プロローグ 人々の盲目なる世界
人は、視界に入ったモノを馬鹿正直に受け入れているわけではない。
今までにその人が培った知識や経験、個人的な感情や思想によって左右される。
例えば、教師が生徒を叱る写真を見せられて、どちらが正しいか質問したとしよう。写真の状況説明はされず、個々人にそれを委ねたとして。
返ってくる答えは十人十色だろう。“不自由な学校教育に縛られた”“理不尽に怒られている”子どもを味方する人もいれば、“叱る時は叱る教育を行っている”“厳しい指導を行っている”教師に味方する人もいるはずだ。
この違いは、偏見と呼ばれる。聞こえは悪いが、人なら普通に持っている。
むしろ感情に生きている存在の人間ならば、誰しもが当たり前に抱えているはずだ。
合理的に、論理的に物事を考えると大言壮語を並べる輩もいるが、それこそ自分が信仰する論理や合理性とやらに支配されているのだから。
何にも囚われていない見方は不可能で、だから人は、人生は面白いのだ。
しかし、面白いからといって、それが正しいかは別の問題である。
事実、人の偏見が不当な差別を、根拠なき忌避を、果てには争いごとに発展することは人々の歴史で幾度となく繰り返されてきた。
もちろん、それらは異常だ。だが、その異常性にどのように気づけば良いのか。
明らかにおかしくとも多くの人々がそれを持っていたら、それが軸となる。
単純な議論ならそれで構わないかもしれない。だけど、もしも知るべき、気づくべきことを、その偏見によって見つけることができなかったとしたら?
人の知覚はどこまで正しいのか。人の知覚に意味はあるのか。そして、それらの問いに確証を持って答えられるのだろうか。
――もしかすると僕たちは大切なことを見逃しているかもしれない。目の前の画像に、映像にに映し出される“何か”を見えなくなっているのかもしれない。
『夕闇倶楽部部誌 第四十一巻 214ページより』




