100.「例の指輪」
彼は少しだけ照れくさそうに笑い、廊下の先へと消えていった。
残されたのは、私とレオの二人。
「三家族が、戻ってきたのですね」
「ああ、そうだな」
「全員ではないけれど……全部は守れなかったけれど。でも、戻ってきてくれた人がいる」
「そうだ」
「……それが、私たちがやってきたこと」
私は少し間を置いて、彼を見上げた。
「代償を、整理しましょうか」
「唐突だな」
「ええ、今がいいです」
「……わかった。俺の代償は、騎士資格だ」
「私の代償は、名誉と、ヘインフォードの家名です」
「領民の中には、戻らない者もいる」
「トーマも、以前と全く同じには戻れないかもしれない」
「ああ。全部は守れなかった。それが代償だ」
変わらない冷徹な事実確認。でも、その後にレオが紡いだ言葉は温かかった。
「それでも、残ったものがある」
「何が、残りましたか?」
「流れる水路。届いている配給。トーマの笑顔。カルの忠義。戻ってきた家族たち。……そして、お前が選び、俺が選んだ、この今だ」
全部は守れなかった。
取り戻せないものもたくさんある。
騎士の称号も、貴族の身分も、もう二度と手には入らない。
「取り戻せないものは、取り戻せない。それでいいのですか?」
「よくはない。だが、そういうことだ」
「……ですね」
窓の外を見れば、冬の終わりを告げる柔らかな陽光が降り注いでいた。
「春が来ますね」
「ああ、もうすぐだ」
「引き継ぎが終わったら、あの丘の芽吹きを見に行きましょう。一緒に行くと、約束しましたよね」
廊下の隅で、蝋燭の炎が静かに揺れている。
「ここは、不完全な場所かもしれません。代償を支払い、欠けたものばかりの、正しくない場所……でも、私たちが選んだ場所です。だから私は、今日を充分だと思っています」
「充分か」
「はい。明日のことは分かりませんけれど。……正直でしょう?」
「俺の影響か」
「ええ。嘘をつく理由がありませんから」
レオが、微かに口元を緩めた。
「……それは、俺の台詞だ」
「お借りしました。返しませんけれど」
「フン、勝手にしろ」
遠く、トーマの部屋から母親の笑い声が聞こえてくる。
まだ傷は癒えていない。しかし、そこには確かな喜びがあった。
「行くか、引き継ぎを終わらせるぞ。ランドルフに夕食を頼んでおけ。遅くなる」
「カルにも声をかけますね。今日の分を一緒に確認しましょう」
「ああ。……それと」
「なんですか?」
「トーマに、明日も来ると伝えておけ」
「ふふ、喜びます」
二人で廊下を歩き出す。二つの足音が響く。重さは違うけれど、そのリズムは不思議なほど揃っていた。
この大変だった日々で、私たちが必死に刻んできた、共有のリズム。
「レオ、今夜、仕事が終わったら……これからのことを話しましょう。まだ決まっていないことが、たくさんありますから」
「そうだな。一緒に考えるか。クラリス」
廊下の先に、執務室の扉が見えた。
扉の下から漏れる蝋燭の光。
ランドルフが、私たちのために灯しておいてくれた温かな光。
扉を開けると、そこには使い込まれた机と、積み上げられた書類が待っていた。
まだ、やるべきことは山ほどある。
☆
ついに全ての引き継ぎが完了したのは、それから三週間後のことだった。
最後の書類に署名を記したその日は、あいにくの雨。だけどそれは冬の凍てつく雨ではなく、どこか温かみを含んだ春の雨だった。
窓ガラスを伝う雨粒が、細い銀の筋となって世界を優しく濡らしていく。
仕事を全うしたエリシアが、私の前に立っていた。
そこには彼女の署名、私の署名、そしてレオの署名。
三つの名が揃い、ヘインフォード領の歴史に一つの区切りが打たれた。
「これで、正式に引き継ぎが完了します」
「……ありがとうございました、エリシア様」
私の言葉に、彼女は感情を排した声で
「私はただ、職務を遂行したまでです」
と返した。
去り際に彼女は少しだけ足を止め、意外な事実を告げた。
彼女の報告書には、私の貢献が詳細に記録されているという。それは公平を期す彼女なりの『仕事』なのだと彼女は言ったけれど。
「感謝は不要です」
「それでも……ありがとうございます。受け取っていただけますか?」
エリシアはわずかに間を置き、
「……今回だけ、受け取ります」
と静かに答えた。
「受け取り方を、少し練習しようと思いまして。感情も計算に入れるべきだと、今回の件で思ったものですから」
完璧な論理の中に、ほんの少しだけ揺らぎが混じる。
彼女は
「あなたのやり方は選ばない」
と断言しながらも、今の自分なりの答えを置いて、雨の中へと去っていった。
☆
午後、雨が小降りになった頃、今度は久しぶりにマリエが姿を見せた。
約束もなしに、大きな布包みと、花や菓子の詰まった籠を抱えて。
「来てしまったわ。今日、引き継ぎが終わると思って」
「どうして分かったの?」
「なんとなくね。今日かな、と思ってね。自分の勘の良さに怖くなるわブルブル」
マリエはまた当たり前のようにテーブルへ布包みを広げた。
中には色とりどりの上品な焼き菓子が並んでいる。
「お祝いよ。大変なことが一段落したんでしょ?だったらお祝いしなきゃ」
「……代償も、たくさんありましたけれど」
「それは知ってる。でも、一段落したことは事実じゃない。ほら、座りなさいよ」
二人で向かい合い、ランドルフが淹れてくれたお茶を啜る。
「顔色、いいじゃない」
とマリエが笑った。
「あの再会した日は本当に最悪だったもの。心配したんだから」
マリエは菓子を口に運びながら、不意に真剣な目で私を見た。
「今はどう?本当のところ」
「……まだ、道の途中です。でも、方向は決まりました。彼と一緒に、歩いていくと」
私の言葉に、マリエは
「へえ」
と意外そうに眉を上げた。
「あんたが『一緒に』なんて言えるようになるなんてね。ずっと一人で抱え込んでたじゃない。……正直、羨ましいわ。重いものを持ちながら、それでも一緒に行こうって言える相手がいるなんて」
そしてマリエは、少し照れくさそうに視線を外して続けた。
「あんたのこと、尊敬してる。最初は無謀だと思ったけど、あんたは結局、最後までやり遂げた。……それを見て、あたしも少し変わった気がするの。何かを選ぶって、こういうことなのかなって」
マリエが最後に残した言葉は、呪文のように私の胸に深く刻まれた。
『幸せになりなさいよ。完全じゃなくてもいいから、自分が選んだって思えるやつに』
☆
その夜。
私は自室で一本の蝋燭を灯した。
揺れる炎の下、引き出しの奥からあの指輪を取り出す。十二歳の私が、三ヶ月もお小遣いを貯めて買った、安価な銀色の指輪。
「諦めの印でした」
誰もいない部屋で、ポツリと独白が零れる。
最初にこの指輪を外したとき、私は夢を捨てる代償としてそれを引き出しに隠した。けれど、今手のひらにあるそれは、以前とは違う重みを持っていた。
扉を叩く音がして、レオが入ってくる。
私が指輪を手にしているのを見て、彼は足を止めた。
「……それは、例の指輪か」
「はい。今夜、また手に取りました。……言いたいことがあったので」
レオが私の前に立つ。
「これは、私が諦めた事の証でした。でも、今は違います。……これは私の『意志』です」
「意志?」
「諦めて外した指輪ではなく、選び直して持っている指輪に変わりました。今日、ようやく言葉にできた気がします」
私は、その指輪を彼の掌へと差し出した。
「一緒に、見てほしいのです。……受け取ってくれますか?」
「小さいな。……三ヶ月かかったと言っていたな。覚えている」
「捨てられなかったものを、今はこうして手に取れます」
私は左手をゆっくり差し出した。
それを見た彼はほんの一瞬、驚いた様にぴくりとしたが、すぐに居住まいを直し真っ直ぐ私に正対する。
不器用な手つきで指輪の向きを整え、大きい手を添えてそれを私の左手の薬指へと滑らせた。
六年間、引き出しの奥で眠っていた銀の輪は、驚くほどぴたりと指に馴染んだ。
冷たかった金属が、すぐに体温を吸って温かくなる。
「……合いますね。不思議。子どもの頃のものなのに」
「他は変わったが、指の形は変わらなかったか」
「……他は、変わりました。上手くは言えませんが、確かに」
私は、レオとこれからのことを語り合った。
彼が育ち、飢饉に苦しんだ辺境の村を一度訪ねること。
その後に騎士団へ出頭し、新しい仕事を探すこと。
行き先が完全に決まっているわけではない。
不安がないわけでもない。
「でも、一緒に決めていくことは決まっています。方向があれば、歩けます」
「歩ける、か。……そうだな」
レオは静かに頷き、椅子に深く腰掛けた。
「俺は正しいつもりで、色々と間違えた。正しいと思い込むと見えないものがある……。だが、間違えたことも含めて、これは俺たちが選んだ場所だ。それが価値だ」
その言葉に、私は深く首を振った。
「ええ。これからも、選び直しながら歩いていきましょう」
夜が更け、レオが部屋を辞する間際、扉の前で一度だけ振り返った。
「クラリス、指輪……似合っている」
扉が閉まり、廊下に響く足音が遠ざかっていく。
一人残された部屋で、私は左手の青い石を見つめた。
窓の外を見上げれば、雨上がりの空に星が瞬いている。
冬の間は厚い雲に覆われていた空が、今はどこまでも澄み渡っていた。
「ここはまだ、正しい場所じゃない」
完全ではない。
失ったものも、守れなかったものもたくさんある。
それでも、ここは私が選び取った場所だ。
マリエが言った『不完全な幸福』が、今、確かにこの指に宿っている。
「これからも、選んでいきます」
自分の声が、静かな部屋に溶けていく。
机の上の蝋燭は、消えることなく、力強く燃え続けていた。




