第56話 潮騒
夜中に目を覚ましたルリアージェは、聞こえてくる潮騒の音に再び目を閉じた。耳慣れたテラレスの穏やかな波音より、少し荒々しい。それでも波の音は心が落ち着いた。
浜辺特有の潮の匂いを吸い込み、ゆっくり寝返りをうつ。この別荘は部屋が沢山あり、それぞれに個室へ引き上げていた。
ふと……胸騒ぎを覚える。
一人である今、夕餉のにぎやかさは幻だったんじゃないか。もしかしたら、夢を見ていただけで自分は一人かもしれない。
孤独がじわりと沁みこむ。肌寒い気がして自分を抱き締めるルリアージェの肩に、ふと温かな手が触れた。ぎしりとベッドが軋む音がして、人影が月光を遮る。
「リア、何か不安?」
起きているときはルリアージェの方が体温が高いのに、今は彼の方が温かい。不思議に思うより、当たり前だと感じた。不安に駆られて冷たくなった身体に、他人のぬくもりは心地よい。
「大丈夫、オレはずっと味方だ」
世界を敵に回しても、オレだけはリアの隣にいる。ジルの声が優しく響いた。
「……ここに」
「ああ、リアが寝てもいるから安心して」
我が侭を言っている自覚はある。魔性だからって、男を部屋に置いて寝るまでいて欲しいと請うなんて、かつてのルリアージェがいた環境なら咎められる願いだった。誰かに知られたら「みだらな女だ」とレッテルを貼られる行為だ。
「朝起きたら、美味しい紅茶を用意しようか」
頷いたのか。覚えがないまま、ルリーアジェの意識は眠りの腕に吸い込まれていく。急速に落ちた眠りは、ジルによる誘導だ。
夕食後に彼女の精神状態が不安定だと気付いて、ずっと様子を見ていた。一度は眠ったはずのルリアージェが目を覚ました気配に、すぐ転移して正解だ。銀髪を何度も撫で、猫のように擦り寄る彼女を抱き寄せた。隣に滑り込んだジルの腕枕で、彼女は身体を丸めようとする。
まるで自分しかいないような仕草に、ジルがそっと動きを押し留めた。深い息を吐いて意識を沈めるルリアージェを抱き締める。
「愛してる」
そう告げるジルの声は欲に満ちているが、表情はどこまでも穏やかだった。我が子を見守る親のような無償の愛情を注ぎ、夜に怯える美女を宥め続ける。
「……ジル様」
「ジル」
リオネルとライラが声をかけるが、ジルが首を横に振る。後ろで不安そうな顔をするパウリーネとリシュアは、何も言えずに言葉を飲み込んだ。
「戻ってろ。リアが気にするからな」
どこまでも彼女中心の発言に、逆に4人は安心した。ジルが彼女の悪夢を追い払ってくれるだろう。このまま任せても問題ない。最初にリオネルが、続いてパウリーネとリシュアが消えた。最後まで残ったライラが近づいて、ジルの黒髪を掴む。
「手を出したら、ちょん切るからね」
怖い言葉と大人びた笑みを残して、ふわっと消えた。くすくす忍び笑うジルは、腕の中の眠り姫の額にキスをひとつ落とす。
「これも手を出したって言うのかね」
窓の外は大きな月がひとつ。明るすぎる月光を遮るように、ジルはルリアージェを腕に閉じ込めた。
眩しい朝日が顔にかかり、目覚めを促す。ひとつ欠伸をして目を開けると、驚くほど近くに絶世の美貌があった。
ジル?! 叫びそうになった口を手で押さえる。瞬きする間に、ジルは穏やかな笑みを浮かべて紫の瞳を開いた。
「おはよう、リア。よく眠れた?」
「ああ……おはよう」
髪を撫でる彼の手に、昨夜の記憶が蘇った。夜中に目が覚めたのだ。不安で押しつぶされそうになった気持ちを察したように現れ、ジルは眠るまでいて欲しいという願いを叶えてくれた。だが今もいるのは……?
疑問はすぐに解けた。ジルの黒髪を一房握る自分の手が目に入る。リュジアンにいるとき短く見せていた黒髪は、今は元の長さに戻されていた。寝る前に解いたのか、黒髪はシーツの上に散らばる。
「悪い、握っていたのだな」
「オレは嬉しかったよ、頼られているみたいだ」
にこにこ答えるジルの他愛ない言葉に、ふと表情が曇る。まるで自分が彼らを信頼していないように見えたのではないか……そんな疑念が浮かんだ。どうしてか、タイカにきてから気持ちが塞ぐ。悪いほうへ悪いほうへ考えが向かうのを自覚していた。
「今も信頼されてるけど、もっと頼って甘えて欲しい。オレだけじゃなくて、他の奴も同じように思ってるぞ」
慰める形ではなく、追加するようにさらりと告げられる。当たり前のように言うから、素直に受け止めた。ジルの気遣いにルリアージェの頬が緩んだ。
「そうだな。私は甘えるのが苦手だ」
「うーん、オレもあまり甘え上手じゃないけど。無理に甘えるんじゃなくて、少しずつオレ達に気を許してくれるリアも大好きだ」
「私は気を許してるか?」
くすくす笑ったジルが、伸ばした手で頬を包む。
「そう尋ねる時点で、もう気を許してると思うけどね」
確かに、宮廷生活をしていた頃はもっと張り詰めていた。誰も信用できなくて、疑心暗鬼で警戒していた気がする。こうやって他愛ない会話を楽しむこともなかったし、足を引っ張られる心配ばかりしていたかも知れない。
「今の生活は気に入ってる?」
「ああ。お前達と一緒に暮らすのは楽しい」
「よかった」
ジルが紫の瞳を細めて、ゆっくり顔を近づける。なんとなく見つめ返すのが恥ずかしくて目を閉じた。そこで「キスされるかもしれない」と気付いて、焦る。
「はい、そこまでよ。これ以上はあたくしが許さないわ」
ライラの声に飛び起きると、茶色の三つ編みを揺らす少女がベッドの上に浮いていた。触れるぎりぎりの位置に浮かんだ彼女は、ジルとルリアージェの間に手を差し入れて妨害する。
「ちっ、くそがき」
「素敵な称号をありがとう」
嫌味で返すライラは笑顔だった。舌打ちしたジルも本気で怒っているわけじゃない。こういう関係は家族みたいだ。お互いに言いたいことを言って、でも険悪にならない。
初めての感覚に心が躍る。ルリアージェは早くに両親をなくし、宮廷に魔術師見習いとして入る頃には天涯孤独だった。相談できる親しい人も、家族もいない。それが当たり前で生きてきたから、こういう雰囲気は擽ったくて心地よかった。
「今日は何をしようか」
呟いて身体を伸ばすと、ジルが「泳ぐか?」と水着を用意する。ゆったりしたワンピースを持ち出すライラは「お買い物がいいわ」と提案した。
どちらも魅力的だと考えるルリアージェが答える前に、ドアが開いた。
「おはようございます。朝食の準備ができましたよ」
リオネルが仲裁に入ると、ジルが先に立ち上がって手を差し伸べる。
「お手をどうぞ、奥様」
「ありがとう。旦那様」
公爵夫妻としてのやり取りをかわすと、ライラが「お母様と呼んだほうがいいのかしら」と手を繋いだ。潮の香りが届く窓を振り返り、明るい日差しに目を細める。潮が満ちる時間である今、外の波音は昨夜より大きく聞こえた。
人族に生まれ、孤独を感じてきた。なのに敵であるはずの魔性が、ルリアージェの居場所を作ってくれる。家族になり、彼女を守り、誰より大切にしてくれるのだ。
「スープが冷めますわ」
廊下からパウリーネが促し、窓辺に転移したリシュアが窓を閉めた。途端に潮騒が遮られる。振り返ったルリアージェは微笑んで彼らに応えた。
水色の瞳がゆっくり細められ、焼けたような褐色の肌が海に触れる。手を差し入れた波を掬った少年は、大きすぎる魔力を持て余すように海面に叩き付けた。大きく割れた海がすぐに元へ戻る。しかし一度生まれた不穏な波紋は広がり、海の波音を乱した。
「今のうちに幸せに浸るといいよ……僕は手加減しないから」
満ちる海に響いた不吉な声に、誰も気付くことはなかった。
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