第15話 命の対価(3)
破裂も爆発もなかった。
敵の描いた魔法陣の弱点をついて解除した。魔法陣は力を失った絵のように、光を失って中央から消滅していく。発動する魔力は霊力により相殺され、魔法陣を構築した紋や文字を魔力が破壊した。
防ぐ攻撃の術を失った魔性たちを巻き込む青い魔法陣が威力を発揮する。逃げる間もなく、魔性達は核を残さず消された。惨殺ですらない。形がない消滅という罰は、彼らの再生を許さないジルの怒りの表れだ。
両方の力を遺憾なく発揮したジルが纏う嵐は、再び主に寄り添う形で元に戻った。
排除した敵の最期を確認もせず、ルリアージェの腕を持ち上げた。少しだけ迷う仕草を見せる。何かを躊躇うジルの様子は、自信過剰で傲慢に振舞う『死神』らしくなかった。
「ゴメンな、リア」
小声で謝罪する。大きく開いた口に、狼のような牙が覗いた。その牙で己の指を切り裂く。霊力の影響で塞がろうとする傷に再び牙を立てると、赤い血をルリアージェの腕の傷に垂らした。
わずか数滴……傷が塞がっていく。治癒の魔術とは明らかに違う力だった。≪緑のヴェール≫によって傷は巻き戻して治される。つまり、傷は最初からなかったことになるのだ。
ジルが行った治癒は、魔術でも魔法でもなかった。
傷を巻き戻さず、そのまま治癒する。ジルの血に混じる母親から受け継いだ能力のひとつだった。だが、ジルは眉を顰めてルリアージェの様子を見つめる。
懸念事項があるのか、すぐにルリアージェの傷に垂れた己の血を指で拭った。治癒を確認すると、ようやく肩からを力を抜いて大きく息を吐き出す。
じっと彼が見つめる先で、眠り姫はまだ目覚める様子を見せなかった。昏昏と眠り続ける美女の姿をじっくりと観察する。そして、やっと安堵したように緊張を解いた。
空中を切り裂いて、隙間から青年が降り立つ。
「よう、ジル」
煉瓦が崩れて見る影もない庭を歩み寄る赤毛の青年に、ジルは「久しぶりだな」と挨拶を返した。知己らしく、彼らは淡々と言葉をかわす。少し離れた位置で止まった青年は薄水色の瞳に、柔らかな色を浮かべた。
「随分派手に戦ったようだが」
おまえにしては梃子摺ったじゃないか。そんなニュアンスの揶揄に、ジルは腕に抱いたルリアージェを見つめる。それから彼女を結界に包んで仕舞った。
それはジルが使えないといった収納魔術によく似ている。だが本質の違う魔術は、生きた者を取り込んでも問題はなかった。時間が止まった空間に彼女を隔離する。
転移に使う亜空間のように他者が入れる場所ではなく、霊力を纏う者が扱える特殊な空間だ。ここには魔王であろうと手出しはできなかった。
用心深いジルの行動に、赤毛の青年は「嫌われたか」と苦笑いする。
「嫌われるも何も、最初に仕掛けたのはお前だろう」
指摘された青年はきょとんと目を見開き、「あちゃー、バレたか」と短い赤毛をぐしゃぐしゃかき回す。悪戯がバレた子供みたいな、憎めない雰囲気を纏っていた。
「……ったく。『傍観者』だか知らないが、主を傷つけた代償は払わせる」
右手を振って、手の中に現れた柄を握る。剣の柄は黒く、紫の芯を抱いた半透明の美しい両刃が光を弾いた。見惚れる美しさは、どこか禍々しい印象をもたらす。
「主か。おまえからそんな単語を聞くなんて、長生きはしてみるもんだ」
くすくす笑って、両手を挙げて降参と示す。薄氷色の淡い瞳が細められ、猫のような瞳孔が細くなる。顔立ちは平凡だが、人懐こい印象を与えた。どこにでもいそうな、普通の人間に見える。
空間を裂いて現れ、魔性を『代償』を盾に嗾ける奴が普通の人間のわけはなく、魔性でも神族の生き残りでもない――世界に弾かれた存在だった。
ジルを襲った二度目の魔性たちは、おそらくヴィレイシェの信者だろう。彼らに近づき、ジルに一矢酬いる方法を囁いた。女王の後を追う彼らにとって、ジルの大切な主につけた小さな傷は大きな勲章なのだ。
死神として魔性を狩るジルを傷つける代償として、彼らの命は散ったのだから。
「覚悟は出来たか?」
「え? マジで攻撃するのか? 無駄なのに」
驚いた途端に広がる瞳孔が少し色を濃くした。本心から驚いたのだろう、顔より目の方が顕著に感情を表す。
ぽつりと雨粒が落ちた。大量の魔力が放出された地表付近は高温になっており、発生した上昇気流が雨雲を呼んだのだろう。ぽつぽつ落ちる雨は、すぐに音を立てて夕立の降りになった。
燃え続ける街や王宮の残骸を冷やしながら、煙るように強い雨が地を叩き、血を洗い流す。強い雨は恵みとなって大地を癒した。
「傍観者は死なない、だっけ? 試してみる価値はあるぞ、レン」
にやりと笑ったジルの黒髪が雨に濡れて肌に張り付く。
存外、主であるルリアージェを傷つけられたことに腹が立っていた。守りきれない弱さと油断した甘さ、すべてが棘となって己を責め立てる。
「正確には死ねないんだけど……痛いから遠慮する」
雨を防ぎながら首を横に振ったレンが、左側の空間を切る。半身を滑り込ませた彼の右腕を肘の上で切り落とした。踏み込んで揮った剣だが、それより上は届かない。
落ちた腕を残し、切れた空間が閉じた。
「ちっ」
舌打ちしたジルは雨の滴る前髪をかき上げた。身体の動きを拘束する縄のように絡んだ髪に溜め息をつき、右手の剣を消す。鞘のない剣を手放して空いた右手を、右耳のピアスに沿わせた。
二度目の襲撃で解放された魔力に気付き、苦笑いが浮かぶ。傍観者レンの目的はこれだろう。完全に使えない、封じられたジルの魔力を解放すること。
世界はバランスを保つ必要があり、死神ジルが復活した以上、対抗できる勢力が台頭する筈だった。
おそらく――魔王たちの復活が近い。




