第7話 紅白戦前 1年トリオ 泣き虫センターと、ツナマヨの朝
紅白戦の朝。
タイチたちはそれぞれの緊張を胸に、初めての実戦を迎える。
けれどその朝は、ただの試合前ではなかった。
仲間の涙と笑いが交わる、はじまりの朝だった。
ーーというわけで、翌日、紅白戦をやることになった。
朝の更衣室。
カーテンの隙間から差し込む陽光が、ユニフォームを淡く照らしている。
外では鳥の声、そしてグラウンドの方から、誰かのキャッチボールの音が微かに聞こえた。
そんな静かな朝の中で、隣にいたユーリが突然ーー床にペタリと座り込んだ。
膝を抱え込み、肩を震わせて……泣いている。
「ど、どうしたんだ、ユーリ!?」
思わず声をかけると、赤くなった目でこちらを見上げてきた。
「う、うぅ……ボク、野球下手だから……絶対みんなの足、引っ張るよぅ……」
その声は、小さくかすれていた。
試合前の空気の中で、その涙だけがやけに目立って見えた。
「そんなことないだろ、ユーリ。上手いはすだ。あの足の速さを見ればわかるよ」
「!? そ、そんな……上手いだなんて。ボクの家、ちょっと変なんだよ。
昔、プロ野球選手を出したとかで……野球、やらないといけなくてぇ……」
メソメソ泣きながらも、途中で言葉が震えて止まった。
その目には、“好きなのに怖い”という、複雑な色が宿っていた。
「じゃあ……野球、本当は嫌いなのか?」
「いや……えっと、嫌いというか……そうでもないのかな……
上達すると嬉しいし……うん」
涙の奥に、ほんの少しだけ笑みがのぞいた。
その笑顔は弱々しくて、だけど、どこか誇らしげだった。
(……この笑顔、守ってやりたいな)
「ユーリ、一緒に頑張ろうよ。俺、ほぼ初心者だけどさ、頑張るから」
そう声をかけたのは三輪だった。
朝日を背に立つその姿は、でかい。
でも手にはーーやっぱりおにぎり。
「……三輪、お前まだ食ってんのかよ」
「うん、3個目」
「いやどこに隠し持ってたんだよ!?」
三輪は気にも留めず、もぐもぐと咀嚼を続けた。
そして、真顔でぽつりと呟いた。
「まぁ……俺も頑張るから……美味しかった」
「……いや、どっちの話だよ!?」
思わずツッコむと、ユーリが「ふふっ」と笑った。
涙の跡が、陽の光を受けてきらりと光る。
「うぅ……三輪がそこまで言うなら……ボク、もう少し頑張ってみるよ」
「おう。頑張ったら次ツナマヨ分けてやる」
「いらないよっ!」
小さな笑い声が、朝の空気に混じって弾けた。
緊張と不安に包まれた更衣室の中で、それが最初の“チームの音”だった。
オレはロッカーを閉める。
金属の音が静かに響く。
その音の向こうで、朝の光が少しだけ強くなった。
(……不安も、笑いも。これが“仲間”ってやつか)
胸の中がじんわりと熱くなる。
外から聞こえるボールの音が、まるで心臓の鼓動みたいに重なった。
紅白戦の朝が、始まる。
着替えを終えて、グラウンドへ向かう廊下。
朝の光が窓ガラスに反射して、制服の白地がやけにまぶしく見えた。
まだ静かな校舎の中に、スパイクの音がコツコツと響く。
「なあ、タイチ。そもそも紅白戦って何?」
背後から三輪が、まるで今起きたみたいな声で尋ねてきた。
「あ、そうか。三輪は知らないんだっけ」
オレは思わず苦笑した。
「紅白戦ってのは、チームを赤と白に分けて試合する形式だよ。
今回はオレたち一年生組と、先輩たち上級生組に分かれて戦うんだ」
「へぇ、なるほど……。でも、俺ら三人だけで勝てるのか?」
「……あのな、一応他にも一年いるからな?」
「そうなのか?」
完全に知らなかったらしい三輪が、真顔で首をかしげる。
「いや、いたよ! 自己紹介あっただろ!?」
「ごめん……半分寝てた」
「寝るなぁっ!!」
オレのツッコミが廊下に響き、ユーリが吹き出した。
その笑い声が、朝の空気を少しだけ軽くした。
しかし、グラウンドに近づくにつれてーー
横を歩くユーリの足取りがだんだん遅くなっていった。
下を向いたまま、小さな声でつぶやく。
「でも……ボ、ボクたち一年だけで、先輩たち相手じゃ絶対勝てないよ、タイチ……」
春風が校舎の隙間を抜けていく。
その声は、その風にさらわれそうなくらい小さかった。
「そんなの、やってみなきゃ分からないだろ」
オレは迷わず言葉をかぶせた。
「始める前から諦めてたら、その時点で終わりだ」
強く言ったつもりじゃない。
けど、自分の胸に言い聞かせるような声になっていた。
風がひとすじ吹き抜け、桜の花びらが一枚、グラウンドへ舞い落ちる。
「……そうだね。やってみようよ、ユーリ」
三輪がにこりと笑い、ポケットから銀色の包みを取り出した。
「……なにそれ」
「ガム」
「なんで試合前にガム?」
「いや、こうすると頭が動く気がするんだ」
三輪は真顔でモグモグ。
噛むたびに肩をぐるぐる回している。
「お前、どんな理屈だよ……」
「集中力上がるんだって。知らんの?」
「知らねぇよ!」
オレのツッコミに、ユーリがまた笑った。
ほんの少しだけ、さっきより元気な声だった。
「わ、分かったよぅ……ごめん、二人とも……」
さっきまでこの世の終わりみたいな顔をしていたユーリが、
今はほんのり笑っている。
その表情を見て、オレは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
(……大丈夫。きっと、風は吹く)
グラウンドに出ると、朝の光が砂をきらめかせていた。
コイントスの結果、オレたちが先攻、先輩たちは後攻。
マウンドには、もちろんエースのリュウジ先輩。
投球練習をするその姿を横目に、オレたちは打順をジャンケンで決めた。
結果ーーオレが一番バッター。
(やってやる……!)
手袋の中の指先が、かすかに震える。
でも、それは恐怖じゃなかった。
胸の奥に、熱い風が吹き始めていた。
視線の先、リュウジ先輩の背中が、まるで巨大な壁みたいに見える。
(超えてみせる。じいちゃん、見ててくれ)
風が一陣、グラウンドを駆け抜けた。
紅白戦、開幕!!
試合前の笑いと、不安と、決意。
それは“チーム”が生まれるための最初の音。
まだ彼らはバラバラだけど、心のどこかで確かに“風”が動き始めた。
次回ーータイチ、初打席。風は、まだ止まらない。




