36粒目
夕刻。
今日は釣りの必要はないと男に言われ、そう言えば朝に何かしていたなと思い出す。
鹿肉は骨付き肉をシンプルに焼いたもの。
それと蒸し野菜に、荷台から、冷えた金属のボールごと出してきたものは。
「魚をマリネ液で浸したもの」
と男は書いて見せてきた。
「まりね」
名前は知っている。
確か、油や酢、香草の酢漬けだったか。
魚が捌かれ、薄く切られたものがそのマリネ液に浸けられ、今は男の手で皿に盛られている。
それに赤飯おにぎりと、今日は具の少なめの色の澄んだ金色のスープ。
「今日も美味しそうの」
「……」
狸擬きは野生のくせに見た目が生魚だからか、懐疑的な顔をしながら首を傾げていたけれど、一切れ食べると、
「♪」
前足でフォークを伸ばしている。
我も、あむりと口に含めば。
酸味と甘味と油と、柔らかい生魚の舌触り。
「ぬん、これも、とても美味の」
好きなものが、どんどん増えていく。
鹿肉も、
(ほぅほぅ、思ったより癖もなく淡白の)
我の中で、
「鹿は美味、見つけたら狩るもの」
と認識が変わる。
狸擬きも、これからは鹿を見掛けたら肉としてカウントするだろう。
骨付き肉を掴みベタベタの手を、男が拭いてくれる。
狸擬きは器用に食べ、爪と肉球はともかく、口周りは汚れがない。
対して我は、男が伸ばしてきた手で口許を拭われ、
「……ぬ」
狸擬きのフフンと澄ました顔が少し悔しい。
食事は天幕も張らず夜は水辺で冷えるため、早々と荷台へ上がる。
昼間は自由にさせている馬も、暗くなる前には自発的に戻り、設置している天幕へ入っていく。
サワサワだったり、ざぁざぁと流れる川と違い、ちゃぷちゃぷと音を立てる湖は、乗ったことのない、お船に乗っている錯覚。
夜行性の獣たちが動き始め、それを尻目に、我は男の胸に抱かれて眠る、湖畔の夜。
「ふぬぬぬぬ……っ」
「……っ!……っ!」
顔が認識出来ぬ速さでイヤイヤをする狸擬きの毛を、毟る勢いで引っ張って、何とか水辺へ引き摺ろうとしていると、双方の滑稽な姿に男が笑いを堪えながら、
「街の前に大きな風呂屋がある。そこで洗えばいい」
と仲裁に入ってきた。
男の声がはっきり聞こえる。
「お主はっ、狸擬きにっ、甘いのっ」
四つ足で踏ん張る狸擬きが、男に対して、
「フーン、フーン」
と悲しげに鼻を鳴らす。
こやつ、とうとう男にまで媚び始めよった。
「俺は君ほど鼻が良くない、まだ少し土の臭いがするだけだ」
まだ?少し?
「こやつそのものが、すでに森そのもののっ」
枯れ葉も絡まっているし、まさに「叩けば埃が出る」だ。
一瞬の隙をついて狸擬きは我から逃れると、そそくさと男の後ろに隠れる。
「ぬっ。……風呂場では『3回洗いコース』だからの」
「……」
不服そうに、ない眉を寄せられても知るか。
「ほら、果物を採りに行こう」
宥めるように抱き上げられて、渋々男にしがみつくと、
「あぁ、今朝はまだ髪を梳かせてないな」
歩きながら髪を指で梳かれる。
そうだった。
一頭の馬が珍しく早朝から水を飲みたかったのか、天幕の中から出てこようとし、身体のどこかに天幕の一部を引っ掛けたらしく、天幕の棒が弛み、それがもう一頭に当たり、その音と馬の鳴き声で起こされたのだ。
若干すまなさそうに水を飲みに行く2頭を見送り、天幕を直すと、そのまま狸擬きまで腹が減ったと催促して来たため、着替えて、今朝も目一杯の魚で朝食にしたのだ。
「我の髪は、絡まっておるかの?」
「いや、綺麗なものだなと。……黒く見えるけれど濃い緑色が重なる」
「烏の濡れ羽色、などとも言うらしいの」
「からす?」
「ぬ?この国にはおらんのかの?」
「髪色からして黒い鳥か」
「そうの」
「見たことがないな……」
「ほほぅの」
黒い鳥自体が存在しないらしい。
そう言えばあの青のミルラーマでも一度も見掛けたことがない。
記憶を手繰っていると、不意に男が立ち止まり、
「戻ったら梳かそう」
そう低い声で囁かれ、
「……ふっ」
「ん?」
「……ぬん」
言葉と言うのは、鼓膜の振動と共に、強く感情を揺さぶるものなのだのと思い知らされる。
相手が意図せずとしても。
「お主は、声も良いの」
なぜか落ち着かず足をぶんぶん振ってしまう。
「君好みの声か?」
「の?……ううん、どうだろうの……」
純粋に好みなのかは分からぬ。
ただ。
「お主の声だから好きの」
これは言える。
「……」
「なぜ黙る?」
「……いや」
「なぜ空を見る?」
「その、……木の実が、ないかと」
そうなのか。
木の実をもいだけれど、日持ちのするものは、そろそろもう荷台の在庫も飽和状態になりつつある。
人には価値のある石のありそうな水辺をほじくり返しては、
「ぬふー♪」
甘味貯金が貯まっていく。
狸擬きは、飽きもせずに森を散策し、一周してきたと、楽しそうに報告してくれる。
身体を枯れ葉まみれにしながら。
「一度街まで出たら、またここに戻ろうか」
そしたら甘味の補充も出来ると、片手で木の実をもぎながら、男がそんな提案をしてきた。
「ぬの?我はそんなに名残惜しそうに見えるのの?」
「不思議と、ここにとても馴染んで見える」
ふぬ。
「……いや、俺が名残惜しいのかもしれない」
桃擬きの皮を剥いて口に運ばれる。
「ぬぬぬのぬ?」
桃擬きで頬を膨らませた顔を見て、男が笑う。
「ぬぬ」
確かに、少し「家」を感じた。
食事処に屋根がかなろうと、寝床が荷台でも、風呂がなかろうと。
水があり、魚がいて、木の実があり、布団の上で眠れる。
森の湖畔。
心地はとてもいいけれど。
(……あぁ)
そろそろ。
「……先へ行きたいの」
我の言葉に、
「わかった」
男は小さく微笑み、頷く。
男には言わなかったけれど、このタイミングで、大木に近付く人間達の気配があった。
男に抱かれて馬車の在処まで戻ると、ちょうど狸擬きがご機嫌にテンテコ歩きながら、湖畔の反対側から戻ってくる姿が見えた。
が、向こうもこちらの姿を視認すると、こちらを呼んでいる。
「なんの?」
男と向かうと、狸擬きはそのまま森の奥へ向かい、途中で足を止めて、先を見るように促す。
「ぬ……?」
目を凝らすと、
(のの、蜂の巣の……?)
周りを飛ぶ虫たちのフォルムからして蜂の巣らしいが、なんと立体の星形、金平糖の様な形を成しており。
ほほぅ。
(やはり、この世界は大変にメルヘンであるの……)
そして。
(ぬ……?)
木の枝からぶら下がる蜂の巣の真下に、何か光に反射しているもの、我が両手で抱える程度の瓶が置かれ、そこには巣から垂れた蜂蜜が8割ほど溜まっている。
(のの、ご馳走の塊の)
狸擬きはあの瓶をセットしたのは自分だと伝えてくる。
拾った瓶は湖で洗い、蜂蜜が溜まるのを待っていたと。
狸擬きのくせに、なかなかにやるの。
しかし自分では回収ができないとも。
なるほど。
前足を使えても二足歩行は出来ぬらしい。
「では、我が取ってくるの」
蜂は今は大半がお出かけ中。
留守番が7~8匹程度はいるが、言うなればそれっぽっち。
男が、
「いや待て待て待て」
止めてきたが、
「の?襲ってきたら全て殺めるだけの」
小豆を手の平に握ると、
『おや姫君』
『姫君だ』
『ようこそ、姫君』
「ぬ?」
よく見ると蜜蜂が、前足、でいいのだろうか?小さな小さなバケツを持ち、話し掛けてきた。
(……我の目は)
「あまりに長生きしすぎて、耄碌したのかの?」
『我ら蜜蜂と話すのは初めてにてごさりますか?』
多分、纏め役の1匹が、我の顔の前で「ほばりんぐ」しながら訊ねてきた。
「それもあるけれどの、その愛らしい姿に驚いておるの」
『蜂蜜籠にございますか?』
「それ含めの、お主らもの」
絵本の世界だ。
『大変嬉しいお言葉』
「よく話せるの?」
『不思議と』
では。
「なぜ、我を姫と呼ぶ」
『この湖が有する森に不躾に現れ、我らの縄張りを不必要に荒らすあの生き物を、見事、二度と地に戻らぬ姿にし、その身体の一部を、自らの血と肉とする、我等の英雄こと、姫君』
あぁ。
「……あの鹿擬きか」
確かに食べたけれども。
『えぇ、えぇ。大変に感謝』
「お主らの蜜のお零れを、こそりとせしめようとしていることは、責めないのかの?」
『我等から女王様への愛が溢れているだけ故、お気にならさず』
小さい癖に、
「器は滅法広いの」
命がけの採取であろうに。
『勿体なきお言葉。しかしあの鹿を除き、ここはわりかし平和なのです』
そうなのか。
そういえば、狸擬きも楽しそうにしていたし、探索を欠かさなかった。
ここが、我にとってなぜか居心地がいい理由の1つでもあったのだろう。
そう。
ここは。
獣が好む土地。
「では、遠慮なく頂くの」
『もう行かれるのですか?』
「名残惜しいのは確かなのだけれどの」
『では次は是非、女王様にもご挨拶を、今はお眠り中であります故』
「ふぬ、またいつかの」
『いつでも、お待ちしております』
話している間に、瓶の中には、蜜がたぷたぷに溜まっていた。
(のの、なんとも粋なことをする)
瓶を抱えて男と狸擬きの許へ戻ると、男は何も聞かないと言わんばかりに肩を竦め、狸擬きはふふんと得意気な顔。
強く編まれた布で蓋をして紐で縛り荷台へ。
片付けをしながら、絶えず耳をあの大木の方へ傾けていたけれど、人間たちはどうやら大木の下に留まってる。
こちらへ来るかは不明。
ただ、誰もこちらへの気を飛ばす気配がないところを見ると、この湖のことは知られていない。
男に、大木の方に人間がいると話すと、男も少し悩む顔を見せ。
「フーン」
狸擬きが、知られたくないならば、森を抜けていけばいい、馬車が通れる道を見付けてあると、珍しくと言ったらまた怒るだろうけれど、気が利くことを伝えてきた。
森の中は狸擬きが先導し、馬には少し負担を掛けるけれど、足腰の丈夫さが売りのためか、逆に少しウキウキしながら歩いているように見える。
ふと思う。
「の、お主は甘い菓子は作らぬのの?」
「そうだな、作ったことはないな。機会も理由もなかった」
「ふぬ……」
まぁそうか。
男が何か考えている横顔を見せるため、
「お主が美味な菓子まで作り始めたら、我が余所で買ったものでは満足できなくなるだろうからの、作らなくて良いの」
また街中の店などで目一杯甘味を堪能しようと、新しい街へ想いを馳せていると、
「んのっ!?」
唐突に男に頭をガバッと男の方に寄せられた。
「……」
「なんの!?」
「……」
「のっ!?ぬっ!?」
男はしばらく頭を抱えたまま離してくれず、顔も見せてはくれなかった。




