8月 一泊旅行を計画する
季節は夏真っ盛りの八月の上旬。一学期の終業式も滞りなく終わり、学園初等部の生徒は皆、長期の夏休みに突入した。
そんな中でアタシは昼を少し過ぎた時間に、暑い盛りの外とは違ってエアコンを効かせた涼しい自室で、学習机の上に高校の問題集を広げ、問題文を熟読しながら一問ずつ確実に解いていく。
「智子ちゃん、最近毎日暑いですわね」
「そうだね。何しろ夏だからね」
アタシのベッドがお気に入りの友梨奈ちゃんが、くま吉と名付けたクマのぬいぐるみを抱きながら、退屈そう口を開く。
ちなみに学園は長期休み中で放課後の勉強会ではないので、彼女は私服で涼し気で袖が短い白色のシルクのワンピースを着ている。
ちなみにアタシの服装は某らーめんのひよこTシャツと、薄い生地が涼しい膝までの綿のズボンだ。
「暑いから外に出たくないけど、ずっと家の中だとちょっと退屈だね」
「昨日の夕涼みは自転車に乗って、駄菓子屋まで遊びに行ったよね。
その前日は朝早くから親御さんと一緒に、近くの山までカブトムシ探しに行ったじゃない。
月の名家のおじさんとおばさんが、これが家族で捕まえたクワガタだ! …って、用事で行けなかった他の名家に自慢してたよ」
光太郎君がパリッとしたYシャツと短パンで、シリーズ物の推理小説を読み進めながら、何気なく話を振を振ってくる。
元々はアタシが勉強会のない休日に近くの駄菓子屋に向かう時には、いつも自分の自転車に乗って向かっていたのが原因だ。
夏休みになった次の日に、当然のように朝倉家に入り浸っていた三人も、当然のようにアタシが乗っている自転車を欲しがり、駄菓子屋までサイクリングをしたいと言い出した。
結果、次の日の朝倉家の倉庫には、子供用バイクが三台だけでなく、大人用バイク五台も何故か追加されていた。
しかし今まで一度も自転車に乗った経験のない子供が、急に乗れるようになるわけがないのだが、流石天才の名を欲しいままにする一族だけはあり、たったの半日で補助輪からも卒業して、自転車を乗りこなしてしまった。
それでも最初は、アタシが自転車を後ろから押して助走をつけさせても何度も転んだのだが、そのたびに少し離れた場所から隠れて様子を伺っている謎の集団から、気遣いと暖かな声援が頻繁に送られてきたが、あれはこの場に居るはずのない黒子のようなものだと自分に言い聞かせて、完全に無視していた。
毎日暗くなるまで練習しても一週間はかかったアタシとは違い、修得速度が早すぎるので、やっぱり月の名家は理不尽の塊だった。
「だが暇なのは事実だな。何かこう、パーッと遊びたい気分だ」
「そんなに暇なら夏休みの宿題や習い事、あとは上流階級のお付き合いや家族と旅行とか色々あるでしょう?」
青いアロハシャツとお揃いの短パンを着た裕明君が、隣の倉庫からアタシの部屋に持ち込んだ、薄型テレビと最新のゲーム機を使い、画面の中で波動の玉を撃ったり空中で回転したりと、白熱したバトルを繰り広げていた。
「っと…ギリ空中ガード間に合ったな。夏休みの宿題なら俺は三日前には終わったぜ」
「僕も宿題は智子ちゃんのおかげで無事に終わったよ。習い事もやってるけど、今は家族も気を使ってくれてるのか、そこまで過密じゃないから助かってるよ」
夏休みに入って、習い事のない日には朝倉家に一日中入り浸っているため、勉強会のようにアタシが三人を教えることになった。
進み方には個人差があったものの、三人は一週間もしないうちに夏休みの宿題を終えてしまった。
習い事に関しても数を減らしたと言ったが、入学前と比べてやる気も高まり、各分野の修得速度が上がっているらしく、効率は上がっているとのこと。
それらに関して三家の大人全員から、智子ちゃんのおかげだとベタ褒めされたので、アタシが息子さんたちにやっているのは、下手くそな家庭教師のマネだけですと、はっきり真実を告げておいた。
大人たちが何で勘違いしたのかは知らないが、一度冷静に考えれば、原因はアタシじゃないとすぐにわかるはずだ。もっとも自分は頭が良くないので、真の原因はまるで見当がつかないのだが。
「今までの海外旅行は全部つまらなかったですわ。
ですが今回はお友達の智子ちゃんも一緒でしょう? 期待が膨らみますわ!」
「あー…悪いけど、アタシは一緒に行かないからね。家族水入らずで楽しんできてよ」
アタシは朝倉家の両親と離れてまで、何泊も海外旅行したいとは思わない。大好きな家族と一緒に過ごせるだけで、心も体も十分に満ち足りているからだ。
それはきっと前世での離婚という辛い人生を送ったせいだろうが、今がとても幸せなので、これ以上を望むのと罰が当たるのではと考えてしまう。
「嫌ですわ! 智子ちゃんと一緒に家族旅行したいですわ! ハワイやグアムもきっと楽しいですわよ!」
「いやでも…アタシ、長い間家を留守にするつもりはないし、海外は遠いし。はぁ…困ったよ」
では朝倉家と月の名家が一緒に旅行すればいいのかと言うと、今度はお父さんとお母さんの胃に穴が開くので願い下げである。しかし友梨奈ちゃんは不満気に頬を膨らませており、明らかに納得してなさそうだ。
三人の小学一年生は見た目とは違って内面はかなり大人びてきたが、他人の目がない場所では、今のように年相応に甘えたり、わがままを爆発させることがある。
その際にたとえ家族がいても、矛先は全てアタシに向くのが、最近の悩みの種になっている。
「では、どうしたら智子ちゃんと一緒にお出かけ出来ますの?」
「うーん…近場で日帰りか、一泊ぐらいなら可能?」
「あっ…そう言えば社交界の時の会話で、川釣りの経験があるって言ってたけど。その釣り場は何処にあるの?」
友梨奈ちゃんと話していると、光太郎君が何かに気づいたのか、小説を読むのを一旦止めて栞を挟み、こちらに顔を向けて嬉しそうに声をかけてきた。
「地元の山の少し奥まったところに。小さな渓流の釣り場があるんだよ。
別に有名じゃないけど、夏には近くのキャンプ場やログハウスに観光客が来たりと、それなりに賑やかだよ」
「それはいいね。そこなら智子ちゃんと一泊旅行が出来るかも」
光太郎君が提案したように、前世も含めてその場所には何度か、日帰りや一泊で川釣りに連れて行ってもらったことがある。
途中から道はアスファルトのままだが両側で一車線になるので、この先に何があるか知らない人は、大抵そこで引き返すことになる。
いわゆる地元で知る人ぞ知る、キャンプ場と小さな釣り場ということだ。
「そう言えば最近、川釣りには行ってなかったよ」
「そりゃいいな。智子、いつなら行けるんだ?」
「えっ? うーん、今やってる問題集が一区切りする、今週の土日なら?」
入学してからは、アタシも両親も毎日が慌ただしく、土日も殆ど家で体を休めるだけで、何処にも行く暇がない。それでも夫婦仲は良いし、今年さえ乗り切れば突然入社してきた優秀な部下が全体の流れを完璧に覚えて、お父さんがアレコレ指示しなくても会社を勝手に動かしてくれるらしい。
それがいいか悪いかはともかく、会社からすれば確実にプラスになるし、彼らに乗っ取る気はなく、ちゃんと社長のお父さんを立ててくれるので、多分問題はないのだろう。
今年になってからは、徒歩や自転車の遠出はあるが、車での旅行はまだないので、両親は不参加だが久しぶりの旅行を少しだけ楽しみに感じるのだった。
アタシの旅行の計画は当然のように朝倉家の倉庫で行われた。見た目は普通の家屋なのだが、建てた後に何度かの増築リフォームを行い、寒暖や耐震だけでなく防諜の最新技術を惜しみなく組み込んだと、当主様たちが自慢気に語っていた。
なのでいつの間にか、朝倉家の別邸の中では、変装を解いてラフな恰好でくつろぐようになった。そんな月の名家の当主たちが四人対戦の格闘ゲームで、子供たちに負けて悔しいはずなのに楽しそうに笑っている姿は、なかなか慣れるものではない。
「それで智子ちゃんは、次の土日なら予定が開いてるんだね?」
「あっ…はい。本当はいつでもいいのですが、ある程度日にちを開けたほうが、皆さんの予定も立てやすいんじゃないかなと」
京都の花札メーカーが作った格闘ゲームの対戦に区切りが付き、一休みしている卯月おじさんが、テーブルに広げられたお菓子類に手を伸ばしていたアタシに話しかけてくる。
いくら作務衣姿といっても、彼は大人で名家でもあるので、いつも通りに自己流の丁寧な応対を心がける。
「ああ、当然三家は全員参加だ。さらに使用人も何人か連れて行くことになった。
それと時間に余裕があるおかげで、ゴミ掃除も念入りに行えるので今回は助かった」
「ゴミ掃除? 確かに夏のキャンプ場はゴミで散らかってたりしますからね」
「…そうだな。せめて楽しい旅行の間だけでも、そういったモノとは無縁でいたいものだ」
卯月おじさんの言う通り、自然豊かな環境にゴミが散乱していたらいい気分はしない。最近朝倉家の周りの田んぼや畑に捨てられていた空き缶やタバコ、コンビニ袋のゴミを全く見なくなったのは、何も言われなかったが彼らのゴミ掃除のおかげかもしれない。
しかし使い終わった後だけでなく、現場に行く前にもゴミ掃除を行うなんて綺麗好きなんだなと、アタシは目の前の卯月家当主と、お互いに笑顔で談笑を行うのだった。




