11. 「現実を理解」
私は、言葉を失った。
論理としては理解できる。けれど、納得はできなかった。
名前さえ呼ばない関係。お互いをただの『役割』としてしか認識しない――それが、この人の定義する『夫婦』の形なのだ。
(期待……してたのかしら。私)
静かな失望が、澱のように積もっていく。
そんな自分がひどく滑稽に思えた。
「午後は領内を視察に行く」
彼は立ち上がり、椅子を引く無機質な音を響かせた。
「私も同行します」
「来い。お前にも『現実』を理解してもらう必要がある」
現実を理解しろ、という言い草にカチンときた。
私はこの地で生まれ育ったのだ。昨日今日来たばかりの人に何を。
だが、その反論を飲み込んで、私は彼を呼び止めた。
「グランツ殿」
扉に手をかけた彼が、わずかに振り返る。
「私のことは、クラリスと呼ばなくて結構ですわ」
少しだけ間を置いて、私は続けた。
「ですが、私はあなたのことを『レオ』とお呼びしてもよろしいかしら?」
彼の眉が、わずかにピクリと動いた。
驚きか、あるいは呆れか。
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうにそう吐き捨て、彼は部屋を出て行った。閉まった扉の向こうで足音が遠ざかっていく。
私は一人、静まり返った執務室で大きく息を吐き出した。勝ち誇ったわけでもない。ただ、一つだけ自分の『意地』を通した。
それだけのこと。
窓からの光の中で、埃の粒がゆらゆらと漂っている。
私は立ち上がり、外出の準備のために部屋を出た。
廊下を歩く自分の足音が、昨日よりも少しだけ力強く聞こえた気がする。
☆
馬を出すほどの距離でもなかったので、私たちは徒歩で領内を回ることにした。
屋敷の裏門を抜け、畑の合間を縫うように続く道を進む。石畳などという洒落たものではない。ただ踏み固められただけの土の道だ。
冬の乾いた土が、靴の下で
「サクッ、サクッ」
と硬い音を立てる。
レオは、私の半歩前を歩いていた。
意識して護衛の距離を保っているのか、それとも単なる性質なのか。並んで歩くというより、彼が切り拓く道を私が追うという、妙に象徴的な構図になっていた。
空は朝方よりも厚い雲に覆われ、光はどこまでも薄い。
影が消えた世界は、色を失った絵画のようだった。
首筋から忍び込む冷気に身を縮め、私はコートの襟をかき合わせた。
「農地から見る」
レオが前を向いたまま、短く告げる。
「はい。案内します」
会話はそれで途切れた。
見慣れた景色のはずだった。
幼い頃から何度も通った道で、どこに何があるかなど、目を閉じていても言える。
けれど今日は、何かが違った。
彼の視線がどこに向けられるのか、それを意識するだけで、風景が『情報』へと書き換えられていくような気がした。
農地に近づくにつれ、土の匂いが濃くなる。
冬のそれは湿り気がなく、埃のような匂いだ。けれどその中に、微かな腐敗臭が混じり始めた。収穫しきれなかった野菜が、土の上で寒さに打たれ、朽ちているのだ。
不意に、レオが足を止めた。
農地の縁に屈み込み、土をひと摘み掬い上げる。
指先で感触を確かめ、パラパラと地面に落とすと、彼は遠くを見据えた。
「水が足りていないな」
「……昨夏の猛暑から、水路の一部が詰まってしまっていて」
「それだけじゃない」
彼は立ち上がり、容赦なく言葉を継ぐ。
「土の状態が最悪だ。何年も手入れを放棄している農地がある」
「それは……人手が足りなくて……っ」
「知っている」
遮られた。
だが、それは拒絶ではなく『説明は不要だ』という、徹底的な効率主義の響きだった。
私は口を引き結ぶ。
彼は再び歩き出し、時折立ち止まっては何かを確認した。
土、遠景、水路の勾配――。
そして、手帳に何かを書き込んでいく。
無機質なほど静かな動作。
けれど、その沈黙の中で、領地の現状が無感情に分類されていく音が聞こえるようだった。




