた気がする。
『村には育てて貰った恩義はありますが、我等は子孫は残したくないんです』
「おやの」
『正確には、残せないので……』
少年狼のもぞもぞとした言葉に、大層鈍ちんな我でも、さすがに察した。
青年狼の方はすでに、同じ狼舎の、血の遠い狼の雌にも靡かないため、何度か見合いがあり、その度に拒否していたものの、その度に好みの相手ではないのだろうと判断され。
無理強いなどはされないものの、最近は、少年狼の方も年頃になってきため、ならばついでにと、また見合いの話が出ているのだと言う。
「それをこちらが伝えることで、お主等が村を追い出されたりはしないのの?」
『仕事ぶりは認められていますので。それでも、伝わらなければ、2匹で、村から旅立つことも考えています』
身体を起こすと、薄暗がりの中、男が泡まみれの狸擬きに、掬った桶で水を掛けている。
「ふぬん」
『正確には、考えていたのです。昔から、ふっと消えてしまう者たちは、人も獣も変わらず、稀にいるとは、聞いていましたので』
「ぬん」
そういうこともあろう。
『けれど、人と話が出来るあなた様なら』
「のの、それは誤解の」
狼の言葉を止める。
男を通してしか無理だとは伝えたが、それでも構わないと2頭は頷く。
それならば。
「了解したの。男に伝えるの」
『感謝します』
『ありがとうございます』
けれど。
「の、もう夜だけれどの。取り急ぎ、先に村へ戻れの。村の者たちは、きっとお主等を心配しているの」
狼たちはしっかり夜目が利くこと、夜通し程度なら、走り抜けられる体力があることも知っている。
ずっと、今でも微かに神経の一部を尖らせていることも。
移動中の荷台では、2頭で真剣に何かを話し合っていた。
『……しかし』
「我等なら大丈夫の。目印となる山も見えているし、どんなにのんびりしても、もう2日もしないうちに到着する。お主等が村から旅立つかもしれないなら尚更、今、余計に印象を悪くすることもなかろうの」
ぐっと詰まる青年狼に対し、
『そのとおりですね』
立ち上がったのは少年狼。
『それに、鳥たちが心配して探しに来てしまうかもしれませんから』
その言葉に、
『そうだな』
青年狼も立ち上がると、
『我等をそれを受け入れてくれたこと、先に戻ること、心からの礼とお詫び申す、そして改めて、村で礼をさせて欲しい』
ぴたりと寄り添う2頭。
「構わぬの、男とたぬぞうには伝えておくの」
はよの、と促せば、
『村で必ず』
『後程』
2頭がたっと暗闇を抜けて一瞬で消えていくと。
「どうした?」
男と、濡れた毛が重そうな狸擬きがモタモタとやってきたため、事情を話すと。
「んー……そうか」
男が片手で狸擬きの毛を乾かしながら、片手で煙草に火を点ける。
男も大概に、
(器用に魔法を扱うの)
しかし。
「こちらでも、同性同士というのは少数なのの?」
「多くはないけれど、特にタブーでもないはずだけどな」
「ぬの?」
そうなのか。
「でも、そうだな、話を聞く限り、そこまで小さな村でもないのかもしれない。村を支えていくために、狼たちも、子は多少は成せた方がいいのかもしれない」
「ふぬ」
にしても。
「すまぬ、お主には何だか面倒な役割を押し付けてしまうことになったの」
「ん?そんなとこはない」
大変にデリケートな話題故、
「そんなことはない」
では済まないと思うのだが。
「俺が知る限りは、割りとどんな人間でも場所でも、獣も含め、個人を尊重している。だから君を通じての俺の伝える言葉が届かなければ、あの2頭が村から出ていくのには、村の方がおかしいと言う、十分な理由があることになる」
狸擬きを乾かし終えた男は、咥え煙草で、
「おいで」
我を抱き上げてくれる。
(ぬぬん)
では。
「人の営みに、大きな禁忌はないのの?」
我の問いに、
「……多少は、あるな」
「例えばの?」
「んん、そうだな」
珍しく歯切れが悪く、煙草を外すと、腰ポケットの小さな吸殻入れに落として蓋を閉めると、
「その」
「の」
「……君のような小さな子に」
「ふぬ」
「……良からぬ気を持つことだ」
頭を抱かれて囁かれた。
「ほほう」
それはそれは。
「お主は、どうなのの?」
楽しくなって男の首にしがみつき、頬を首許に擦り寄せれば、
「君の唾液を切望している時点で、とっくに地獄行きだ」
今までより、更に低い声で囁かれた。
それはそれは。
「ならば、我もとことん付き合うの」
その地獄とやらに。
「……そんな事を言われたら、歯止めが利かなくなる」
息を吐かれ空を仰がれたが。
「歯止めが利く程度の抑制など、鼻先で一笑して終わりの」
それに。
「誰が止めると言う?」
このまさに手を伸ばせば暗闇の、草原の中。
狸擬きはいつの間にか手にしていた、獣用の櫛でせっせこと腹の毛を梳いている。
おや、自らとは。
いつの間にお洒落に目覚めたのか。
狼たちの毛並みを見て、影響されたのだろうか。
「……俺は、君と共にいたい」
男の言葉に、意識を男に戻す。
「ふぬ」
それはまぁ何となくは解る。
「……この先もだ」
「……」
それは。
「お主が我に愛想を尽かさない限りは、一緒にいるの」
人の心はいつでも揺れている。
「いや、君が生きている時間を全て共にしたい」
それはまた、なんとも大きくでたの。
笑って見せようとしたけれど。
「君を想いながら、寿命で消えていく身勝手はしたくないんだ」
「……ぬ」
それは、人と、そうでない者の宿命だと、そう言ってしまうのは、きっと、ずっと考えていたであろう男に対して、あまりにも薄っぺらな言葉でしかなく。
「この世界にも、我のような長命種は存在するのの?」
「あまり聞いたことはないな。ただもっと遠い、まだ行ったことのない場所になら、もしかしたら、いるのかもしれない」
あぁ。
そうか。
(そうの……)
男が、我を故郷に連れていかなかった、最後まで迷っていた理由の1つが、今更理解できた。
一切の成長を見せない我を、迂闊に家族に会わせるわけにはいかないのだ。
行ったり来たりの行商人ではなく、男が、流浪の行商人となったもの。
(あぁ……)
本当の意味で、やっと理解できた気がする。
男の、我への人生を捧げる忠誠心は、まこと、疑い様のないもの。
「……ふぬん」
そして我ながら、自分の鈍さには恐れ入る。
「……」
親指を口に含み、指の腹に犬歯を僅かに食い込ませれば、柔く温い皮膚に、ぷつりと穴が空き。
「待て、何をしてる?」
目を見開いた男の慌てた声に、
「痛みは僅かにも感じないの、ほれ、すぐに止まる」
親指の腹に赤い球が浮かび、
「唾液よりも効果は強いだろうからの、続けていれば、やがてお主の身体に血が混じり、肉に骨にと絡んでいくかもしれぬの」
男の唇には運ばずに男の意思に任せたが、男は躊躇いなく我の手首に指を添えて、躊躇いなく舌を這わせ、静かに指の腹に吸い付き。
「……」
その伏せがちな瞳にあるのは、ただ、歓喜の色のみ。
「美味の?」
男に訊ねると、
「そうだな、……せいぜい器一杯に飲み干したい程度かな」
ちらと眉を上げて肩を竦められるその言葉に。
「あっはっ!」
声を上げて笑ってしまった。
男が唇を離すと、まだ血は滲んでいる。
(……ふぬ)
男に、血が止まるまで舐められ吸われているうちに、傷は塞がった。
「お主が我といたいと思う限り、たまに吸えばいいし、思わなくなったら、止めればいいの」
もし本当に力があるならば、男が、今以上に若くなることはないけれど、これ以上年を取ることはない。
男は、
「飲みたくはある。でも、君の身体を易々と傷付けたくはない」
少し困った顔で笑う。
「ふぬん。ではやはり唾液かの。我は年頃の女の身体には到底満たぬため、月のものも流れぬしの」
雨の気配はないため、敷物などはそのままに荷台へ上がり、背中を向けて身体を拭き、寝巻きに着替えると、背中を向けたままの男の背中を拭く。
「気持ちいいよ」
「それはよきの」
同じく荷台に上がってきた狸擬きが、前足後ろ足で櫛を持ち、必死に背中の毛を梳かそうとしているため、
「背中は我が梳いてやるから、少し待つの」
男が寝巻きを身に付け、布団を敷いている間に毛を梳かしてやる。
「暖かくなってきても、お主も毛はやはり抜けないの」
「……?」
他の獣はそれぞれだけれど、狸擬きに限っては、毛の生え代わりの概念がないと言う。
一年中、ほぼ毛の量も変わらぬと。
「ほほぅ、雑な作りの」
「……!?」
四つ足を振り回しながら、それは主様も同じではないか、とプンスコ憤慨する狸擬きは放っておき、男に髪を梳かしてもらう。
体液と言えば涙もあるけれど、我は泣いたことがない。
鼻水は、雪山で雪遊びをしている時に、男に鼻をかませてもらった記憶はあるものの。
あまり積極的に舐めさせ、吸わせたいものでもない。
「君は汗も掻かないな」
「そうの」
汗も掻いたことはない。
けれど、人の食事をするようになってから、温い汁物を食べた時などは、若干じわりと、何か滲み出る様な感覚はある。
「それは、舐めてもいいのか?」
「くふふ、汗を掻いたらの」
「唐辛子を手に入れないと」
「お主は幼子に何を食わせようとしておる」
「んん?……冗談だ」
「間があったの」
第一、辛いものは苦手である。
クスクス笑いながら布団に横たわると、狸擬きも敷物の上にごろりと横になるけれど、狼たちがいないせいで隙間ができたせいか、左右に転がりつつ、
「?」
首を傾げている。
布団を掛けられ、男と向かい合い、小指を指に咥えると、
「君の体液はどうして、血すら甘い?」
引き抜いた先から手首を取られ、咥えられ、
「我は血も甘いのの?」
「噛み付いて啜りたい程度には」
ほぅ。
「らしくなく狂暴の」
「知ってしまったからな」
「唾液より美味の?」
「同じくらいだな」
ふぬ。
狸擬きの言う、
「我は獣にとって美味しそうに見える」
の意味が、今、少しだけ、解った気がする。




