1 婚約解消
私は人形じゃない。
心臓はちゃんと動いているし、今だってバクバクと忙しく拍動している。
それなのに顔は動かない。涙も出ない。
だから皆、私を『氷面の令嬢』と呼ぶ。
そして今、私が一番愛して止まない人が――
「マーシィ様、僕は……貴女との婚約を解消してはどうかと考えているのです」
――そんな私を、棄てようとしている。
あまりに突然の言葉に、心臓がドクンと跳ねた。
危うく、持っていたティーカップを取り落としそうになる。
そんなに唐突なものがあるだろうか。
シャングルトン伯爵家のお屋敷にある外庭。
白いテーブルクロスがかかった円卓の周りには、色とりどりの花が咲いていて私たちを取り囲んでいる。
優しい日差しの下、紅茶の湯気が立ち上っている。
こうして彼とお茶を飲む時間が、私は昔から大好きで。
――今日だって、二人で楽しくお茶を飲んでいたところだったのに。
聞いた瞬間に自分の耳を疑って、それから困惑して彼の瞳をジッと見つめた。
どういうことだ。
私は何か、彼に嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。
疑ってみても、その瞳に嫌悪や憎悪はまるで浮かんでいない。
むしろ、その瞳に浮かんでいるのは不安や心配のようなもの。
それでも、私の婚約者であるシャングルトン伯爵家の令息、エルフィン・シャングルトンは確かに言ったのだ。
婚約を解消してはどうか、などと。
「何故ですか」
私は、動揺を表さない平坦な声で尋ねた。
実際は、身体がにわかに熱くなってきて、不安で息が詰まりそうなのだけれど。
それでも、きっと傍から見れば私は冷静沈着そのもので。
そんな私の顔をどこか悲しげに見つめると、エルフィンは持っていたティーカップをゆっくりとテーブルに置く。
精一杯にこちらを気遣うような声音で、彼は答えた。
「貴女は、その……。僕のことが好きではないでしょう?」
言われて、固まった。
彼は一体、何を……。
「もちろんそれは、政略結婚なのだから仕方の無いことだとわかってはいます。……しかし、それでも僕が婚約者であることが貴女にとって重荷になっているんじゃないかと、そう思ってしまうのです」
エルフィンは確信めいた口調で言って、少し顔を伏せた。
彼の青い瞳が、貴女ならわかってくれるでしょう、と言わんばかりに揺れている。
まるで、そうであることが当然だと結論づけてしまいたいようだった。
けれど、私は当惑してしまう。
一体、何を言ってるんだ……?
彼の存在を重荷と思ったことなど一度だってない。
不安も不満もない。
婚約解消なんて、考えたことすらなくて。
――そもそも、私は貴方のことが好きなのに。
「いえ、重荷になどなってはいないですけれど」
顔が沸騰してしまいそうな感覚になっているのに、先ほどと同じように声は平坦なままで飛び出ていく。
私の声を聞いて、エルフィンは顔を上げる。
彼は何故か辛そうに唇を噛んでいた。
「気を遣わなくてもいいのです、マーシィ様。貴女は婚約者として相応しくあろうと沢山努力していました。……相応しくなかったのは僕の方だ」
彼はいくらか言い淀んで、数秒か、言葉を探しているようにティーカップを握る手をそわそわと動かした。
細くて白くて……けれど、しっかりと男性的なゴツゴツした指が、テーブルクロスの上を所在なさげに撫でている。
青い瞳が揺れ動くのを見ていると、こちらまでその緊張が伝わってくる。
やがて言葉を探し当てたのか、言わないようにしていた本音が溢れてしまったのか、彼は言った。
「僕たちは小さい頃から一緒に居ましたよね。……それなのに僕は……貴女が泣くところも、怒るところも、何より笑うところだって、一度も見たことがない」
目を伏せながら、こちらを見ずに。
低く重たい声だけが、投げつけられる。
「昔からずっと、貴女がそういう人なのは知っています……。元よりこれは政略結婚で、仲良しこよしをする必要があるわけでもない。……けれど、僕は婚約者で……一緒に居て少しも笑顔にさせられないのなら、それはもう婚約者として失格でしょう?」
言ってから、彼は自信が無さそうに乾いた笑みを浮かべる。
虚勢を張ったようなその笑みに、私の心はチクリと刺された気がした。
……確かに、彼の言っていることはその通りだ。
彼の前で、私は泣いたことも、怒ったことも、ましてや笑ったことさえない。
今だって、すぐにでも叫び出したい気持ちでいっぱいなのに、怒りや不安で栓をされているみたいに声が上手く出なかった。
これのせいか。
これのせいで、私は彼に棄てられようとしているのか。
ティーカップを握る手が震える。
それはおかしいじゃないか。
私は素早く何か反論しようとして「それは確かにそうですが、でも、私は別れたいだなんて――」と言いかけた。
どうにかして訂正しようとした。
けれど、彼は私の発言を遮って言葉を続けた。
「……わかっています。僕はつまらない男だ。元より、家督を継ぐわけでもない次男です。魔術が使えること以外、なんの取り柄もない。それなのに……貴女は優しいから、きっと無理をしているのでしょう。でも……マーシィ様、もう大丈夫です。僕との婚約を解消してもよいのです」
――決めつけてきた。
なんて自分勝手なんだと思った。
私の気持ちなど、彼にわかるはずもない。
塵ほどだってわかっていない。
それなのにどうして決め付けられなければいけないんだ。
心臓がやけに大きく脈打つ。
吐く息が荒くなって、身体が更に熱くなっていくのが自分でもわかった。
無理をしている?
本当に嫌なら今、こうして一緒にお茶を飲んでいるわけがないじゃないか。
彼にそう思われていることが堪らなく辛い。
けれど、私はそれを表情には出さない。出せない。
沈痛な空気に耐えかねた様子で、エルフィンが椅子から立ち上がった。
このまま行ってしまうのだろうか……それはダメだ。
彼を引き止めようとして、私は急いで口を開いた。
「エル、勝手に私の気持ちを決めつけないで。私は貴方に対して気を遣っていないし、無理もしていません。むしろ、貴方と婚約できて幸せだった。それに、婚約を疎ましく思ったことも一度だってない。……だから私は、婚約解消だなんて望んでいません」
彼の瞳をまっすぐ見て、ハッキリとそう言って誤解を解こうとした。
いくら冷たい声音でも、例え無表情だったとしても、心からそう言えば、彼はいくらか考え直してくれるかもしれないと願っていた。
けれど、それでもエルフィンは、私の言葉を受け付けてくれなかった。
「マーシィ様、もう耐えられないのです……!」
今までよりずっと、拒絶の色が強い口調だった。
肩が上下している。
彼も鼓動が早くなっているのだろうか、息が荒かった。
「はっきり言って、僕はどうしても信じられない……。貴女ではなく、僕自身のことをです。貴女を笑わせられない自分のことが嫌になったんだって、そう言いたいのがわかりませんか?……だからどうか、もう引き止めないでいただけませんか」
突き放すようにそう言うと。
目を伏せて、彼は自嘲的に声を漏らす。
「……せめて、貴女との別れは円満なものでありたい」
別れ……。
彼は悲しげにそう言って背を向けて。
けれど、それから……少しだけこちらをちらと顧みて。
「……もちろん、今すぐ婚約解消とは言いません。学園内での体裁もありますし、これは僕の勝手な提案ですから、メルクロン公爵家の面子に傷をつけることは避けたい」
きっと私が思うよりずっと前から検討していたのだろう、悩んでいたのだろう。
やけに整然とした口調で彼は話した。
「……解消の理由は、僕が無礼を働いたこと。そして表向きには、貴女のほうから僕を婚約破棄してほしいんです。ただ、それをすぐにというのが無理なのはわかっているので……」
そこまで言うと、彼は一瞬言いやめて、それから大きく息を吐いた。
言いにくそうに躊躇っているようにも見えて、このまま話が進まなければいいとさえ願ってしまう。
けれど、彼はやがて続きを言った。
「……三ヶ月後の期末試験後の舞踏会までに。それまでには上手く話をまとめて、婚約の解消を公表することにしましょう」
そう言い捨てると、今度こそ彼は完全に背を向けた。
言い切ったと同時に、躊躇いを捨てたみたいに、彼はお屋敷のほうへ歩いていく。
だめだ、このままだと、行ってしまう。
「待って」
咄嗟に椅子を蹴るように立ち上がった。
弾けるように声が出た。
それでもエルフィンは、華やかな花壇に挟まれた鮮やかな舗装の施された道を、足早に歩いていった。
彼は振り向いてくれなかった。
……どうして。
私は、知っている。
彼がとても優しくて、臆病な人であることを。
そんな彼が、こんなことをするなんて。
どうして一方的に婚約破棄を突きつけられたのか、提案とは名ばかりの押し付けにも等しい今の行為を、どう受け止めればよいというのか。
――婚約破棄を提案された。
エルは優しく「解消」という言葉を使っていた。
けれど、あんなふうに強引に押し付けてくるのは、つまり「破棄」と同義だ。
私は一方的に棄てられようとしているのだ。
怒りで握りこぶしに力が入る。
不満が頂点に達して、私は去っていく彼の背中に向かって大きく叫ぼうとした。
叫ぼうとした、けれど……胸がつっかえて、やがてその声は小さな呟きになって放たれた。
「……私は貴方を愛しているのに」
当然、その声が彼に届くことはない。
ドレスの裾を引き裂いてしまいそうなくらいに、強く掴んで。
私は力なく、その場に座った。
もう、立っていられる気力がなかった。
彼は変わってしまったのかもしれない。もしかすると、嫌われてしまったのかもしれない。
……それならば、きっと全ては私の責任だから。
彼だけは私を愛してくれると思っていた。
幼い頃からずっと、婚約者としてそばに居てくれたから。
けれどきっと、その考えが傲慢だったのだ。
愛を伝える努力をしてこなかったから。
それでも愛されると慢心していたのだから。
考えてみれば、当たり前だ。
――しかし。
それでも、例えそうだったとしても。
私は彼を愛している。
それだというのに、潔く受け入れろと……?
……そんなことは、とても私にはできない。
ふと、飲みかけの紅茶が入ったティーカップの中を覗き見た。
そこにはこんな状況でも悲しそうな顔一つせず、無表情な自分が映っている。
嫌な顔だ。
こんな顔じゃ愛されるわけがないじゃないか。
……けれど、愛されなくちゃならない。
「三ヶ月後、期末試験後の舞踏会で、か……」
不意に、彼が言った言葉を反芻する。
少なくともそれまでの間は、彼と婚約者のままでいられる。
私は心の底から彼を愛している。
けれど私は、その感情をまるっきり心の中にしまったままだ。
このままで終わっていいとでも?
いいや、いいわけがない。
絶対に愛を伝える。絶対に信じてもらわなければならない。
この三ヶ月の間に、私は彼の信用を取り戻さなくてはならない。
何故なら私は、私の婚約者のことが――エルフィン・シャングルトンのことが大好きだからだ。




