第8話/通算28話「俺が、この国を貧しくした」
第3シーズン「商売のない国編」
世界一の百貨店を、小さくした。
それは、直人にとって一つの答えだった。
店を増やすことだけが成功じゃない。
全部を自分の店にする必要もない。
小さな店を残す。
それぞれの商人が、それぞれの看板を守る。
百貨店は、その間をつなぐ。
ようやく。
「世界一」の意味が分かった気がしていた。
けれど。
世界は、すぐに次の問いを突きつけてくる。
《第三実験地域》
そこには。
店がない。
値札がない。
広告がない。
商人すらいない。
なのに。
人々は飢えていない。
必要な物は届いている。
誰も財布を持たず。
誰も「いくらですか」と聞かず。
それでも。
人々は笑って暮らしている。
世界一のバイヤーにとって。
それは、魔王より理解できない相手だった。
これまで直人は。
届かないなら、届けてきた。
高いなら、買える方法を考えた。
店がないなら、作ってきた。
選べないなら、選べるようにしてきた。
そして。
商売には、人を幸せにする力がある。
そう信じてきた。
でも。
もし。
商売をしないほうが幸せな世界があるとしたら?
欲しい物を増やすことが。
選択肢を増やすことが。
人を豊かにするとは限らないとしたら?
それでも。
百貨店は必要なのか。
それでも。
商売は、人を幸せにできるのか。
第3シーズンは。
世界一のバイヤーが、商品ではなく。
「商売そのもの」を査定する物語。
そして。
直人が初めて。
「売らない」という選択肢と向き合う物語です。
リリスとの距離も、少しずつ変わっていきます。
何かを買うから楽しいわけじゃない。
店があるから一緒にいるわけでもない。
何も買わなくても。
何も売らなくても。
隣にいるだけで楽しい時間がある。
そんな当たり前のことを。
商売ばかり見てきた直人は。
たぶん。
まだ知りません。
世界一の百貨店が。
店のない国へ行く。
そこで待っているのは。
新しい商売ではない。
商売がなくても成立している幸せ。
第3シーズン。
「商売のない国編」
ここから。
直人の一番大きな敗北が始まります。
「靴なんて欲しいって言わなければよかった」
ミアの声は、小さかった。
なのに、荒らされた共同倉庫の中にいる全員に聞こえた。
倒れた棚。床に散らばった籠。持ち去られた食料と布と道具。
そして、少女の腕の中にある赤い靴。
昨日まで、あれはミアの宝物だった。
今はまるで、罪の証拠みたいに抱かれている。
「違う」
俺は言った。
「ミアは悪くない。欲しいって思ったことも、悪くない」
言い切らなければならなかった。
だって、それを教えたのは俺だ。
欲しい物を選んでいい。
自分の物を持っていい。
そのために頑張っていい。
その結果、人が人を殴った。
共同倉庫が荒らされた。
そして今、一人の少女が自分の「欲しい」を後悔している。
「じゃあ……誰が悪いの?」
答えられなかった。
いや。
本当は、答えが分かり始めていた。
奪われたのは、物だけじゃない
「直人!」
外からバルグの怒鳴り声がした。
「別の倉庫だ! 食料を持ち出そうとした連中を住民が止めている!」
俺は倉庫を飛び出した。
通りの向こうから怒号が聞こえる。
「それは皆の物だ!」
「だったら俺にも権利がある!」
「必要な分だけ持っていけ!」
「交換に使えば、もっといい物が手に入るんだ!」
胸が冷えた。
交換。
価値。
もっといい物。
昨日まで、この国にはなかった言葉だ。
俺が持ち込んだ。
角を曲がると、十数人が倉庫の前でもみ合っていた。大袋を抱えた男が、止めに入った住民を突き飛ばす。
「バルグ!」
「任せろ!」
巨体が二人の間へ飛び込んだ。
「殴り合いなら我が相手になる!」
「余計に悪化させるな!」
「なぜだ!?」
「お前が入ったら建物ごと壊れる!」
「なるほど!」
納得するな。
別の場所では二人の男が布を奪い合っている。
「ガルド!」
「承知」
ガルドは二人の腕をつかむと、そのまま持ち上げた。
「暴れるな。話し合え」
「この状態で!?」
一瞬だけ、いつもの空気が戻った。
でも、笑えなかった。
騒ぎは一か所じゃない。
市場。共同倉庫。工房。
あちこちで同じことが起きている。
「直人!」
リリスが追いついてきた。
「このままでは広がります」
分かっている。
そして、原因も。
商品が動く。
交換が起きる。
価値が生まれる。
価値が生まれれば、先に確保しようとする人間が現れる。
だったら。
止めるしかない。
「市場を閉める」
バルグとガルドが止まった。
「商品を全部引き上げる。倉庫から百貨店の商品を出すな」
リリスが俺を見る。
「直人」
「物流を止める」
自分の口から出た言葉なのに、喉に刃物が刺さったみたいだった。
バイヤーの仕事は、物を届けることだ。
必要な場所へ、必要な物を。
それを俺自身が止める。
「今すぐだ」
世界一のバイヤーが、物を止める
市場から商品を撤収した。
鏡。鍋。玩具。衣類。工具。
俺が「この国にない物」として選んできた商品が、次々と箱へ戻されていく。
住民たちが集まってきた。
「どうして片づけるんですか?」
「交換は?」
「欲しい物があるんです!」
昨日までなら、嬉しかったはずの言葉だ。
バイヤーなら、これほど嬉しい言葉はない。
「しばらく交換を止めます」
俺は頭を下げた。
「このまま続ければ、もっと争いが起きる」
刺繍布を抱えた女性が前に出た。
「私は何もしてません。ちゃんと自分で作りました。誰からも奪ってません」
「分かっています」
「だったら、どうして私まで?」
答えられない。
「悪いことをした人だけ止めればいいでしょう!」
その通りだ。
でも、誰が悪い?
共同倉庫から物を持ち出した人間か。
有利な交換を求めた人間か。
欲しいと思った人間か。
それとも、市場を作った俺か。
「ごめんなさい」
それしか言えなかった。
物を止めても、傷は消えない
翌日。
宿舎の前に人が来た。
「直人さん。昨日の細い針は、もうありませんか?」
年配の女性だった。
「娘の服を直したくて。交換する物を作っていたんです」
胸が痛んだ。
次に来た職人は、新しい工具を試したかったと言った。
誰も争っていない。
誰も奪っていない。
ただ、欲しい物がある。
俺は争いを止めるために、その人たちからも選ぶ自由を取り上げた。
「直人」
リリスが隣に立つ。
「正しかったと思うか?」
「分かりません」
即答だった。
「そこは慰めてくれてもいいんじゃないか」
「慰めてほしいですか?」
「……今は、たぶん嫌だ」
「では、しません」
ほんとにしないんだな。
「被害は止まりました」
「ああ」
「市場での争いもありません」
「ああ」
「でも、笑っている人も減りました」
それが一番きつかった。
赤い靴を脱いだ少女
昼過ぎ。
川辺にミアがいた。
一人だった。
その足は裸足だった。
隣に、赤い靴がそろえて置かれている。
「ミア」
少女が振り向いた。
「直人さん」
俺は隣に座った。
少し離れた場所でリリスが待っている。
来ない。
でも、いなくならない。
「靴、履かないのか?」
ミアは首を振った。
「これを欲しいって言ってから、みんな変になったから」
「ミアのせいじゃない」
「でも、私が最初だったんでしょ?」
違う。
そう言おうとして、止まった。
この国で最初に「欲しい」と口にしたのは、確かにミアだった。
でも、それを肯定したのは俺だ。
「欲しいって言っていいんだって、直人さんが教えてくれた」
「ああ」
「嬉しかった。すごく嬉しかった」
ミアは赤い靴を見つめる。
「これを履いたら、お母さんも笑ってた。でも……持ってない子がいた」
小さな指が、靴の赤い革をなぞった。
「私だけ嬉しくなるのって、悪いことなの?」
答えられなかった。
商品を売る方法なら、いくらでも答えられる。
客が来ない店を立て直す方法も。
物流を改善する方法も。
でも。
自分だけ幸せになることは悪いのか。
そんな問いに、値札はつけられない。
「分からない」
俺は言った。
「ごめん。俺には、分からない」
ミアが驚いた顔をした。
「でも、一つだけ分かる。ミアがこれを欲しいと思ったことまで、間違いだったことにはしたくない」
「どうして?」
「欲しいって思ったとき、嬉しかったんだろ?」
「……うん」
「だったら、その気持ちまで消すのは違う」
ミアはしばらく黙っていた。
そして。
赤い靴を持ち上げた。
俺は、履くのだと思った。
違った。
ミアは靴を胸に抱き、それから、ゆっくり地面へ置いた。
「でも、今は履けない」
声が震える。
「これを履いたら、持ってない子の顔を思い出すから」
胸の奥を、何かが貫いた。
「靴なんて……欲しがらなければよかった」
最初に聞いたときより、ずっと痛かった。
少女から靴を奪った者はいない。
俺が与えた「選べる自由」が。
ミアから、赤い靴を履く喜びを奪った。
「ミア」
俺は、それ以上何も言えなかった。
慰めれば嘘になる。
正解を言えば、また俺が決めることになる。
だから、ただ隣に座った。
しばらくして、ミアが帰っていく。
赤い靴は。
その小さな手に抱えられたままだった。
俺が、この国を貧しくした
夕方。
空っぽになった市場の中央に立った。
ほんの数日前まで、ここには何もなかった。
何もなかったからこそ、「持っていない人」もいなかった。
必要な物は共同倉庫から受け取る。
必要がなくなれば戻す。
俺には、それが貧しく見えた。
選べない。
買えない。
欲しい物を自分の物にできない。
だから、豊かにしようとした。
選べるようにした。
自分の物を持てるようにした。
欲しい物のために頑張れるようにした。
その結果。
持つ人と、持たない人が生まれた。
選べる人と、選べない人が生まれた。
昨日まで、この国には「貧しい人」はいなかった。
今日、いる。
俺が作った。
「直人」
リリスが来た。
「俺は、物を届ければ人は幸せになると思ってた」
「はい」
「選択肢が増えれば豊かになるって」
「はい」
「全部、間違ってたのか?」
返事はすぐには来なかった。
やがて、リリスが俺の隣に立つ。
肩が触れそうで、触れない距離。
「分かりません」
「……厳しいな」
「直人が分からないことを、私が簡単に分かったふりをしたくありません」
慰めじゃない。
許しでもない。
ただ、隣にいる。
「俺、バイヤー失格かもしれない」
「そうかもしれませんね」
「そこは否定しろよ!」
思わず振り向く。
リリスは、ほんの少しだけ笑った。
「でも、失格なら、もう一度なればいいんじゃないですか」
「何に?」
「バイヤーに」
笑みが消える。
「正しい直人だから、ここにいるわけではありません」
それだけ言って、リリスは俺の隣から動かなかった。
その言葉が、どんな慰めより痛くて。
どんな慰めより、ありがたかった。
商売をしないほうがいい世界
夜。
眠れずに市場を歩いた。
足元に木彫りの鳥が落ちていた。
老人が交換に出し、「いらない」と断られた物だ。
丁寧に彫られている。
でも市場では、欲しい人がいなければ価値にならない。
商売は物に値段をつけるだけじゃない。
人の仕事にも、時間にも、差をつける。
元の世界で何度も見てきたはずだった。
売れる商品。売れない商品。
儲かる店。潰れる店。
持つ人。持たない人。
それでも俺は、商売は人を豊かにすると信じてきた。
商売がなければ、欲しい物は届かない。
作った物は広がらない。
知らなかった世界と出会えない。
でも、この国は商売がなくても生きていた。
誰も「自分は貧しい」と思っていなかった。
そこへ俺が来た。
「もしかして……」
木彫りの鳥を握る。
商売をしないほうが幸せな世界も、あるのか?
世界一のバイヤーになりたかった俺が。
初めて、商売そのものを疑った。
「元に戻してください」
翌朝。
市場の前に大勢の住民が集まった。
木彫りの鳥を作った老人が前へ出る。
「直人さん。市場を……もう開かないでもらえませんか」
胸が止まった。
「昔に戻してください」
別の女性が続く。
「交換なんてなくても、私たちは暮らしていました」
「喧嘩もしなかった」
「持っている物を比べることもなかった」
「もう商売はいりません」
それは、バイヤーとして一番聞きたくなかった言葉だった。
商品が悪いと言われるより。
店が嫌いだと言われるより。
商売そのものが、いらない。
「分かりました」
俺は頭を下げた。
「市場は閉じます。俺たちの商品も、この国から引き上げます」
深く頭を下げる。
「本当に、すみませんでした」
誰も拍手しなかった。
誰も怒鳴らなかった。
その静けさが、これまでのどんな敗北より痛かった。
俺が決めるのか?
人々が去ったあと。
市場には俺とリリスだけが残った。
「これでいい」
俺は言った。
「この国には、商売なんて必要なかったんだ」
リリスは答えない。
「俺が勝手に豊かさを押しつけた。欲しい物を選べるほうが幸せだって、自分の物を持てるほうが豊かだって」
空っぽの台を見る。
「商売をしないほうがいい世界もある」
初めて、口にした。
「俺が、この国を貧しくした」
もう逃げられなかった。
リリスは「あなたは悪くありません」とは言わなかった。
「次はうまくいきます」とも言わなかった。
ただ、隣にいた。
そのとき。
「待ってください!」
背後から声がした。
振り向く。
最初に手鏡を手に入れた女性が立っていた。
胸に、あの鏡を抱えている。
「市場を閉じるって、本当ですか?」
「ああ」
「私は嫌です」
俺は固まった。
女性の後ろから、もう一人。
さらに一人。
「私もです」
「交換は続けたい」
「自分で作った物で、欲しい物を選びたい」
何を言っている?
さっき、この国の人たちは商売はいらないと言った。
元に戻してくれと。
「直人さん」
手鏡の女性が言った。
「どうして、あなたが決めるんですか?」
「……え?」
「商売を始めたのは、あなたです。でも、やめるかどうかまで、あなたが決めるんですか?」
言葉が出なかった。
後ろから、静かな声がした。
「直人」
リリスだった。
「この国に商売が必要かどうか」
彼女は俺の隣へ来る。
「それを決めるのは、本当に直人ですか?」
答えられなかった。
でも。
今度は、答えを持っていないことの意味が少し違って見えた。
俺が探すべきなのは、正解じゃない。
俺が決めることでもない。
だったら。
俺の仕事は何だ?
空っぽの市場を見る。
商売をやめたい人。
続けたい人。
同じ国で、初めて二つの選択肢が生まれていた。
そして俺は、ようやく気づいた。
選べる自由を持ち込んだ俺自身が。
一番大事な選択を、この国の人たちから奪おうとしていたことに。
第28話 完
次回 第29話
「豊かさは、誰かに決めてもらうものじゃない」
「昔に戻りたい」
「私は、欲しい物を選びたい」
二つに割れる国。
商売を続けるのか。共有の暮らしへ戻るのか。
直人はもう一度「正解」を選ぼうとする。
だが、リリスは問いかける。
「直人が決めるんですか? この人たちの豊かさを」
世界一のバイヤーが次に仕入れるのは、商品ではない。
選択肢だった。
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