37 加護なんかなくたって
「私……二人に話さなきゃいけないことがあって」
その言葉を吐き出せたのは、もう陽が沈みかける夕暮れ時になった頃だった。
リズメルが美味しいレストランを知っていると言うので訪れてみると、そこは街でもかなり高いところにある場所だった。
テラス席からは街並みが一望でき、ずっと丘の上のほうにある学園も、校舎の一部が顔をのぞかせている程度には見ることができる。
「まあまあ、そんなに堅くならないでくださいよ!何か大事なことだっていうのはわかりますけど、無理しなくていいんですからね!」
向かい側に座っているリズメルが、私の様子をうかがいつつ、優しい声でそう言ってくれる。
ありがたい……けれど、私はもうこれを言うかどうか悩むので十分に無理をした。
横に座るベラを見れば、彼女は何も言わずに、ただ真面目な顔をして頷いてくる。
本当は、ずっと怖かった。
自分だけでは、この問題の解決方法なんて、どうしたって見つからない。
それで、他の人に相談したとして。
もし、誰も解決方法を知らなかったら?
目の前に存在しているのは、1本の道。
突き当たりには曲がり角があって、その先が行き止まりかどうかを確認することがずっと怖かった。
それでも、もう潮時だ。
「エルに関する、ことなんだけど……」
――私は、知ってしまったことを全て話した。
最初は、途切れ途切れに。
次第に、鮮明に。
リズメルには、私がエルに婚約解消を提案されていることを話した。
ベラには、以前からフライスという令息に婚約を申し込まれていることを話した。
そうして、あの1ヶ月前の魔術訓練のこと。
フライスの乱入のこと。
――エルの、加護のこと。
私の恋心は全部作り物の嘘かもしれないこと。
全部言った、吐き出すように言い切った。
身体の中の空気が、全部抜けてしまったような気がして、喉がからからに乾いてしまっている気がする。
テーブルの上に並べられた、お水の入ったコップに手を伸ばした。
リズメルもベラも、しばらくどちらとも返事をしなかった。
ただ、リズメルはきっと思っていたより深刻な話をされたからか、心配そうな目つきで、黙って私のことを見つめてきていた。
何か声をかけようとしてくれているのだろうけれども、何にも言葉が思い浮かばないのだろうと思えた。
ベラの方は、今は俯いて黙り込んでいるけれど、そのうち怒り出すだろう。
フライスに、エルに。
そして、こんなことをずっと隠し続けてきた私に対しても、きっと彼女は怒るだろう。
今にも、あの甲高く何もかも燃やし尽くしてしまいそうな意地悪な声が、響いてくるだろうと思った。
肩を上下させて、息を荒くしているように見えたから、当然そうだろうと思った。
けれど、そんな予想に反して、彼女はずっと落ち着いていた。
しばらくのあいだ、彼女は何か考え事をしているのか目を閉じていた。
「……エルフィン」
不意に、ベラはため息を吐くようにエルの名前を呟いて。
どうして、その名前を呼んだのだろう。
それから目を開いた時、一瞬、どこか寂しそうな顔をする。
「……それで。これから、姉様はどうするおつもりなのですか」
彼女がまず言ったのは、たったそれだけだった。
何か、強い反応が返ってくると思っていた。
もしくは、質問責めに遭うと思っていた。
どうして隠していたのかと、どうして黙っていたのかと。
けれど、彼女はそんなことを詰めてくる様子はない。
すぐに返答しようとする――
けれども……私はその答えを持ち合わせていないことに気がついた。
そうだ……私はずっと、どうすればいいのかわからずにいたのだから。
目を伏せて、少しつっかえながらも、私は振り絞るように答えた。
「私……。どうすればいいか、わからなくて。自分の気持ちが嘘だって知ったら、それを信じていいかすら、わからなかったから」
迷った時は、自分の気持ちを信じて進め、だなんて、そんなよくある俗っぽい綺麗事に、救われなくなる日が来るなんて思わなかった。
「では……姉様は、ここで諦めるおつもりなのかしら」
私の目をジッと見つめて、ベラはまた尋ねてくる。
言われて、息が詰まる。
……前ならきっと、すぐに諦めたくないと答えられていただろう、と思った。
ただ、エルが好きだというだけで、そう言えていた。
けれど今は違う。
諦めたくないだなんて、簡単に言えるわけがなかった。
まだ空っぽの肺に、私は一生懸命に息を吸い込んで答える。
「……わからない。でももう、諦めるべきなのかなって。だって、もう頑張る意味も……なくなったし」
きっと論理的に、それが正解だということはわかった。
諦めたくないと思う気持ちの全ては、エルが好きという前提があってこそだ。
それが本当は、彼のことなんか好きでもなんでもなかったのだとしたら、むしろ、諦めるべきである気さえした。
ハリボテの気持ちには、何の重みもない。
大切さもない。
尊さもない。
けれども、私がそう言うと、ベラは椅子の向きを変え、身体を私の方に向ける。
そして、アクセサリーのお店の前でやってくれたのと同じように、私の手を取った。
その手は強く、温かかった。
「私は、そうだとは思いませんわ」
彼女は強い口調で、私に言い聞かせるようにそう言った。
……諦める方が、きっとずっといいに決まっているのに。
「エルフィン様のことが好きだという気持ちが嘘だったとして、一緒にいられて嬉しかった気持ちも、婚約者として過ごしてきて幸せだった気持ちも、全部嘘にするつもりですか?」
ぎゅうと手を握り、いつもとは似ても似つかない優しい瞳で私のことを見る。
こんなに言葉を尽くしてくれるなんて、やっぱりベラにも優しいところはあるんだな、と思う。
それでも、申し訳ないけれども、私は彼女に尋ねられて「……嘘だったんだよ。全部。もう頑張る意味もなくなったんだよ」と答えた。
何もかもが、嘘だったに違いない。
エルと出会うだけで胸が高鳴って、目が合うだけで心拍数が早くなり、彼が隣にいるだけで高揚感に包まれて。
その全部が、思い込みだったに違いない。
「幸せを取り戻すために、頑張ろうって思ってた。……でも、どれだけ頑張っても、それで戻ってくるのが上っ面だけの抜け殻だとわかったら、諦める方が合理的だと思うのは当然でしょう」
エルのことなんか、本当は好きじゃないんだから。
婚約解消を撤回させるだなんて馬鹿らしい。
彼と本当に別れることになれば、きっと多少は私も傷つくことになるだろう。
けれどそれも、加護のせいだと思えばどうってことはない。
元々、これまで沢山色々なことで傷つけられてきたのだし、これぐらいはなんでもない。
だから当然だ。
けれどもベラは、私の発言に怒りを持ったように、大声で言って、ガタッと椅子を蹴り立ち上がった。
「……いいえ、当然ではありませんわ!そのような自暴自棄な考え方はやめてください!自分だけ我慢して過ぎ去ればそれでいいなんて考えをするのはやめろって、以前も言ったじゃありませんの!」
それがあまりに急だったもので、少しビクリとして思考が一瞬鈍る。
言い終わってからハッとしたような顔をして、彼女はおもむろに椅子に座ったけれども、私の手を握る強さが変わることはなかった。
――どうして、なのだろう。
私は諦めたいと言っているのに。
それなのに、ベラは今、私に諦めさせたくないかのように必死な顔をしていた。
握る手に汗をかいているのが、とても不思議だった。
魔力暴走後の医務室で話したあの日、ベラは私に、エルのことを諦めろと言った。
中庭でシャルロッテを追い払ってくれたあの日も、ベラはエルのことを散々罵倒して、これまでに見たことがないくらいに怒っていた。
それじゃあ今、エルのことを諦めたいと言っているのに、どうして賛成してくれないのか。
ベラが賛成してくれれば、すぐに決心がつくのに。
優柔不断な私でも、迷い続けた私でも。
ベラが一言、じゃあ諦めましょう、とそう言ってくれたら、それで終わるのに。
彼女は鋭い目つきで私を睨みながら、声の芯を一層強くして、まるで世間知らずの小さな子供でも叱る時みたいに、親身になった声で話した。
「姉様が周囲に怖がられて、蔑まれてきたぶんだけ、エルフィン様がそばに居てくれて、大切にしてくれて、姉様はそのぶん鬱陶しいくらいに私に惚気けて来たのを、忘れたとは言わせませんわ。
その全部が全部、作られた偽物の感情で、自分は幸せだったことなんかなくて、嬉しかったことも楽しかったことも、本当は全部存在しなかったと決めつけるなら、そのほうが嘘でしょう。だって姉様はずっと、幸せそうだったんですもの」
彼女の言い方は、毅然としていた。
それでいて、そこに切実さも内包されているような物言いだった。
確かに、私は幸せだった。
……けれども、そうじゃないだろう。
にわかに、頭に血が昇って、息遣いが荒くなって。
「その幸せも全部、加護のおかげで。私は本当は幸せなんかじゃなくて――」
私はほんの少し、彼女の頑とした態度に苛立ちが湧いて、反論しようとした。
けれども、全部言い切る前に、それは遮られてしまった。
「例え加護だったとしても。幸福を拒否する姿勢は、謙虚なんかじゃありませんわよ。今の姉様は、やっぱり自分は本当は不幸せだったんだと結論づけて、さっさと苦しみから逃げ出したいだけです。
解決方法が見つからないから。頑張る意味を見出だせないから。それを見つけ出すのが、苦しくて辛くてたまらないから。そういうのは、合理的とか、論理的などとは言いませんわ。ただの現実逃避です」
ベラは、冷淡な声でそう言いきって見せる。
まるで私が、考え無しに楽なほうに逃げようとしているみたいに言う。
違う。
私はただ、この先に答えがないんだってわかっただけだ。
どう見ても助かるはずもない大きな落とし穴に落ちたのに、何の凹凸もない壁に縋り付いたってどうしようもないじゃないか。
だから、当然だ。
「現実逃避なんかじゃない。私は――」
けれど、その後に続ける言葉が、どうにも喉から外に出ていかなかった。
思いついているのに、声に出せない。
逃げているわけじゃない。
ただ、行き止まりなだけなのに。
声が、どんどん掠れる。
どこまでも、水分が失われていく気がする。
ベラなら、助けてくれると思っていたのに。
私を、この苦しみから解放してくれると思っていたのに。
また、さっきと同じだ。
視界から色が消えて、今度は座っているのに目まいがして、クラっと前かがみに倒れる。
ベラはすぐに、私を支えるように抱きしめてくれた。
ぎゅうっと強く抱かれて、力の抜けた私には抵抗しようもなく……残酷なくらいに。
心地よかった。
彼女は私の耳元で、また小さな子供に言い聞かせるみたいに言った。
「偽物かもしれないからなんなのですか。……姉様はとっても、幸せだったのですよ。それは事実でしょう。もし、エルフィン様を好きになったのが加護の効果だったのだとしても。
加護なんかクソくらえ、これから本物の感情に変えてやる。そもそも、加護なんかに好きにさせられなくたって、私は最初からエルフィン様のことを好きになったのに、余計なことをしてくれやがって、ふざけるな……なんて。
そんなふうに考えるのは、傲慢なんかじゃありませんわ」
先程の突き放すような声色からは一変して、彼女は優しい声色でそう囁いた。
言われて、私は狼狽えてしまった。
そんなことがあるかもしれないだなんて。
……思ってしまっていいものか。
……私がエルのことを好きなのは、きっと加護のせいだ。
――それじゃあ、もし、エルが加護を持っていなかったら?
……そんなこと、真面目に考えもしなかった。
私は、加護を持っていない彼のことを、好きになっていなかったのだろうか。
誰もが私を怖がって避ける中、怖くても、私を一人の人間として見つめてくれた彼に、惹かれることがなかったのだろうか。
「……私にはそんなことを考えられる自信なんてない」
いつもは平坦に出ていくはずの声が。
喉のせいだろうか、震えた声になって出た。
私だって、運命のようなものを信じたい気持ちはある。
記憶喪失になっても、また相手に一目惚れするだとか。
何度生まれ変わっても、同じ相手と結ばれるだとか。
そういうものと同じで、私は加護なんかなくたって、エルのことが大好きだったに違いない、と……本当は胸を張って言いたい。
だって私は今、エルのことが大好きだから。
それでも、私は物語の登場人物なんかじゃない。
そんなに大見得を切って、なりふり構わず自分の目的のために突き進むことができるような、格好いい主人公のようにはなれない。
しかしベラは、私が弱々しく答えたのと対照的に、強く、慈しみを持った声で、語りかけてくる。
「……それなら、姉様にはきっとその自信が眠っていると私が保証すれば、少しは自信がつくかしら。
姉様は、きっとエルフィン様と、どこでどんな出会いをしていようと、結ばれていたと。……例え身分差のある奴隷と富豪であろうとも、例え憎み合う敵国の兵士同士であろうとも、例え世界の命運を背負う魔王と勇者であろうとも。私は、二人が絶対に結ばれていたと断言してみせましょう。
……姉様を安心させたいから、適当を言っているわけじゃありませんわ。こんな綺麗事みたいな台詞、いつもなら、吐き気を催すくらいですけれど。本当にそうだと信じているから、言えるのです」
確信を持った声だった。
そこには、迷いも騙りもきっとないように思えたけれど。
やっぱり私には、そんな風には思えない。
エルとのあいだに、そんな運命的な繋がりがあるだなんて。
……思ってしまったら、私は戻れなくなってしまう。
それを信じてしまったら、身の丈に合わない願望が溢れ出てしまう。
それなのに。
「例え今の恋心が偽物かもしれなくても、加護がなくたって自分はエルフィン様のことが好きになっていたんだと胸を張るか。それとも、全部騙されていただけの不幸な人間であると、自分にレッテルを貼って諦めるのか。私が決めるのではありません。姉様が決めるのですわ」
そう言って、ベラは私をぎゅうと抱く力を一層強くした。
「ずるいよ」
ふと、胸に熱い何かが込み上げてくるように感じた。
涙なんか出ないのに、目頭が熱くなる。
そんなことはないと、何か口にしようと喉を開くけれど、いつの間にか喉は乾ききって、何も言葉が出てこない。
ベラの背中に回している手に、不意にぎゅうっと力が入った。
開いた口からは声が出なくて。
代わりに、嗚咽が漏れた。
自分でもわけがわからなかった。
涙を流すこともできないのに。
ただ、胸にずっといっぱいに溜まっていた暗い気持ちと枷を全て吐き出すような嗚咽だった。
ベラは、私を突き放して嫌がるでもなく、優しく背中をさすってくれる。
そんな従妹に縋り付いて、私は数十秒もただ、呻くばかりだった。
辛い気持ち、苦しい気持ちが、嗚咽とともに出ていくまで、私はいつまでも彼女に抱きついて離れられなかった。




