44粒目
ふと男の身動ぎで目が覚め、男も目を覚ました。
そんな男は、我を見て、すぐに笑い掛けてくれるけれど。
(ふぬ……)
「我のせいで、余計な手間を掛けているなら申し訳ないの」
気の抜けない雪山の移動から熊の解体。
狸擬き曰く、我のせいで熊がつられてやって来たらしい。
やはり疲れないわけがなく、男は現にこうして気絶するように眠っていた。
けれど、男は穏やかな笑みを浮かべたまま、
「いや、君のお陰で楽しいことばかりだ」
男の片手が我の髪を背中に流し、そのまま指先が顎に触れ、唇をなぞられる。
くすぐったくて唇をきゅっと閉じると、
「……君は」
男は、我に何か問いかけようとしたけれど。
「……」
瞬きをせずに、じっと男を見つめ返すと、互いの瞳に映る自分達がしっかり見える程の沈黙の後。
「いや……」
もう少しだけ、休もうかと、男の胸の中に抱かれる。
「の……」
男の問いたいことはなんとなく分かった。
「君は、何者なのか」
と。
敷物の上でまだ寝ていると思った狸擬きが、またらしくなく神経を尖らせているのが、気配で伝わってきた。
今度は、熊へではなく、男に対してのもの。
男が、我の心を傷付けまいかと、危惧しているのだろう。
(あぁ、大丈夫の……)
我に寄り添う、優しき獣。
この世は浮き世、我は限りなく常世に近き者。
(そうの……)
我が思うより、男との別れは、あっという間なのかもしれない。
小屋には2泊し、少し空が晴れ間を見せた昼間には、男に抱かれてその辺を散策してみたり、雪だるまを作ってみたり。
手の冷たさは鈍くとも感じるけれど、手の平が紅葉になると、男が我の手を持ち、ハーッと息を吹き掛けてくれる。
馬たちが散歩をしたいとそわそわしているため、あの大熊がいなくなった山ではあるし、狸擬きも大丈夫だと言うため、馬を自由にさせ、散策をさせたり。
朝も昼も夜も熊の肉づくしだけれども、男の調理が美味いため飽きることもなく、
「美味、美味の」
食べきってはまた外へ。
かくれんぼしても、なぜかすぐに見付かる。
「なぜの?」
むくれて見せても、男は笑って答えない。
狸擬きにもすぐに見付かる。
おやつは、男が煮詰めた果肉の大きなジャムを一匙、二匙、口に運ばれる。
狸擬きは、2日目には割りと遠くまで雪山を走り、先の道に問題ないと巡回の報告をしてくれた。
出発の朝、たっぷり朝食を食べてから馬車に乗せられると、狸擬きは、荷台へ飛び乗っている。
ひたすら寝ているだけと思ったけれど、どうやら、たまに起きては折り紙たちを飽きることなく眺めているらしい。
馬を走らせながら、不意に、厚手の手袋をした指の背で、我の頭を撫でてくる男を見上げると、男は前を向いたまま、
「以前、まだ行ったことないこの世界を、君と見たいと言ったけれど」
手綱を握り直す。
「の」
確かに聞いたの。
「気持ちは変わらない」
「……」
前前日の、あの時の気持ちを、どうやら読まれていたようだ。
(この男は、人の男の割りに大層鋭いからの)
「確かに、たまに驚いたりはしてしまうけれど、それは決して、君に対する恐怖や、忌諱ではない」
風もなく穏やかな山の中。
「まだ知らないものに対しての、その世界の広さに、気持ちが追い付かない、その一瞬の反応なだけで、受け入れがたさとは全く違うものだ」
「の……」
なんとも。
狸擬きだけでなく、この男も大概に、
(お人好しよの……)
大きく息を吐き、目を伏せて、解ったと頷きかけたけれど。
男は続けて、
「だから、俺の隣から、決していなくならないで欲しい」
低く真剣な声色に。
「……ぬ?」
自分が、ここまで動揺というものをするとは思わなかった。
男は鋭いどころか、獣の心が読めるのか。
(……ぬぬ)
いや、もしや、また我をからかっているのかと男を見ると、しかし男は笑いもせずに、こちらを見ていた。
薄墨色の瞳で。
真っ直ぐな眼差しで。
「……」
我は。
「……の」
その眼差しの強さに、ただの1文字で返事をするしかなく。
それでも男は、
「約束だ」
と身体を傾け、我の目尻に、唇をそっと触れさせて離れていく。
(約束……)
約束。
記憶にある限り、約束と言うものを、初めてする。
「約束」
自分達を結ぶ、縛る、ある意味呪いの言霊。
それが、どうしてか今は、とかく甘く感じる。
それは、
「秘密」
に通じる、心の甘味。
今日のことは、特に、記憶の大事な場所に置いておこう。
空気の冷たさ、景色、白い吐息と共に。
決して消えない、大事な記憶として。




