28.こちらはいとこのカナタです
井上さんは、すでに定年退職をしている年輩の男性で、かつては教師をやっていたそうだ。
賃貸住まいのわたしは近所づきあいというものをあまりしていなかったが、井上さんはこの周辺の住民のまとめ役を担っているそうで、わたしが引っ越してきたときにも、何か相談があったら自分に話してください、と声をかけてくれた。
以来、親しいというわけではなかったが、道ですれ違ったときは挨拶をするぐらいの仲だった。
井上さんはなにやら目線を落として歩いており、近づいてくるわたしたちに気づいていなかった。
そのまま気づかないでくれればいいのに、とわたしは思った。
別に声をかけるのが面倒くさいとか、そういうわけではない。
ただ、井上さんには今まで、カナタと一緒にいるのが見られたことがなかったのだ。
別に、見られても問題があるわけではない。
わたしは、彼はいとこですという、嘘の説明をするし、井上さんはその後にカナタの能力で心に働きかけられ、その説明を信じこむことになる。
今までにもそうやって近所の人を信じ込ませてきたのだけれども、正直いって、必要がある嘘だとしても、あまり気分のいいものではなかった。
それに、わたしと同じような体質、つまりカナタの能力があまり効き目を発しない体質である可能性も、否定は出来なかった。
だから井上さん、出来るならこのまま気づかずにすれ違いませんか、と、そう祈っていたのだが、残念ながら井上さんは不意に顔をあげ、わたしと目があった。
井上さんは口を開きかけ、それからカナタへ目をやって、やや戸惑ったような顔になり、発しかけていた言葉は出てこなかった。
わたしは先に声をかけた。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
井上さんは、浮かんでいた戸惑いの表情を消して、わたしに笑顔を浮かべて答えた。
彼は温厚な人間らしく、いつも優しい声で話す。
普段ならば挨拶だけで別れるのだけれども、一度カナタを見られてしまった以上、向こうになくても、わたしの方に用事があるのだ。
わたしが立ち止まると、井上さんもわたしに合わせるようにして立ち止まった。
そうして彼は、わたしの隣に並んだカナタへ再び目を向けた。
笑顔を浮かべて、わたしはたずねた。
「散歩ですか」
「いえ、町内会の用事がありまして。私が受け持っている地区、案外広くて、大変なんですよ」決して大変でもなさそうな口調で井上さんが言った。「中山さんは?」
「わたしは散歩です」説明してしまうのなら今だと思い、わたしは続けた。「いとこと一緒に。こちら、いとこのカナタです」




