29.今の今まで知らなかった
「カナタです」
そういいながら、カナタが井上さんに接近し、その目をのぞき込む。
井上さんは、まともにその目を見返している。何か興味深いものでも見つけたように、その瞳孔が大きく開いている。
目を動かすことも、瞬きすらせずに、井上さんは答えた。
「カナタさんですか」
「そう。ぼくはトウコのいとこです。四ヶ月前から、うちの親の都合もあって、トウコの家に暮らしています」
「そうですか。あなたはいとこで、四ヶ月前から、中山さんの家に暮らしているのですね」
「ぼくの親の都合で」
「あなたの親の都合で、ですね」
「仕事や学校にも行っていないいとこが突然やってきて、親戚同士とはいえ異性と同居しているなんて、少し不自然に思えるかもしれませんが、あなたがたには迷惑をかけませんから、気にしないでいてもらえると助かります」
「ええ、仕事や学校にも行っていないいとこが突然やってきて、親戚同士とはいえ異性と同居していて、少し不自然に思ってしまうかもしれませんが、わたしたちに迷惑はかからないので、気にしませんよ」
「ありがとう」
カナタはそういうと、井上さんから視線を外し、彼のそばを離れた。
井上さんはそのときはじめて目の乾燥に気づいたらしく、何度か瞬きをして、目をこすった。
それでいつもと同じ様子に戻った。
「そうですか、いま中山さんはいとこの方と暮らしているんですね。女性の一人暮らしは、何かと不安なこともありますが、彼がいてくれれば安心ですね」
先ほどのカナタの働きかけの影響か、それとも元々そういう考えがあったのか、どちらかわからなかったけれど、井上さんは笑顔を浮かべてそう言った。
「ええ、本当に」
「でも、すごくハンサムないとこさんですね。実は、先ほど見たときは、中山さんの恋人かと思いました」
そう言われると、少しむずがゆくなる。反応に困る。
わたしはちらりとカナタへ目を移してから、言った。
「見てくれはいいんですよね、本当に」
「だけど、いろいろと不慣れなもので」
そう言って、カナタはぺこりと頭を下げた。
「では、中山さんも、いとこさんも、何かありましたらご相談ください。ご近所ですから、悩みがあれば、力になりますよ」
「ありがとうございます」とわたしは小さくお辞儀をした。それでもう会話は終わりかな、と思っていたのだが、井上さんは再びカナタへ目を移し、それから言った。
「しかし、驚きましたね。中山さんのご家族だったとは」
わたしとカナタは目を見合わせる。
二人とも、心当たりがなく、首を傾げあうのみだった。
井上さんは、いったい何に驚いたのだろう。
「お気づきでなかったかもしれませんが、私、この道で何度かいとこさん……カナタさんとすれ違っていたんですよ。一度は駅で見かけたこともあります。男前で、スタイルもいいし、私が知らないだけで、俳優とか、モデルの方かな、と思っていたぐらいです。もしかしたら近所に有名人がきたかもしれない、と家内と噂したこともあります」
そう言って、まじまじとカナタを眺め、何度か納得したようにうなずいていた。
「そうですか、中山さんのご家族でしたか」
その言葉の後、それじゃ、といって井上さんは去っていった。
わたしとカナタは小さく頭を下げ、去っていく井上さんの背中を見送った。
それからわたしは、家の玄関へ向かった。
そのとき、一つの疑問が私の頭の中に渦巻いていた。
井上さんは、今まで何度かカナタを見かけた、といっていた。
そうしてわたしがカナタを連れて井上さんと出会ったのは、今日がはじめてのことだった。
散歩の際、わたしたちはお互いに単独で行動することはなく、常に連れ立って歩いていた。
つまりカナタはわたしの家にやってきてからも、一人でどこかに出歩いている。
その事実を、わたしは今の今まで、知らなかった。




