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44.記憶

 わたしはその場には長くいなかった。いることが出来なかった。


 洗い物をしているカナタの背中に、ごめん、と声をかけて自室に戻った。

 洗い物の立てるかちゃかちゃという音が止まり、カナタがじっとこちらを見ているような気がした。

 それでもわたしは足を止めず、振り向きもせずに階段を上った。


 部屋に戻ると、いつもの習慣でつい、パソコンをつけてしまう。

 メールをチェックすると、相沢さんからのメールが来ていた。


 それは仕事とは一切関係ない、この間のお礼のメールだった。

 食事につき合ってもらってありがとう、ということが述べられている。

 返信をするかしないか迷ったが、また二人でどこかへ行って恋バナをしましょう、という文でメールが終わっていた。

 なら返信は必要ないか、と思った。

 誘われたところで、わたしにはもう、彼女の言うところの恋バナにはつき合えないのだから。


 そのメールを閉じた後、わたしはパソコンの電源を落として、少しの間、椅子に座って天井を眺めていた。

 しばらくそうしていてから、自室を出た。


 階段を下りて、居間に行くと、カナタがそこにあぐらをかいて座っていた。

 ひょっとすると普段と同じようにしているかも。

 そんな可能性も考えてはいたが、テレビはついておらず、居間は静かだった。

 わたしの姿を認めると、カナタはわたしの方へ体を向けなおした。


「待ってたよ、トウコ」


 うん、とカナタへ一度、わたしはうなずいてみせた。

 この一連の話を自分から切り出しておきながら、これからカナタと何を話していいかわからず、怖かった。

 自分でも、自分がどうしたいのか、どうしたかったのか、わからない状態になっていた。


「ねえ、トウコ。君がさっき言っていたことをぼくなりに考えてみたんだ。君の話を聞く前に、そのことについて、先に話してもいい?」


 わたしは素直にうなずいた。

 実際のところ、そうすることしか出来なかった。


「この数か月、トウコは、ぼくと一緒にいられて、楽しかった。感謝している。そう言ってくれたね。それは、ぼくも同じだ。それまではただ逃亡者を探す場所でしかなかった、この地球というものを、人間社会というものを、知ることが出来てさ」


 カナタはそこで一度言葉を切り、少しの間のあと、続けた。


「いつか例えたように、庭の隅の単なるアリの巣でしかなかったこの場所は、物理的な空間の大小に関わらず、ぼくらのそれと同じ広がりを持つ、一つの世界だと知ることが出来た。それもすべて君のおかげだ。ありがとう」


 うん、とただ曖昧にわたしは返事をした。

 カナタは微笑み、それから少し難しい顔になった。


「だけど、きみはぼくの記憶についての話をした。その記憶について、ぼくはずっと、君に何も話していなかった。実のところ、ぼくも、怖かったんだ」

「……何が? 何が、怖いの?」


 カナタは、すぐには返事をしなかった。

 やがて、ゆっくりと、彼は言った。


「ぼくには、すでに記憶が戻っている」

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