第15話 命の対価(1)
漆黒の大きな翼を持つ黒衣の魔性の恐怖が、人間たちを支配する。魔性3人の攻撃を余裕で凌ぎ、反撃して撃退した人外に対し、人間がもつ魔術など届きはしない。
恐れ戦くアスターレンの人間を無視したジルの手が、美女の頬を撫でた。
優先すべきは、ルリアージェの記憶回復だ。原因がわかれば、改めてあの男を殺してもいい。この国を滅ぼしても構わない。最優先は彼女なのだから。
ジルはルリアージェを両腕で抱き上げ直すと、二階ほどの高さへ浮き上がった。足元で慌てふためく人間を睥睨し、興味を失ったように目を逸らす。
彼の興味が逸れたことに安堵した人間をあざ笑うように――突然、空間は裂けた。
「……っ」
目の前に飛び出した複数の魔性が炎を叩きつける。
「死ね!」
黄色に近い高温の炎が矢となってジルを狙う。咄嗟で反応が遅れたジルの黒髪の先を矢が掠めた。ちりりと焼かれた髪に舌打ちし、ジルは己の翼でルリアージェを庇う。
突然の奇襲に、防戦一方のジル――作られた構図は、しかし現状に照らし正しくなかった。
≪我が敵を排せ!≫
ジルの声が告げた言葉は、精霊を操る古代神語だった。かつて神族が使い、彼らの滅びと共に消滅した言語は、精霊達に意思を伝える最善の方法だ。
結界を張る必要はない、攻撃をよける理由もなかった。ただ彼は精霊に『敵の排除を願い、命じる』だけでいい。魔力も霊力すらほとんど使用しないのだ。
火の精霊は、攻撃の矢を無効化した。水の精霊が守るように膜を作り、風の精霊は竜巻を作り出して矢の行き先を逸らす。大地の精霊が樹木と蔦で敵を捕縛した。
ジル自身の力ではなく、精霊達の力であるために……強大な力が動いても消耗はなかった。
さきほど遊んでいた時と違い、ジルは容赦も手加減もしない。時間をかけず、一息に敵を捕まえる。敵の脅威が消えた時点で、やっと翼を広げた。
腕の中のルリアージェを傷つけられなかったか確認を終えると、ほっと安堵の息を吐く。
「ったく、迷惑な連中だ」
彼女に毛筋ほども傷をつけたら、霊力で紡いだ『死ねない檻』で永遠に苦しめてやろう。もちろん近くに自分がいるのに、そんな無様な真似を晒す気はないが。
ジルが油断するのを待っていたタイミングは、奇襲として成功の域に入る。ただ、襲った者達と襲われた側の実力差が大きすぎた。
長い黒髪が風に揺らぎ、まるで水中にいるみたいな動きで浮き上がった。焦げた毛先に気付いて鼻に皺を寄せたジルは不快さを示すと、威嚇するように黒翼を見せつけた。烏に似た青みを帯びた艶を纏う翼は横に大きく広がり、不吉な影を作り出す。
「ヴィレイシェ様の仇っ!」
「お前が死ねば……」
「…あのお方を返せ」
口々に叫ぶ彼らの手の剣や短剣に、魔法による炎や風を纏わせていた。
ジルの口角が持ち上がり、機嫌の悪さを如実に示す。尖った牙を見せ付ける笑みで、ただ吐き捨てた。
「無能をオレの所為にしてんじゃねえよ」
唯一と定めた主を殺された己のミス、危険を承知で諌め切れなかった主への後悔、助けられない力不足……様々な感情を込めた叫びに、痛烈な一言だった。
復讐を言い訳に自分達を正当化する連中に、ジルが容赦してやる理由などない。そもそも女王ヴィレイシェを殺したのは、あの女がオレに手を出したからだ。
封印から解放された『大災厄』であるオレは、ルリアージェの隣にいられるだけで良かった。彼女がオレの存在を否定せず、受け入れる現状が嬉しく、同時に満足していたのだ。
寝た子を起こしたのは女王の不手際だった。ケンカを売られなければ、買う必要はなかったのだから。
≪焼き尽くせ≫
明確な命令に、火の精霊が彼らを包み込む。武器に添わせた炎は吸収され、青白く魔性たちに襲い掛かる。触れる前から溶けるほど高温の白炎が魔力を燃やしながら揺れた。
火の精霊を助けるように風が吹き、湿気が消える。水と風の援護を受け、火は『翼ある主』に応えられる己を誇るように、美しい白炎を高々と見せ付けた。
「……これで『対価』は払った」
指先から燃やされる魔性の不吉な言葉に、ジルが首を傾げた。まるで己の命を対価として、何か契約を結んだような言い方だった。それが条件で、何かが発動する……。
嫌な予感に、周囲を窺う。魔力の流れ、霊力の渦、精霊達は何も動こうとしない。だが直感めいた不吉さがジルの肌を粟立たせた。
≪我が身を守れ……≫
精霊が風の壁を作り出す。その内側を霊力で満たした。
魔力による攻撃ならば霊力で防げる。霊力を操る神族が滅びた今、精霊を従える『翼ある主』はジルだけだった。
それ故の油断、それ故に生まれた隙……。
「ぐっ……」
足元から浴びせられた粉が、風の壁に吸い込まれて降りかかる。きらきら光る白い粉は風に踊りながら、ジルとルリアージェを覆った。
直後、ジルの全身は痺れて動けなくなる。粉が触れた場所から力が抜けていった。霊力を中和しながら舞う粉によって、精霊達が大気に解放される。
霊力の塊である精霊を殺せる、分解することが可能な唯一の粉だった。現在では入手する術のない材料を粉砕して作り上げるもの。
かつてのジル――帝国滅亡の大災厄であり、死神と恐れられたジフィール――を封印した際に使われた粉だ。1000年前はともかく、製法も原料も失われた今では幻の粉だった。
「……誰が」
誰が持ち込んだ? 誰が保管していた? そして、何故このタイミングで使ったのか。
霊力と精霊を使役するために広げた翼が仇となった。体内を巡る霊力の流れが阻害され、全身を切り裂く痛みが走る。
魔性として痛みに耐性があるジルであっても、その激痛は息苦しいほど強い。いや、普段痛みを感じない魔性だからこそ、痛みに弱いのかも知れない。
腕の力が緩みかけ、必死で彼女を抱き寄せた。腕の力では足りず、翼でぎこちなく覆って包み込む。彼女を落とすくらいなら、腕を切り落とされる方がマシだった。