これから
中間テストの全科目が終わり、数日が経過した。
教室は、一人ひとりに配られた『中間テスト個人成績表』の用紙を手に歓喜の声を上げる者と、絶望に打ちひしがれて机に突っ伏す者という、いつもの二極化された空間と化していた。
「悠! 見ろ、俺の数学! 平均点ギリギリ超えて赤点回避したぞ!」
目の前で智也が、総合得点と各教科の平均点がズラリと印字された成績表を掲げながら、まるで全米を救ったヒーローのようなドヤ顔を決めていた。
「よかったな。これで追試と補習は免れたわけだ」
「おう! マジで悠のおかげだ! お前が放課後に叩き込んでくれなかったら、俺の高校生活はここで終了するところだった! 何か奢らせてくれ!」
「じゃあ、学食のプリンで」
「よっしゃ任せろ! 一番高いやつ奢ってやる!」
豪快に笑いながら自分の席へと戻っていく智也の背中を見送り、俺は自分の引き出しに放り込んだ成績表を何気なく引っ張り出す。
全科目の総合順位は、先日掲示板に貼り出されていた通り、学年でちょうど真ん中あたり。平均点を少し上回る程度で、赤点にも引っかからず目立ちもしない。俺の計画通り、完璧な『普通』の成績だった。
ふと視線を前に向けると、彩花が先生から成績表を受け取り、静かに自分の席へ戻るところだった。
学年2位という結果自体はすでに掲示板で分かっていたことだが、あの日、河川敷で泣きじゃくっていた少女の面影はどこにもない。彩花は自分の総合得点と平均点を見つめると、ふう、と小さく息を吐き出し、どこか吹っ切れたような穏やかな表情を浮かべていた。
1位を取れなかった。菜奈さんを越えられなかった。
……だけど、今の彩花はその事実に対して、以前のような鬼気迫る悲愴な執着も抱いていないように見える。
俺がそんな彩花の背中をぼんやりと眺めていると、急に彩花がくるりとこちらへ振り返った。
視線が重なる。
「……あ」
気まずくなって俺が逸らそうとした瞬間、彩花は悪戯が成功した子供のように、ふっと可憐に口元を緩めた。そして、隣の席の智也たちに聞こえないような小さな声で、そっと囁く。
「悠くん、今日の放課後……少しだけ時間もらえる?」
「……テストも全部終わったし、断る理由もないけど」
「ふふ、やった。じゃあ、校門の前で待ってるね」
嬉しそうに微笑み、再び前を向く彩花。
……なんだか、あの河川敷での出来事を境に、彩花の雰囲気が微妙に変わった気がする。
以前のような『完璧な優等生』としての取り繕った空気感が消え、どこか肩の力が抜けたような、それでいて「凛」とした佇まいを纏っているのだ。
(まあ……悪い変化じゃないんだろうけど)
俺は心の中で小さく溜め息をつきながら、残りのホームルームを消化するために鞄を整えるのだった。
――放課後。
終礼が終わると同時に荷物をまとめた俺は、約束通り校門へと向かった。
初夏を思わせる爽やかな風が、校門の脇に植えられた青々とした樹木を揺らしている。校門の前では、すでに彩花が鞄を両手で前抱えにしながら待っていた。
「待たせたか?」
「ううん、私も今来たところだから!」
ベタな青春ドラマのようなやり取りを交わしながら、俺たちは並んで駅への道を歩き出す。
少し離れた後ろから、部活に向かう生徒たちの威勢のいい声が聞こえてくる。テストが終わった放課後特有の、どこか解放感に満ちた空気が街全体に漂っていた。
「……今日配られた成績表、見たよ」
並んで歩きながら、彩花がぽつりと切り出した。
「数学は、96点だった」
「すごい点数だけどな」
彩花と学年1位の差はたったの2点であった。1位と2位の明暗を分けたのが数学であると彩花は考えているようだ。
「うん。でもね、不思議なの」
彩花は足を止めずに、青空を見上げるように顔を上げた。その横顔には、翳りのひとつもない。
「悔しいなっていう気持ちはあるよ? もっと勉強しておけばよかったなとか、あの計算ミスがなかったらなとか、そういう普通の悔しさはあるんだけど……。前みたいに『世界が終わっちゃう』みたいな絶望感は、全然ないんだ」
「なら、よかったよ」
「うん。悠くんが言った通りだったね。私が1位になろうが2位になろうが、私をちゃんと見てくれてる人は、最初から『私』を見てくれてた。お姉ちゃんの妹としてじゃなくて、柏村彩花として」
彩花は一度立ち止まり、くるりと体を回転させて俺と正面から向き合った。
風が彩花の綺麗な黒髪をふわりと持ち上げ、甘いシャンプーの香りが俺の鼻腔をくすぐる。
「私、ずっと勘違いしてた。誰かに認めてもらうために変わらなきゃいけないんだって。完璧な自分にならなきゃ、誰も私を愛してくれないんだって……そう思い込んで、自分で自分を追い詰めてたの」
「真面目すぎるんだよ、彩花は」
「ふふ、そうだね。私、すっごく馬鹿だった」
あの日、河川敷で俺が投げつけた酷い言葉を、彩花は心から嬉しそうに反芻する。
「でもね……悠くんのおかげで目が覚めたよ。私は私のままでいいんだって。完璧じゃなくても、弱くても、泥臭くても……私のままで頑張っていけばいいんだって、そう思えたの」
「……俺は何もしてないよ。勝手に彩花が自分で気づいただけだ」
「ううん。悠くんが私を見つけてくれたの。私の話を黙って聞いてくれて、私の馬鹿なところを叱ってくれて……私のことを、ちゃんと見ててくれた」
彩花が一歩、俺との距離を詰める。
あの日、俺の頬に柔らかい唇を寄せた時と同じ距離感。
学年一の美少女と称されるその顔立ちが、夕日を浴びて朱色に染まり、息をのむほど美しく輝いていた。
「だからね、悠くん」
「ん?」
「私、決めたの」
「何をだ?」
「お姉ちゃんを追いかけるのは、もうやめる。誰かの模倣じゃない、私だけの目標を見つけるの」
「それはいいことだな」
「うん! ……でね、私の新しい目標、教えてあげようか?」
彩花は少しだけ背伸びをして、俺の耳元に顔を近づけた。
悪戯っぽい、けれどどこか真剣で、どこまでも一途な瞳が俺を射抜く。
「私の新しい目標はね――悠くんに私を特別な女の子として見てもらうこと」
「……っ」
「今はまだ、『初恋の相手の妹』で『学年一の美少女』……ただの幼馴染かもしれない。でもね……いつか絶対に、悠くんにとって『一番大切な女の子』になってみせるから」
耳元で囁かれたその宣言に、俺の心臓がドクンと大きな跳ね上がりを見せた。
顔が熱くなるのが自分でもわかる。普段なら「はいはい」と適当にいなすところなのだろうが、今の彩花のあまりにも真直ぐな眼差しを前にしては、そんな冷めた態度を取ることすら許されそうになかった。
「……覚悟しておいてねって、言ったでしょ?」
彩花は顔を離すと、いたずらっぽくクスリと笑った。その笑顔は、今まで俺が見てきたどの彩花の顔よりも魅力的で、眩しかった。
「……勝手に言ってろ」
「ふふ、照れてる照れてる!」
「照れてない」
「嘘だ!耳が真っ赤だよ?」
「夕日のせいだ」
「ふふっ、そういうことにしておいてあげるね!」
ご機嫌な様子で再び歩き出した彩花の背中を追いかけながら、俺は深々と溜め息をつく。
(……やれやれ。平穏な高校生活を送るつもりだったんだがな)
面倒事はごめんだ。目立つことも、人間関係の波風に巻き込まれることも望んでいない。
省エネで、穏やかで、ただ通り過ぎていくだけの日常。それが俺の望む高校生活のはずだった。
だけど――。
前を歩く彩花が振り返り、満面の笑みで俺に手を振る。
「悠くん、早くー!置いていっちゃうよ?」
「走るな、危ないぞ」
「じゃあ手、繋いでくれる?」
「繋ぐか」
「えー、冷たいなぁ!」
呆れながらも、俺の足取りは自然と彩花の隣へと並ぶ。
初恋の人の妹。学年一の美少女。
そして……俺の平穏な日常を、鮮やかに塗り替えていく最高の幼馴染。
これから始まる俺たちの毎日は、きっと今まで以上に騒がしく、面倒で――そして少しだけ、愛おしいものになるのだろう。
そんな予感を胸に抱きながら、俺は茜色に染まる通学路を、彼女と共に歩んでいくのだった。
どうも! 白浜 海です!
これにて第1章を完結とさせていただきます!
大変ありがたいことに、続きが気になるという感想を頂きました( ¯꒳¯̥̥ )
本当にありがとうございます!!
そう言ってくださる方がいる限りは続けていきたいと考えております!!
今度ともよろしくお願いいたします!!




