7. 「嫌なら断れ」
呟きは、意図せず口から零れ落ちていた。
彼は眉一つ動かさず、
「そうかもしれないな」
「……『そうかもしれない』で済むのですか」
「済ます」
彼は再び、窓の外へ視線を戻した。
それで会話は終了だ、と言わんばかりの拒絶。私の言葉を切り捨てたのではなく、そもそも「考慮に値しない」と判断されたのだ。
(大嫌い。……こんな人)
こういう人間を、どう扱えばいいのか分からなかった。
怒鳴るわけでも、冷笑するわけでもない。
ただ、感情の届かない場所に立って、ひたすら合理性という名の石を投げてくる。
「嫌なら断れ」
窓の外を見つめたまま、彼は無造作に言い放った。
「え……?」
「この縁談だ。嫌なら断ればいい。俺は別に何も困らない」
振り返りもしない。まるでもう、私との会話に興味を失ったかのような口ぶり。
私は深く、深く息を吸い込んだ。
肺に流れ込む冷えた空気には、埃の匂いと、古い木の匂い、そして台所から漂うわずかな生活の匂いが混じっていた。
断れる。
今、ここでこの傲慢な男を追い出せば、すべては終わる。
この家も、領地も、私の居場所も。
……すべてが、霧散する。
私は彼の背中を見つめた。
外套の下の、隙のない黒い上着。その背中はあまりに広く、強固な壁のように立ちはだかっている。
(この人と……本当に、やっていけるの?)
問いに対する答えは、まだ出ない。
「……応接室へご案内します。帳簿と地図を、お見せしましょう」
絞り出した言葉に、彼は一瞬だけこちらを見た。
「ああ」
それだけ。
私は踵を返し、歩き出した。後ろから、重くて静かな足音がついてくる。
廊下は、来たときよりもさらに長く、遠く感じられた。
☆
夜が深まると、もともと静かな屋敷はさらに静寂の底に沈んでいく。
昼間なら、風が吹き抜ける音や遠くの鳥の声が聞こえる。オリヴァーが廊下を歩く軽い足音や、ランドルフが扉を開閉する日常の響きもある。
けれど夜になれば、それらはすべて闇に溶けて消えてしまう。
広い建物に、自分一人だけが取り残されたような錯覚。
「……」
私は自室の机に向かい、背もたれに体を預けていた。
広げられたままの『ヘインフォード領地台帳』と『ヘインフォード領地全図』。今日、レオ・グランツという男とともに確認した資料だ。
彼は二時間ほど滞在し、最低限の質問だけをして嵐のように去っていった。
別れ際の挨拶さえ「また来る」という、何の感情もない一言だけ。
一本の蝋燭が、机の端で静かに燃えている。炎が爆ぜるたび、壁に映る私の影が歪に揺れた。
ふと、思い立って机の引き出しに手をかける。
一秒、二秒。
指先が、ほんの少しだけ躊躇った。けれど意を決して、ゆっくりとそれを引き出す。
奥の方に、布に包まれた小さな塊があった。
そっと持ち上げると、布越しに固く細い感触が伝わってくる。
その輪郭は、今の私の指よりも少しだけ細い。
包みを解くと、中から一つの指輪が現れた。
銀の台座に、小さな青い石をあしらっただけの簡素なもの。派手さはないけれど、光を吸い込むと海のように深い青に輝く。
これは、両親からの贈り物ではない。
十二歳のとき、街の小さな店で自分のお小遣いを貯めて買った、安価なものだ。
理由はただ、綺麗だと思ったから。
けれど、その指輪は年を経るごとに、私の中で特別な意味を持つようになっていった。
(好きな人と結婚するとき……この指輪を持っていこうって、決めていたのよね)
家紋の入った家宝でも、契約の証でもない。
自分が自分のために選んだ、唯一の「自分のもの」を持って嫁ぐ。
そんな、幼くも切実な夢の象徴。
手のひらに乗せてみると、驚くほど軽かった。




