夏休みの葛藤
翡翠家のリビングに、重々しいため息がひとつ響き渡った。
「……終わらん」
時刻は午後二時。冷房の効いた涼しいリビングのはずなのに、俺の背中には不快な冷や汗が流れている気がする。
ダイニングテーブルの上には、ぶ厚い数学のハイレベル問題集、白紙のページが目立つ国語の現代文ワーク、そして手を付ける気すら起きない真っ白な読書感想文の原稿用紙が、絶望的な山を作っていた。
そう、高校生の夏休みにおける最大にして最強の敵——『夏休みの宿題』である。
「はぁ……なんで夏休みの宿題って、こんなにボリュームおかしいんだよ……。そもそもだ、休みの期間に対して課されるタスクの量が圧倒的にバグってるだろ」
シャーペンをカチカチと無意味に鳴らしながら、俺はぐったりとテーブルに突っ伏した。
誤解のないように言っておくが、別に俺がこれまでプールに行ったり楓と遊んだりして『浮かれていた』わけではない。違うのだ。俺の辞書に「浮かれる」という文字はない。あれはあくまで、計画的かつ不可避な「リフレッシュという名のエネルギー充填」にすぎない。人間、常にフルパワーで走り続けることなど不可能なのだから、あのレジャーは生物学的に必須のプロセスだったと言える。
だがしかし、この宿題の山はどうだ。
「いいか、よく考えてみろ。夏休みというのは文字通り『夏を休む』ための期間であって、『夏を学校の代わりに机にかじりついて過ごす』ための期間ではないはずだ。それなのに、なぜわざわざご丁寧に問題集の束を持たせるのか。文部科学省の陰謀か? それとも日本の教育界が俺の自由な精神を束縛しようとしている国家規模の圧力なのか?」
「……勝手に国家の陰謀に仕立て上げないでくれる?」
背後からひょっこり顔を出した彩花が、呆れたような、しかしどこか楽しそうな笑みを浮かべて俺の隣の椅子に腰掛けてきた。
今日の彩花は涼しいフリルのブラウス姿で、わざわざノートと参考書を抱えて持参してくれている。
「も〜、悠くんが電話で『宿題の量に人権が侵害されている』とかよくわからない文句を垂れてたから、見かねて解説してあげにきたのに。また変な持論を展開してたでしょ?」
「変な持論とはなんだ。極めてロジカルかつ哲学的命題だろ」
「はいはい、そうやってすぐ屁理屈をこねる」
彩花はぷくーっと綺麗に頬を膨らませると、俺の数学の問題集をバサッと容赦なく開いた。
「ほら、悠くんが『国家の圧力だ』とか現実逃避してる間に、時間はどんどん過ぎていくの! この二次関数の最大最小問題はね、平方完成をしてグラフの軸に範囲が入ってるか確認すれば秒で解けるの。……って、聞いてる!?」
「聞いてる聞いてる。だがな彩花、数学の二次関数なんて、将来スーパーでレジ打ちするときに使うか? 使わないだろ。つまりこの問題集を解くという行為は、いわば『人類の脳内リソースの無駄遣い』という現代社会の矛盾をダイレクトに体現していると言っても過言では――」
「はい、論破ー!」
彩花の容赦ないチョップが、俺の頭頂部に綺麗にヒットした。
「いてっ!?」
「屁理屈をこねる暇があったらペンを動かす! いい? この問題はね、こうやって式変形して……って、なんでそんな無駄なことに頭使うのよ」
クスクスと小気味よく笑いながら、至近距離でテキパキと解説を書き込んでいく彩花。
ふわりと漂ってくる爽やかなシャンプーの香りと、耳元で響く弾んだ声のせいで、俺の脳内は別の意味で完全にフル稼働せざるを得なくなっていた。
(くっ……理論武装して論破しようと思ったのに、物理的な至近距離とシャンプーの香りの前では俺の持論も形無しじゃないか……!)
そんな俺たちのグダグダなやり取りを、少し離れたリビングのソファから、冷ややかな、しかし的を射た視線で見つめている人物がいた。
「……お兄ちゃん、おしゃべりしてないでさっさとやればいいのに。屁理屈こねる頭があるなら、もう半分くらい終わってるでしょ」
クッションをぎゅっと抱え込んだ楓が、じとーっとした目でこちらを凝視している。
「これは大人の『大いなる思想的抵抗』なのだよ、楓」
「ふん、ただ面倒くさいから現実逃避してるだけにしか見えないもん。楓のほうがよっぽど計画的だもんねー」
「ぐっ……! 妹のくせに論理で殴ってくる……」
「ふふっ、楓ちゃん大正解! 悠くん、楓ちゃんにも正論でボコボコにされてるよ?」
彩花にまで面白そうにニヤニヤと笑われ、俺はぐぬぬと声を詰まらせるしかなかった。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。俺のプライド的にも、持論の正当性を証明するためにも、この宿題の山を華麗にクリアして見せる必要がある。
俺がむすっとペンを握り直していると、彩花はトートバッグをごそごそと漁り、何かを取り出した。
「よし、じゃあこれ賭けにしようか!」
「勝手に賭けを作るな」
「勝負じゃなくて『交渉』! 悠くんが今日の夕方までに、この数学のワークと現代文を全部終わらせたらさ……私から『特製のご褒美』を出してあげる!」
「ご褒美……?」
「うん! 実は昨日、家でこっそり手作りのクッキーを焼いてきたんだ〜。もちろん、宿題が終わるまでは絶対におあずけだけどね!」
彩花が嬉しそうに見せたのは、可愛らしいリボンでラッピングされた、自家製クッキーの詰まった透明な袋だった。
中には綺麗に焼き上げられたチョコチップクッキーや、型抜きのクッキーが入っていて、ほのかに甘い香りが漂ってくる気がする。
「……マジで? それ、彩花の手作りか?」
「うん! 悠くん、甘いもの好きでしょ? だから……勉強のモチベーションになったらいいなって思って」
少しだけ頬を朱に染め、恥ずかしそうに視線を逸らしながら言う彩花の姿。
その破壊力抜群のピュアさに、俺の胸は盛大にドクンと跳ね上がった。先ほどまでの「国家の圧力」に関する哲学的な持論など、脳内のゴミ箱へ一瞬で放り投げられた瞬間だった。
さらに、その言葉を聞き逃さなかった楓が、ソファから素早く立ち上がって俺の背中にぴょんと飛び乗ってきた。
「お兄ちゃん! クッキー! 絶対にクッキー食べるんだからね! 頑張らなかったら楓がお兄ちゃんのゲームのレアデータ全部消すから!」
「待て待て待て待て! 脅しが物騒すぎるだろ! わかった、やるよ! やってやろうじゃねえか、この資本主義の甘い罠に乗ってやるよ!」
結局のところ、どんなに立派な持論を並べ立てようとも、目の前に最高すぎるニンジン(と手作りクッキー)をぶら下げられた男のチョイスは一つしかなかった。
「よし、覚悟決めろ……! 全速力でこの不条理な宿題を叩き潰してやる! 彩花、次の問題の解説頼む!」
「ふふっ、さっきまであんなに文句言ってたのに、分かりやすすぎ! よし、じゃあ次は応用問題だ、ビシビシいくから覚悟してね、悠くん!」
こうして、相変わらず文句を垂れつつも猛烈な勢いでペンを走らせる俺と、横で的確かつ容赦なくスパルタ指導をする彩花、そして「早くクッキー食べたいなぁ」と応援半分プレッシャー半分の言葉を投げかける楓の姿で、翡翠家のリビングは一気に活気づいていった。
夏休みの宿題という試練の果てに待っている甘いご褒美を目指して、俺のどうでもいいプライドをかけた戦いは、夕暮れ時までまだまだ続くのだった。




