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生贄の考察と筆者の雑談

 生贄は非効率的、というより無意味な行いである。こう考えるのは、我々が科学技術の発達した現代を生きているからに他ならない。

 雨が降る、風が吹く、大地が揺れる、これら自然現象はすべて科学的に説明がつくものであり、逆に人の手でどうこうできる次元には、現在の人類においても到達できていない領域である。

 しかし、アステカの人々は、あるいは古の文明の多くで見られるように、“生贄”という神様の御機嫌取りによって天候を動かそうとした。

 仮に自然現象について、人事を尽くして天命を待つ、を適用した場合、我々の住む現代科学の世界であるならばどうだろうか。大雨が降ると洪水になる、というのであれば、河に堤防を築いたり、あるいは地下貯水池に流し込んだりと、自然現象への直接介入ではなく、対処療法的手法で被害を抑えようとすることだろう。

 人類ができる方法では、まだまだ自然をどうこうするのは難しいからだ。現に、必死で減らそうとしているCO2でさえ、火山の噴火一発で大気中にばら撒かれるそれに負けてしまう。

 自然の前では、まだまだ人間の力など高が知れていると言わざるを得ない。

 そして、アステカはそれら自然現象に“神”の力を感じ、それの御機嫌取りをしていたのだ。生贄という手段を用いて。

 現代人は被害を抑制するために堤防を築き、アステカ人は神に祈った。

 もちろん、アステカ人も湖畔に都市を築いて大きくなった国であるため、度々水害に見舞われてきた。当時の技術ではまだまだこれを抑え込むことができずにいたため、神の力に縋るしかなかった。そのため、尽くす人事の中に、“建築”に加えて“生贄”という祭事が含まれていたのであろう。

 現代の感覚で言えば非現実的な手法ではあったが、当時としては合理的なやり方であったのだ。なぜなら、生贄の祭事には“人心の安定化”という側面が含まれていたからだ。

 宗教にしろ、慣習にしろ、それを理解も納得もしないできない側からすれば、単なる“狂気”にしか見えないこともままあることだ。現代を生きる我々の中にも、非合理的あるいは不条理な出来事や慣習がまだまだ残っており、「昔から続けてきたから」の一言で片付けられる案件の多いこと。読者の中にもそう感じる方もおられるだろう。

 まして、迷信や呪術要素、信仰心の強い昔であるならば、昔から続く祭事の取りやめに恐怖する人が多いのも当然であり、生贄の儀式を取りやめようとした王が追放される事例もあるくらいだ。

 しかし、生贄の儀式を続けているかぎり、確実な人口減少が見られるのは当然である。定期的に人口を意図的に間引いているのと同義であるからだ。

 具体的に数字を出すと、人口二千万のアステカにおいて、年間の生贄総数は二万人だと推測されている。今の日本の人口に置き換えると、年間十二万人強の人が、しかも“若くて力強い優秀な人物”が生贄に選ばれ間引かれることとなる。

 こんなことをやっていては、国力が衰退するのは目に見えているだろう。

 優秀な者を生贄に捧げねば、神は喜びはしないという発想があるからだ。かつての日本であるなば、生贄ではなく間引きという意味であるが、“姥捨て山”という存在があったほどだ。労働力に乏しい年寄りを切り捨てていた歴史がある。

 しかし、アステカ人はその逆。神を喜ばせるために、力ある者を捧げてきた。

 そして、自分達こそ神の力を授かる最優秀民族であるという自負のあるアステカの民は、生贄になるのは自分達こそ相応しいとも考えていた。

 だが、それでは人口は増えず、国力も伸びない。敵国の捕虜や奴隷を選りすぐり、生贄に捧げるようになったのは、結局そうしたことへの妥協点なのだろう。

 優秀な生贄は必要だが、自分達だけでそれを賄うと困ったことになる。しかし、祭事を取りやめることもできないので、他国人を使うようになった。極めて“合理的”な判断であろう。まあ、生贄自体が現代の感覚では“非合理的”なのだが。

 しかし、彼らの合理性は、コルテスら西洋人の合理性の前に滅んでしまった。

 アステカ人は度々戦争を起こし、周辺国を抑圧していた。宗教に裏打ちされた士気の高さと戦士の誇りを併せ持つアステカの軍隊は極めて精強であり、他国の軍隊を圧倒していた。ジャガーの姿に扮する戦士達は、まさに恐怖の対象であったと言ってもいい。

 しかし、彼らは敵国を滅ぼすことはしなかった。なぜなら、彼らにとって戦争とは捕虜獲得、すなわち生贄候補の補充が目的であり、滅ぼしてしまってはそれが叶わなくなるという、極めて合理的な理由によって滅ぼさなかったのだ。

 ある国は併呑されて貢物を要求され、別の国は奴隷の供給源とされ、さらに別の国は戦争して捕虜獲得するために傘下に収めることすらしなかった。全ては彼らなりの合理性に基づく伝統的な行動によってそれらが成されたのだ。

 この点をコルテスは理解できなかった。西洋人の合理性によると、そんな弱小国などさっさと吸収合併してしまえばいいのに、となるからだ。

 また、戦争に対する考え方の違いが、両者の明暗を分けたと言っても良い。

 アステカ人にとっての戦争は捕虜を得るための手段であるのに対し、コルテスら西洋の征服者コンキスタドールにとっては相手を殺傷する手段でしかなかったからだ。

 アステカ人は捕虜を得るためになるべく戦闘での殺戮を控えていたのに対し、コルテスらはお構いなしに殺しまくる。それぞれの合理性の中には、目指す方向に決定的な差異があり、それが勝敗を分ける一因にもなった。

 西洋人はこの辺りの合理性をクレシー、ポワティエ、アジャンクールなどの百年戦争での合戦で劇的な変化を遂げ、その時代に至っていました。

 かつての戦場は捕虜獲得、すなわち身代金の確保が主流でした。そのため、金づるになる身分の高い騎士階級は殺すよりも生け捕りにし、金品と引き換えに開放するのが一般的でした。そのため、騎士にとっては戦場とは一攫千金のチャンスの場であり、危険ではあるけどどこかスポーツ感覚。危険リスクを伴うという点では博打ギャンブルと言ってもいいかもしれない。そうした感覚で金品を求めて参加している風すらありました。

 実例をあげれば、フランス王国と神聖ローマ帝国の間で勃発した『ブーヴィーヌの戦い』などでは、両軍合わせて二万弱、騎士はそれぞれ千五百名ほど参加していたにも拘らず、騎士の戦死者は負けた神聖ローマ側で百六十七名、勝ったフランス側では二名と、極端に少なくなっています。

 一方で、金にならない一般歩兵は殺されまくってます。

 装備品に差が有ったとはいえ、その戦死の比率は異常であり、捕虜による身代金がいかに戦場での稼ぎになっていたのかを如実に表しています。

 上記したクレシー、ポワティエの戦いにおいては、指揮官であった英国王子エドワードは配下の者達に、捕虜や戦利品を求めて前に出て陣を乱した者は処分する、と命を出しています。裏を返せば、それが当時は当たり前であったということです。

 アジャンクールの戦いにいたっては、イギリス側の指揮官であったヘンリー五世が、邪魔になるからと捕虜の処分を行い、フランス側の三人の公爵、七人の伯爵、二百二十人の大貴族、千五百六十人の騎士を殺害しています。

 戦争の在り方が根底から覆り、危険なスポーツ、一獲千金の賭博場から、完全なる殺戮の場へと変化を遂げていったのです。

 しかし、アステカ人は捕虜を得る段階から進歩しておらず、戦場で淡々と相手を殺す西洋人のやり方に最後まで対処できなかったというわけです。

 ちなみに、アステカ人は捕虜にした西洋人もちゃんと生贄に捧げています。

 ついでに、西洋人が乗っていた“馬”も捕虜にして、首を神々に捧げています。この辺りは本当にブレないですね。

 アステカ人は西洋人の持っていた、鉄、銃、馬を持っておらず、装備は石器を使っていました。

 文化レベルが劣っていたから負けた、というよりかは、戦法や内部不和が原因と言った方がより適切かもしれません。

 “暦”の例を見ますように、極めて高度な知識や技術を持っており、言ってしまえば石器時代から金属器時代を迎えないまま進化を続けた人類が、アステカの人々であったというわけです。

 道具も金属、というより鉄がなかっただけで、石を用いた巨大建造物や整備された道路網を有し、高度な建築土木技術も存在していました。

 決して、石器時代の人類ではなく、道具だけが石器時代のまま進歩を遂げた人類、それがアステカの民なのです。

 生贄の儀式を執り行い、果ては人肉を喰らう野蛮人、というわけではありません。彼らもまた、れっきとした文明人なのです。ただ、ほんの少しばかり毛色が違うだけです。

 現に、彼らは優れた建築技術を持ち、特に目を引くのが石の巨大建造物であり、そして、道路網でした。アステカは各地の部族を傘下に収めましたが、基本的には間接統治であり、しばしば反乱が発生することもありました。

 その際、早期に鎮圧するために行軍速度を上げるため、道路網が整備され、迅速な行動を可能にしました。なお、反乱は捕虜獲得の好機という認識もあって、ある程度の規模であれば歓迎されるという、なんとも奇妙な状態でもありました。

 ほんと、ブレませんね、こういうところは。

 文明人の証としては、作中の十五月のところで触れましたが、球戯場にて球技を行っていたことです。スポーツに興じるのは鍛錬の意味合いもありますが、やはり余裕がないと遊びがなく、遊びがないと競技ゲームが生まれないと考えています。

 ちなみに、アステカ人の球技は今風に言うと、『足で蹴るバスケットボール』だったそうです。球を奪い合い、蹴り上げて高い所の輪をくぐらせる、という感じだったそうです。

 また、この競技には賭けも認められており、アステカの民は熱狂して試合観戦をしていたと記録に残っています。当然、競技に強い者は英雄と讃えられ、皆の人気者となります。

 この辺りはサッカーとそのスター選手、観客と熱を帯びるトトカルチョ、これらを思わせるものがあり、現代人の営みとなんら変わらない姿が見えてきます。

 それでも野蛮人に見えてしまうのは、やはり食人と生贄のせいではないでしょうか。

 食人はあくまでお祭りでの行事であり、それを主食にしていたというわけではありません。主食はあくまで、トウモロコシと豆類、アマランサスであるのは間違いなく、人肉をムシャムシャしていたのはお祭りの時だけです。

 人肉食カニバリズムについては割と世界中に転がっている話ではありますが、大きく分けると、嗜好的食人と霊的食人に分けられます。前者は食べてみたいとか美味しいという感情から来るものであり、後者は相手の血肉を喰らってその力を得る、という感じになります。

 アステカでは生贄となる人柱は選び抜かれた相応しい人物が務めており、その力や気高さにあやかるために体内に取り込むという意味合いが強く表れています。

 お祭り時にだけ食べる特別な縁起物として、人を食べていたというわけです。現代の日本人と違う点は、食べるのが餅か人肉か、という点だけで縁起物を食するという点では何も変わりません。

 ちなみに、アステカの人肉の食べ方は煮込みです。やっぱ雑煮じゃないですか。縁起物、縁起物ですからね!

 生贄も不合理、不条理の産物であるのは、現在を生きる人間の感覚でしかありません。当時は、本当に効果があると信じられていたからこそ、続けられていたのですから。

 もし、本当に生贄の効果が本当にあるのだとしたら、現代だとどうなるんでしょうかね。犯罪者を生贄にすればいいじゃんと考えるかもしれませんが、神への捧げ物を汚れ物で差し出すのは厳禁ですよ。アステカも生贄役として、犯罪者は除外しています。

 あくまで、生贄に相応しい立派な人間でなくてはなりません。

 名誉と金銭が絡むと、あるいは自分を差し出してくる人がいるかもしれませんね。借金漬けでどうにもならず、家族を借金苦から解放するため、とかいった感じで。

 でも、実際のところは無理やりやらされるパターンの方が多いでしょうが。夫に先立たれた妻が殉死を遂げると、領主から褒美が出るなんて理由で、荼毘の炎に身内の手で投げ込まれる女性の話が、インドやなんかにありましたから。

 正の感情であれば“自己犠牲”や“覚悟”を、負の感情であれば“恐怖”や“絶望”をエネルギー転換するようなものです。ここまで来ると、本当にファンタジーな要素になってしまいますが、それこそ、人間は感情の生き物ですから、感情抜きには語れないのもまた事実。

 実際に目にすることは少なくなろうと、生贄の儀式は残っています。

 自分の他作品においても、生贄的な題材を使っている場面はいくつもあります。非合理的でありながら、そのような非日常に特別な意味を見出し、作品の中で活かす。

 現実世界ではありえない生贄の効用も、創作の世界であるならば表現し、しっかりと形作ってしまえるのですから。

 生贄そのものへの嫌悪感を持ちながら、その効用については憧れにも似た情念を紡ぎ出す。この矛盾こそ、創作の醍醐味でありしょう。

 さあ、皆さん、今日もあなただけの“生贄の作法”を見出し、新たなる世界を構築していきましょう。非合理こそ、二次元における合理アイデア悦楽エンターテイメントを生み出す苗床なのですから。



             ~ 終 ~


ぶちゃけ、最後の一文を書きたいがために書ききった作品です。


モンテスマことモンちゃんはどうしても「CIVILIZATION 4」のイメージが自分は強いんですけど、本当は温厚なインテリ系の王様らしいんですよね。


長々とお付き合いありがとうございました。


(∩´∀`)∩

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