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食仙(しょくせん)   作者: 不病真人
第一部 穢中五穀輪回地 安此穢得見正真 第一章 福源酒楼

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第五話 鄭傑闘五足虎(五足の虎に向かう鄭傑)

店内は、相変わらずの惨状だった。

(戻って来た....ただいまか....)

 床板は外れたまま、木屑が散らばり、調理器具はさっきまで鄭傑が包丁を探すと急に走り出したせいで、床の上で少し転がっていた。

 竈の火は完全に冷め、鍋の中は空っぽ。

夕方の薄明かりが、埃の舞う店内に斜めに差し込んでいる。

なんとかして扉を閉め、背中を預けるようにしてその場にへたり込んだ。

「……はぁ」

肺の底から重い息が漏れた。そんな気分、息が重く感じる。


(何してんだろう俺...やっぱ仕事が辛くてし....に...いや考えるのやめよ。)

 ゆっくりと両手を上げ、自分の顔を覆った。

無意識にやる動作だ。

指先が額の汗と埃を混ぜた膜をなぞり、ゆっくりと下へ滑らせる。

掌が目元を押さえ、頰骨の凹みをなぞり、顎の無精髭のざらつきを擦った。

まるで自分の輪郭を確かめるように、または、顔という仮面を剥がそうとするように。

(いや単に眠気覚まし?気を正すためか。)

指の間から、細く息が漏れた。

「はぁ...ツレェ」

店内の空気は淀んでいて、わずかに焦げた油の残り香と、木の腐ったような湿った匂いが混じっていた。

外の喧騒は遠く、と言うより時間的に火に注意系の声しかない。

「よっ...」

 手を下ろし、膝の上でだらりと指を絡めた。

視線は床の一点、歪んだ床板の隙間に落ちたまま動かない。

そこには、さっきまで自分が握っていた包丁の刃先が、淡い光を鈍く反射していた。刃はわずかに欠け、柄の木目には古い油が染み込んでいる。

手の油だろうか。

(よく見れば汚ねぇなおい、それなりに手入れされてるって思ったのにッう)

なんだか怖く感じるようで肩がわずかに震えた。疲労か、それとも別の何かか。

外の光がさらに傾き、店内の影が長く伸び始めた。埃の粒子が、金色の筋の中でゆっくりと舞い上がり、また落ちていく。

とても静かに感じる、なんだか心地良い気はしてくる。

でも心地よさに魘されるようで、今度は指を髪の間に差し入れ、頭皮を強く掻いた。

 短い爪が皮膚を引っ掻く小さな音が、静寂の中で妙に大きく響いた。

掻いた跡が赤く浮かび上がり、すぐにまた掌で上から擦り下ろす。繰り返す動作は、まるで自分自身を慰めようとするもののようだった。

 息が、もう一度、重く吐き出された。

「……ったく」

 小さく呟いた声は、誰にも届かない。店内の惨状と同じように、ただそこに積もっていくだけだった。

止めなければ終わらない、だがこの気分は終わらない。

そう終わりたくとも終われない。

膝を抱えるように体を丸め、彼は目を閉じた。

 瞼の裏に、今日の出来事が断片的に浮かんでは消え、また浮かぶ。慌てた足音、飛び散った木屑、冷えた竈の灰。すべてが、まるで遠い夢の中の情景のようにぼやけていく。

 外では、夕暮れの風がわずかに扉を揺らした。隙間から入る冷たい空気が、首筋を撫で、埃を一筋、静かに舞い上げた。

「冷たいか...」

牢屋の冷たい石の感触が、まだ背中に残っている気がする。柳月華の視線も、妙に頭から離れない。あの女、釈放された後もずっとこちらを見ていた。まるで「次に会ったら今度こそ成敗する」と言わんばかりの、研ぎ澄まされた視線だった。

(……まじで何なんだよ、あいつ)

鄭傑は頭を振って、立ち上がった。

 まずは片付けだ。

床板を元に戻し、木屑を掃き、包丁を洗って研ぐ。幸い、おおごとに....石家の若旦那——さっきの商人らしき男——が口を利いてくれたおかげで、ただの“行き違い”として処理されたらしい。感謝すべきか、申し訳ないと思うべきか。よくわからない。

(最後のあれ...いろいろ言われたけど脅しだなぁ...まじでそろそろ鍋気とやらを...あいつの言うにはまだ足りないらしいし、俺の中にあるパワーじゃまだ....)

 店が一通り整った頃には、外はすっかり夜になっていた。

一息をつこうと鄭傑がカウンターに腰を下ろし、懐から例の紙を取り出した。

“聚気湯”

薄い紙に、達筆で書かれた文字が並んでいる。材料のリストは意外と短い。

(だって修業書とか指南書にしては短けぇし)

だが、そのほとんどが尋常なものではない。

 「そうすりゃ....うーん、でもなぁ....」


━━━

ことを思い出せば、石の家の人に言われたことは簡単だった。


 もっともそれまでに揉めたような形もあった。鄭からすればそう言うべきか。


(しかし以前どっかで見たな...世紀末で死にんで、滅びの大地になる前に帰るやつ)


 そう....あれは俺だけ戻るっていうタイトルか。

必要な条件はエルフの美少女後輩に指輪を作ってもらい。さらに美人の生徒会長の先輩にビンタをして究極の動物園の


 「なぁ、兄弟」


 (そして世界最強への道の隠しジョブが)


「鄭小兄弟」


(まさかあんな隠しジョブがあったなんて、あの時期の主人公はなんでも食えるほどに力には飢えたとは言え)


 「あんた!!店家!!」


「おぉ!?」


「武の貴人がくる、いいか、当の、武山水がくる。紀元芳を連れてな、物見遊山が好きなお方だ。」


 「おぉお...」

「おっと、ついすまない、その顔...いいや言い方が悪かったよ、兄台...安心しなさいではないが...ことが起これば我が身近な彼を遣える」


 「彼?」


「おう、忘れたか鄭兄弟、和眞、姓を和名を真だが」


 「いやいや」

「それよりだ、貴人は我ら武皇帝の甥にありまする故、しかしと....食院ならざるものでは彼に会える機会もないであろう。」

━━━

「うん、ノイローゼかどうかよく知らんが、俺のやりたかったことが目の前にあるのに、今までのような辛い気分じゃいられないよなぁ!」

叫ぶもそれは彼が自分なりの気の引き締め方だ。


 「そう、漫画で知った、かの武人、六膳書の彼はこう言っていた。」

「情け容赦の世理なく、今日の行事が事を承知しろ....と。」

(あれ...両天壱流の源....ええと元譲、うーん雅治?ってこんなこと言ってたっけ。)


「はぁ……もう、寝るか」

(にしても独り言多いなぁ...自分で言うが。一人暮らし...と言うよりも現代に揉まれ揉まれ...うーん揉み揉み...響きかわいいな、ってやはり俺は独り言が多いでごわす。)

 立ち上がると、膝がわずかに鳴った。

体が重い。今日は本当に色々なことがありすぎた。牢屋の冷たさ、柳月華の視線、石家の若旦那の言葉、そしてあの“聚気湯”の材料。頭の中でそれらが渦を巻き、うまく整理がつかない。

(期限言われるとガチできつい、今日はここで寝ることにするか....暗いし...)

 店の奥、厨房のさらに、奥まった小さな部屋があり、そこには寝床もあった。

木のベッドは古びており、板が何枚か緩んでいて、横になるときにいつも微かな軋みを上げる。

薄い布団を敷き、粗末な枕を頭の下に置く。

(うぉん、そばかす枕〜俺の好み〜硬いと頭平べったなっちゃいそうからいやーの)

「ん...少し匂うな」

 どうやら、枕カバーは洗いざらしで、なんだか油の匂いが染みついたももだった。

(まぁ時代背景からして髪洗うの砂とか色々、髪の毛の油、取ったりとか薪大変っていかんいかん、明日のためにも寝なくちゃ。)

 鄭傑は服を脱がず、そのまま横になった。

パンイチや全裸になって寝る習慣はないようだ。

 体を横たえると、木のベッドが低く唸るように軋んだ。

「……ったく、今日も疲れたな」

目を閉じると、瞼の裏に今日の断片が浮かんだり消えたりした。

包丁の刃、飛び散った木屑、冷えた竈、柳月華の研ぎ澄まされた瞳。

それらがゆっくりと溶け合い、形を失っていく。

息が次第に深くなり、意識が底へと沈んでいった。

───

そこは、どこだったのだろう。

足元は霧に包まれ、地面があるのかないのかさえ定かではない。

空は紫がかった灰色で、遠くにぼんやりと巨大な影が浮かんでいる。まるで山のような、しかし山ではない何か。

その影の輪郭は絶えず揺らめき、時折、人のような、獣のような形に変わる。

鄭傑は歩いていた。

足を動かしているつもりなのに、ほとんど進んでいないような気がする。

周囲の霧がゆっくりと渦を巻き、耳元で低く囁くような音がする。

「聚気……聚気……」

声は自分のものか、他人のものか、わからない。

ただ、胸の奥が熱い。熱いというより、焼けるように疼く。

ふと、前方に光が見えた。

淡い、金色に近い光。

近づくと、それは一つの湯気が立ち上る大きな釜だった。

釜の縁には、達筆で“聚気湯”と書かれた紙が貼られている。

中を覗き込むと、黒く粘つく液体がゆっくりと煮えたぎり、泡が弾けるたびに奇妙な顔のような模様が浮かんでは消える。

「飲めば……力が……」

誰かの声がした。

振り返ると、そこに柳月華が立っていた。

しかし彼女の姿はいつもよりぼんやりとしていて、輪郭が霧に溶け込んでいる。

その目は相変わらず鋭く、彼を射抜くように見つめていたが、口元だけが奇妙に笑っている。

「違う……まだ……」

彼女の声が遠くなり、代わりに別の声が重なる。

石家の若旦那の声か、それとも六膳書の男の声か。

「……ら……そ....ふ.....だ……」

釜の湯気が急に激しくなり、灼熱いや、熱湯顔を覆った。

熱い。息ができない。

なんで声も出ないんだ!

液体が喉の奥に流れ込み、胸の奥で爆発するような感覚。

体の中の何かが膨張し、皮膚が裂けそうになる。

「う……あ……」

叫ぼうとしたが、声が出ない。

代わりに、視界が真っ赤に染まる。

───

「……っ!」

 鄭傑は跳ね起きた。

木のベッドが大きく軋み、部屋の暗闇の中で自分の荒い息遣いだけが響いていた。

額にびっしょりと汗が浮かび、背中が冷たい。

枕はずれ、布団は半分床に落ちていた。

「……夢か、いや朝か」

手で顔を擦る。

指先が震えていた。

夢の内容は、もうほとんど思い出せない。

最後に赤くなったのは覚えているものの、太陽の光からして、瞼が照らされたせいだろうか。

 ただ、胸の奥に残る焼けるような疼きはぼんやりとこびりついている。

 外は日が少し高くなった時間だった。

でも季節のせいか隙間からの風が未だに冷たく、同時に埃の匂いが再び鼻を突いた。

ここに着ては季節もわからないが、こちらの店の場が人数が少なくあることもあってそれで冷たいだろうか。

それが寂しくあるこの路地の象徴と言えるだろう。


 「ってしんみりしてる場合じゃない!」

(いわば時はエメラルドだ━━セオドア・グレイソン・ジュニア)


鄭は準備をした、何しろ妖怪はよくわからないが、野営でも準備は必要なため、サバイバル番組の知識をフル回転させて再現しようと努力する。

 そこで計画をする。

 店を空けるのは痛いが、材料が手に入らなければ聚気湯など夢のまた夢だ。

早いうちに営業は諦め、朝のうちに出発することにした。

(明日までに...ってフラグか。まず簡単な弁当として大餅があるか探してと...いや料理屋でほかの買うのも変だけど...)

そうしてまずは銭を出す鄭であった。


(まぁそして水筒、包丁を護身用に、胴当てはありそうか.....探すか....そして少しばかりの銭は....これ腰に巻いて...うーん袋に入れてやるか。)


 「うっし」


 「うっし」

 鄭傑は腰に小さな巾着を巻き、包丁を一本、布でくるんで腰の後ろに差した。

胴当ては結局見つからず、代わりに古い上着を二枚重ねて着込んだ。

大餅は厨房の残りか二つあって、それを油紙に包み、水筒には井戸水を満タンに入れた。

(あるものだな、保存しやすいのか、飯屋のせいか、両者か、大餅あった)

これで最低限の野営準備は整ったはずだ。

 店を出る前に、もう一度「聚気湯」の紙を確かめる。

材料はよくわからないのが正直。

「...これで冒険怖いし、打撲の薬とか血止め薬あるか探しこよ。」

 外は思ったより明るかった。

路地を抜け、人の往来が多い大通りに出ると、朝の喧騒が一気に耳に飛び込んでくる。

荷車を引く商人、籠を背負った女たち、刀を佩いた衛兵らしき男。

みんなが忙しなく動き回っている。

 まずは近くの薬問屋を目指した。

普通の生薬ならここで揃うかもしれない。

道すがら、鄭傑は独り言を呟きながら歩く。

(聚気湯……本当に飲んで力が湧くのか?……でも、あの石家の若旦那が本気で言ってたんだ、武の貴人が来るって。紀元芳を連れて、物見遊山が好きなお方だって。……俺がそれで力に関わらなきゃ、話にもならないってことか)

 薬問屋の前まで来ると、店先で白髪の老人が薬草を干していた。

鄭傑が中に入ろうとすると、老人は顔を上げてにこりと笑った。

「おや、鄭の旦那じゃねえか。今日はどうした? また油の匂いが染みついた手ぇしてるな、さてそう見ますとそろそろ仙長になるんじゃ」

「はは……まあ、そんなとこか。それでちょっと珍しい材料を探してるんだが、もしかして?」

 鄭傑は紙に書かれた一部を読み上げた。

老人は最初は普通に聞いていたが、言葉が増えれば増えるほど顔色を変えた。

「……おいおい、冗談はよしてくれや。わしは死にとうありません。そも、若い衆が死にたがってるのかい?」

「え?」

「これはな、わしは扱えるものじゃないばかりで、さらに取れる場所には大虫が」


 「虎?」

「ただの虎じゃねえ。最近、この街の北の山で人食い虎が出てるんだよ。“五足大長虫”って呼ばれてる化け物だ。狩り人三人、旅の商人五人……もう十人近くいやそれ以上食い殺されてちゃ....」

(不思議パワー使える人いるし、でもやっぱそう言うのもいるんだな。)

「……それ、妖怪とかじゃ……?」

「さあな。普通の虎じゃねえってのは確かです。でかい。でかすぎる。足跡が....牛の体な大きさみたいだって話があるんで」

 老人はそこで話を打ち切り、普通の生薬だけを少し売ってくれた。

「つけで」


 「またでっか...いくらあんたさんの身分が祭....いやなんでもねぇ」

(良いんだ、つけで、にしてもさっきの言い分?俺の知り合いってやつか?)

鄭傑は礼を言って店を出た、出る時は躓きそうになった。

料理人が特別なのもさらに体験できた故に、そうしてその事について考えも少ししたからだ。

(古代としちゃ....童生...いや秀才くらいの身分か?今の俺)

 次に立ち寄ったのは、雑貨屋らしいのが並ぶ一角だった。

ここで水筒の紐を新しく替えようと思ったのだが、通りが妙に混雑していることに気づいた。

 屈強な男たちが、道の端にずらりと並んで何かを眺めている。

皆、刀や槍を携え、表情が硬い。

中には見覚えのある背中もあった。

「あ……」

 鄭傑は思わず足を止めた。

黒い古びた衣装、腰に柳葉刀を佩いた...

「すまないそこの...って」

少し髭の顔、この男——王大虎だ。

昨日、初めて店に来て、粥を食っていった男。

粥を食べて涙して、母を呼んだ男。

(....案外悲しい過去あるのか?)

今は他の男たちと一緒に、何か大きな張り紙のようなものを凝視している。

「あの……王さん?」

 王大虎が振り向く。

昨日と同じ、鋭い目が鄭傑を捉えたが、すぐに少し柔らかくなった。

「おう、店家じゃねえか。店はもう開いてねえのか?」

「いや、今日は食材集め…あの、何か?みんな集まって」

 王大虎は顎で張り紙を示した。

そこには、赤い文字で大きく書かれていた。

【大虫討伐 懸賞 五十両】

 さらに下に、昨夜の被害状況が簡単に記されている。

狩り人数名が死亡、行方不明、女一人食い殺され的なのだが

 鄭傑はごくりと唾を飲んだ。

「……これ、虎って」

「ああ。もうただ人食い虎じゃねえ。聞くに化け物だ。昨夜も薬材とか取るに商人らが行ったらしいがそこでまた一人やられた。」

 

「んで、腕に自信のある連中が集まってるんだよ。俺も今朝、話を聞きに来たところだ、俺はまだ旅の身が長くは続くし、日銭は不可欠だってわけで」

 王大虎の横にいた、筋骨隆々の大男が口を挟んだ。

「狩り人すら三人もやられた? 普通の虎じゃねえ。目が赤く光って、傷がすぐ塞がるって話だ。

妖怪……いや、見た事はねぇが」

 鄭傑の頭の中で、夢の釜と“聚気湯”のレシピの文字が重なった。

百年以上生きた大虫の胆……

まさか、これが材料の一つなのか?

(実に運がいい、ここまで来るとは、欲しいものは全て俺に運ばれてくるぞ!!)

鄭はガッツポーズをしたくなるほどに、現在の状況を都合がいいと思い始めている。

 そうして、彼は少し迷ったが、意を決して王大虎に尋ねた。

「なぁ……俺もいいか?」

 周囲の男たちの視線が鄭の方へと集まってくる。

王大虎も少し驚いた顔をした。

「……お前、...いや祭...師....ってやつだろ?」

「理由は問わないでくれと言いたい、人が多い方が、力も増す……って言うか、一応少しはお互い知ってるし……もしかしてこの様子見ても、人数多く、独り占めは手厳しいだろう」

 言われて王大虎は腕を組んで、じっと鄭傑を見つめた。昨日、店で飯を食ったときの、慌てふためく姿を思い出しているのだろう。

しばらく沈黙が続いた後、彼は小さく息を吐いた。

「……正直....」

「力を見せようか」

 鄭傑は言葉で詰める。


「まあ、いい。人数は多い方がいいって話もある。

あんたが……俺たちと同行するなら頼もしいだろうし。」

 

「しばらくして、夜までにはこの城から離れた里の宿で落ち合うことにするが、意見はどうだ。」

 王大虎はそう言って、鄭傑の肩を軽く叩いた。

(ん!重い。力試しか?)

その手の重みは、まるで万力に握られる気分だった。

「まぁ、買い物する、くるか?」

そう言って鄭は手を退けた、まるで神でも動かすような動きで、肩にある王の手をつまんで取り除く。

「ッ!」


 「お、どうした?」



「いや、なんでも」

王の表情はそうではないことを語るが、鄭はそれを見ても特に反応を示さず具体的な集合場所だけを聞いて、去った。

この場の支配者は俺であるとでも示しているかのように。

 その後、彼は街のあちこちを回って買い物を続けた。

縄、火打石、布。

店によっては、こちらの身分を出してたとしてもつけを嫌がるところもいて、時間を考慮しては金を出してるから、金はだいぶ減った、しかし必要なものは揃った。

(にしても肩いてぇ...力が増えても、耐久度とかは変わらずか〜)

 昼過ぎには、里の姿が見えた。

(にして懸賞金かけるって珍しいのかな...?なんだかあんまり見ない気もする)

 ここまでは二時間ほどかかった。

道中、木々がだんだん深くなり、空気が冷たくなっていくのがあって、厚着の衣も用意しとけばいいと今更ながらに鄭は後悔する。


 里の入口らしきところをくぐった瞬間、鄭傑は息を呑んだ。

 死屍累々であった。

(....は?)

 指定された集まりの場は、村の中心にぽつんと建つ古びた二階建てだった。

王大虎から聞いた通り、大勢がいる。

全て肉片となっているが。

建物は見る影もなく。扉は半ば引き裂かれ、木片が飛び散り、壁には黒い血痕が幾筋も飛び散っていた。

 鄭傑は腰の包丁に手を伸ばし、ゆっくりと引き抜いた。

刃の冷たい感触が、なぜか伝わるのを彼は感じる。

その寒さはいつも感じないほどの冷たさ、時間が経つほどに増して掌に染み渡る。


「……なんだ、これ」

感じるは恐怖。

この世界はまさか人間が、人類が優位に立っていないのか。

 足を踏み入れると、床板が軋む音さえ不気味に響いた。

 部屋の中は、そこはさらなる地獄絵図だった。

 外で散らばる肉片の持ち主、死体が、無残に散乱していた。

 屈強な男たちの体は、ほとんど原型を留めていなかった。首がねじ切られ、胸郭が抉られ、内臓が床に零れ落ち、血溜まりが黒く固まっている。

女の死体も一角に転がり、顔の半分が食いちぎられ、眼窩が空洞になっていた。

空気は鉄錆と腐臭と、獣の吐息のような生暖かい湿気で満ち、埃と血の混じり陽光の中でゆっくり舞っていた。

 (な、あ、え)

さらなる不安を感じさせる景色、誰が見てもだろう。

まさか人間が弱いのか、街である張り紙もそう言う事だと言うのか。

寒気はさらに増した。包丁を握りしめていく時よりもさらに。

 体の(うち)で何か反応したせいか。特殊なあのオーラ——己が体に宿す、普通の武術や内功などとは根本から違う。

少なくとも現時点は、違う、そんな力が反応しているのか。

 だが今は、そんな悠長なことを考えている場合ではなかった。

 彼は包丁を両手で構え、背中を壁に預けてはそのままゆっくりと部屋の奥へ進んだ。

足元で血がべったりと靴底に張り付き、ぬるりとした感触が不快に伝わる。

布の薄底だからこそよく伝わる感触。


 そのとき、部屋の奥、崩れた梁の下から、低い唸りが聞こえた。

 地面が、わずかに震えた。

いや部屋が押されているのか。

 影が、何かの影がゆっくりと立ち上がった。違う近づいている。

 それは、虎だった。

 いや、虎の形をした、化け物だった。

 体長は優に三間(約五・五メートル)を越え、部屋の天井を軽く擦るほどの巨躯。

死体よりも遥かに大きく、横たわる男の亡骸をまるで玩具のように踏み潰していた。

毛並みは黒と橙の縞模様が腐敗したように褪せ、ところどころに膿のような緑の斑点が浮かび、傷口から新しい肉が盛り上がりながら再生している。

「う...うわあああ!」

もっとも鄭傑にはそれを見る余裕などなく、怪物が出た事に驚くばかりだ。

 無理もない、その口元には、鮮血が滴り落ち、粘つく涎が糸を引いて床に落ちるたび、じゅうっと音を立てて床板を溶かしていた。

あれは怪物、敵意剥き出しの他者を殺す何か。そう見れば、恐れるのは普通だろうと。

ガウッ

牙を見せられるも、虎が牙は象牙のように太く湾曲し、四本の前歯の間から零れる息は、腐った肉と硫黄の臭いを孕んでいた。

 そして、目。

凄まじい横目でこちらを睨んでいる

(なっなんだ!!)

 左右の眼窩に本来の黄金色の瞳が二つ——だが、その周囲に、まるで腫瘍のように小さな目玉が無数に増殖していた。

十個、二十個。額、頰、首筋、肩の筋肉の間まで、赤黒く濁った眼球が蠢き、瞬きするたびに粘液を垂らしながら視線をこちらに向ける。

すべてが独立して動き、鄭傑の全身を舐め回すように捉えていた。

「ににげな」

だが一つ気がつく鄭がそこにいた。

 虎の前足は牛の胴体ほど太く、爪は鎌のように湾曲し、一撃で床板を深く抉っていた。

下では男が背中を天井に見せて頭が抉れている。

あの大木なんかよりも遥かに太い足を前にして逃げるのは夢のまた夢だと気付かされる。

 そうして鄭は動こうとした足を止めては、包丁を握りしめながらに観察する。

虎の背中には、異様なまでに隆起した五本目の足のような肉の突起が長く伸びているように並び、虎が動くたびに筋肉の動きに連れては揺れるせいか、まるで命でもあるように蠢く、これが五足大長虫の名の、あれの名前の起こりか。

「ゴク」

 鄭傑の喉が、乾いた音を立てた。

 (でか……すぎる……)

「ムッ」

 包丁の柄が、汗で滑りそうになる。それで思わずに声が出た。

 化け物はゆっくりと首を傾け、増殖した無数の目で観察をした。口の端が裂けるように上がり、血まみれの舌がべろりと零れ出る。

ジュン

涎が床に落ち、死体の残骸をさらに腐食させた。

「ッ!」

 次の瞬間、獣は跳んだ。

 巨体とは思えぬ速度で、部屋の空気を切り裂きながら。

 鄭傑は咄嗟に横へ転がった。梁の残骸が砕け散り、木片が顔を掠める。

「うわああっ!」

 彼は叫びながらすぐさまに回転の姿勢の勢いを乗せたままに立ち上がり、木々残骸を越えては奥の廊下へ駆け出した。

 背後で壁が崩れる音、獣の咆哮が木造の宿を震わせるその音にたまらなく逃げた。

あと先も考えられずに。

死にたくないと言う一心で。

 しかし走れば走るほどに死体がさらに転がっていた。

「ッ狭!」

彼はなんとか転ばないように死者の腕を踏み越え、時には血に滑りながら必死に逃げ回った。

しかしそれならば当然速さも落ちては化け物が近づく。

「コォオオ」

 化け物の息が、首筋に熱くかかる。

 振り返らずに角を曲がり、階段を駆け上がる。木の階段が軋み、半ばで崩れ落ちた。

 二階の窓から、外の景色が見えた。

活路だ。

 だが、背後で巨体が壁を突き破る音が迫る。

 鄭傑は胸の奥で、再び熱を感じた。いや熱が増してきたと感じた。

あの頭痛にも近い吐き気をもようした時の感覚、聚気湯の夢の感覚が、今、現実の恐怖の中に影響されたか、わずかに形を変え、体の芯を支えようとしている、自分を危険から遠ざかるための糧として。


 彼は窓枠に足をかけ、飛び....否、飛び降りたわけではない。

むしろ窓に乗った。

 正面には、怪物が咆哮を上げ、あたりの空気をも揺るがせながら追ってくる。


「来い!」

死中に活


なぜ死中に活か。

 普通に窓から飛び降りれば、確かに地面までの高さは二階分——およそ四間弱。

落下の速度は速いが、着地までの時間は一瞬でしかない。だがその一瞬で、化け物の跳躍速度は人間の全力疾走を遥かに上回るだろう

鄭傑が地面に足をつくより早く、獣の前足が背中を抉り、牙が喉笛を噛み砕く。

距離も足りない。窓を壊さずに、こけ落ちずには跳躍力を大幅に高めることもできず、遠くにはいかない。

 故に、故に、故にだ。

決して回避できない空中で獣が最も簡単に彼に噛み付くだろうと。

鄭は本能的に察した。


 言わば、かの文人が一人が常に口にした状態にあたる、“私に好意のある友人は決して回避できない事”


外まで逃げ切るには、少なくとも成人男性で十歩以上の余裕が必要だ。

 だが落下直後の体は平衡を失い、それに怪物の動きで風が、気流が乱れることも当然ある。

ならば膝が折れ、転倒する。そこに怪物が覆い被さる——それが“死”

ペシャンコのグッシャンだ。

 だからこそ、逆を突く。

 死中に活。

絶体絶命の只中でこそ、活路は生まれる。

古の武人らが語り継ぐ理だ。

 逃げるのではなく、敵の懐へ飛び込む。

高度を武器に変え、化け物の頭上を飛び越える。

窓枠を蹴り、空中で体を捻り、包丁を逆手に握り直す。

 落下の勢いを殺さず、むしろ加速させて獣の背中へ着地するのだ。

(来い!目指すは天井、だが跳ね返されない程度に!)

そこにこそ、わずかな隙が生まれる。



 鄭傑は叫んだ。

さっきからの理屈を本能的に捉えた。瞬時に、約一秒ほどの時間を持って。

「来いッ!」

 窓枠で体をひねれば全力で蹴り飛ばした。

 体が浮く。風が頰を切り裂く。

前方から迫る化け物の巨体が、ゆっくりと視界に迫る。

 無数の小眼が一斉にこちらを捉え、黄金の主眼が怒りに燃えは、その(まなこ)の光に照らされているような粘度を持つ涎が弧を描いて飛び、まるで流星のように速く、痛みをもたらして、傷を与え得る熱い飛沫が彼の頰に当たる。

 だが鄭傑はもう、落ちてはいなかった。

斜め角度の突破!

突進と跳躍を同時に兼ね備えをする動作。

 さらには空中で腰を捻り、包丁を頭上に振りかぶる。

 刃が陽光を浴び、鈍く光った、欠けたるは刃先が、はたまたはまるで嘲笑うように口を歪に割いているあの虎の額が先か。

 着地——否、着撃。

「わうおおおああああ!」

 五足大長虫の背中、隆起した肉の突起の根元へ、鄭傑の両足が叩きつけられた。巨体がわずかに沈む。骨が軋むような重低音が響く。


 (なんてパワーだッ!)

化け物が咆哮を上げ、首を百八十度捻って牙を突き出す。だが遅い。鄭傑はすでに滑るように背中を駆け、包丁を振り下ろしていた。

 ジュンッ!

 刃が肉に沈む。腐敗した毛皮を裂き、膿の混じった血が噴き出す。

熱い。焼けるような痛みが柄から伝わるが、離さない。

目的は殺傷ではなく逃亡だからだ。


「グオオオオオッ!」

 獣が暴れる。壁を突き破り、天井が崩落する。鄭傑は背中から転がり落ちそうになるが、包丁を支えに体を固定。もう一本の突起に足をかけ、跳躍。窓の外へ——今度は本当に地面へ向かって、一線!

(死ぬぅうう!)

うっては恐怖する、これは軟弱か。


(きた!)

 その刹那、天地は静寂に包まれた。

研ぎ澄まされる感覚だろうか。

目の前の存在する獣の巨躯を狙う以外何も見えなくなる。

刃は腐りし肉を裂き、膿血を噴き上げしが、ただの斬撃にて。そんな未来しか予想できなくなった。

 

 

 風は嗚咽し、陽光は一瞬翳り、塵芥の如き侘びしき影が、獣の背に落ちる、それしか今の鄭に残されていない。

 

 刃は深く沈み、獣の血肉を抉る事をイメージする。

欠けた刃先は、嘲うように歪みながらも、まるで古刀の霊が宿りしが如く、鈍き光を放つか。

肉が裂ける音は、枯れ木の折れる寂しき響きか。

血は黒く粘り、噴き出す刹那に陽を浴びて、虹のごとく儚く輝き、すぐに地に落ちて消ゆるか。

 化け物の巨体が、雷鳴の如く震える。

「グオオオオオオッ……!」

現実はそんな想像すら許さない、ならば、理想を歪めればいい。


襲いかかるは自身の予想と異なる現実。

大きくある怪物は哺乳類と言うにはあまりにも傷をものとせず、むしろムカデなどの昆虫を想起させてしまうのが現実だった。


 その咆哮は、天地を震わせしも、すでに死の予感を帯びていた。鄭を死へとの誘いだ。

驚いている隙にくる。

大虫の前足が、土を抉りながら迫る。

 黄金の主眼が、鄭傑を射抜く。

 距離はもう、わずか一丈。

 爪が風を裂き、黒い影が視界を覆う。

爪先はもうきた。驚く場合じゃない。

だがしかし動かない。

生物(彼)の本能か。

否。


 彼は咄嗟に力を絞って、なんと空で体の半身を捻り、左肩を大虫の前足の軌道に晒した。

 そんな瞬間に鄭傑の足が、地面を強く蹴った。

 体が浮かび上がる。

 一瞬、すべてが遅くなるほどの距離。

爪にさらなる距離を近づくと言う行為をしたならば、何しても無意味、だから全て遅い。

 他の人がいれば。彼の跳躍は、ただの死に行く行為に見えるだろう、もしくは怪物からも不思議がられるだろうか。

 横に飛んで、獣の攻撃を紙一重でかわすことに失敗しただけか。そう言われるだろう。

 

ジュン!

 肉が裂ける湿った音が、風の音に重なる。

 皮膚が綺麗に裂け、筋肉の繊維が一本一本断たれていく感触が、はっきりと伝わってくる。


「終わりか、それもそうだ、あんな巨体の化け物、人が飛んでかわせるものじゃない。」


 「こりゃまた!こんな猛士がやれちゃ...って言う自分も罵られるわ..へぇこいつはすごいや。そも人に褒められるだけあっては、聞くぞ人知るぞ、あの人、まさに横入れじゃ川を超えて、縦に飛べば海が底に着く。」


 ポン と叩く。

「心服口服、一目置く!」


 なぜならば、それはただの逃亡ではなかった。

怪物に硬直を与えた跳躍攻撃は前戯にしかすぎない。


攻撃は己が体内にある、なじみのないその力を貯める、そんな時間を与えるだけのものだった。

そう、殺豚刀法なる名前の武術で体内のエネルギーを引き出すためのもの。

「うおお!」

 空中で、鄭傑の右手が動いた。

 包丁を、自分の左肩に押し当てる。

 刃先が皮膚に触れた瞬間、彼は迷わず、深く引き裂いた。

 ジュゥゥゥゥン……!

 肉が裂ける音が、風の音に混じる。

 皮膚が破れ、筋肉が断たれ、骨の表面を刃が掠める。

 熱い血が噴き出し、左肩から胸にかけて赤い弧を描く。

 自傷行為、まさか鄭は恐れて、自ら命を断つか。

 

ゴン!


否!

彼が自ら刻んだ傷の衝撃力が、爆発的な反動を生んでいた。

 左肩の筋肉が痙攣し、体を後方へ――いや、斜め上方へ弾き飛ばした。

 ただの跳躍では届かない、高さ。

 ただの回避ではありえない、奇妙に捻れた軌道。

 大虫の爪が、ほんの髪の毛一本の差で空を切る。

 獣の黄金の瞳が、一瞬、驚愕に細まる。

 予期せぬ動き。

 人間が、自分を傷つけてまで加速するなど、誰が想像できよう。

いやそもそもありえないことである。


 あくまでも凡人の世界に置いては、の話だが。

鄭は大学で学んだ知識とこの世界に来てからのエネルギーを使って、通常では不可能を成し遂げた。


彼はこの成功に驚き、脳裏では暴風雨が巻き起こる。


その原理は、19世紀デリウンヌの物理学者サー・エドマンド・クイライト博士が提唱した

(クイライトの内部推進代替原理!!!!)

━━━━━━━━━━━━━


 クイライト博士はこう説いた——

 「運動時には、通常の収縮や重力による運動量とは別に、潜む『内部原動力』が存在する。」

「運動の際に体が傷つくのは自らを深く傷つける行為は、その内部原動力を『代替』する瞬間である。起こった欠損をそれが補うからだ」


 「内部原動力?人間で可能でしょうか?」


「何を君は言う、機械の話だ」


(ひへーすごいな)

「もっともこれはあくまで現実の話で博士は理論上あり得るとも答えている。」


 「任意の閉じた系において、内部から質量(または物質の一部)を高速で外部へ噴出させる行為は、残された系の全体に等しく逆向きの運動量を与える。

これは機械的な推進時と同一のメカニズムであり、噴出される質量の速度と量が大きいほど、残る系の推進力は増大する。」

 「故に人体のおいても伝達可能であれば自らを深く傷つける行為は、体内に蓄積された内部エネルギーを解放し、傷口を噴出口として血と組織の微小質量を高速噴出させる。」


 「と言いますと?」

 「君名は?先ほどから記者としてもしつこすぎる、聞け.....その結果、通常の外部からの推進源に頼らず、失われた運動エネルギーを内部噴出による反動で完全に代替し、軌道を自在に変更する。」


 「....?人間は空を飛べるように」


「わかってくれたか、君のような愚鈍な存在が。デリウンヌをここまでしてくれたあの存在に人はなりうる、そう言う夢想だ。」

━━━━━━━━━━━━━

(……痛え……痛いよお母さん!)

 体が、矢のように上昇する。

 風が耳元で唸りを上げ、血の飛沫が自分の頰を叩く。

 左肩の傷口から、熱い血が滴り落ち、地面に黒い染みを作る。

 だが、その傷の代償として得た推進力は、尋常ではなかった。


まさに今、それが起こっている。

 包丁が左肩の組織を破壊した瞬間、鄭傑の体内に蓄積された内部エネルギーが、通常の外部推進(足の蹴りや重力の利用)という原動力を代替した。

 刃が組織を押し退け、裂く「作用」が発生すると同時に、傷口から血と微細な組織片が高速で噴出する。

 その噴出は、機械のロケットが燃焼ガスを後方へ排出するのと同様に、残された体全体に等しい逆向きの反応力を生む。

 内部エネルギーがその噴出を加速させ、失われた跳躍の運動エネルギーを補い、斜め上方への強い推進ベクトルを形成した。

 血の噴出圧力すら、クイライトの原理における「内部質量の噴出」として機能し、体を矢のように加速させる。

(今でも続いている、体内であるエネルギーが沸騰しているだろうか。でも、これで飛べるならいい、原理はいらない。)

だがそう言っても鄭にはまだ考えがあった。

彼はあくまで新たなる学術に興味ないだけだった。


命が優先だ。それで彼の頭はいっぱいだった。

 (クイライト博士の原理通り……俺の中のエネルギーが、通常の推進の原動力を完全に代替した……ならば次もそれに従えばいい。傷が組織を裂き、質量を噴出させた瞬間、その反動が体を押し上げる……

ならばこの一撃で、今度は失われた運動エネルギーを補うだけじゃなくさらに軌道を変えてる……!次の一発だけで、十分だ……!目指すは!)


 跳躍の頂点で、鄭傑はさらに体を捻った。

 第一の自傷斬撃がもたらした到達点はすぐにピークに達した

彼にさらなる決断はここで求められる!

 ジュゥゥゥゥン……!

 刃が、自分の左肩の肉を深く抉ったせいで

 皮膚が裂け、筋肉が断たれ、血が噴き出す。

 痛みが、絶え間なくくれば、刀を握る手すらも緩みそうになってくる。

 (耐えろ!耐えろ!)

「ボン!」

あれは怪物の咆哮、だが明らかに彼の方角に向けられるものだ。

(ッまさかもう頭を上げて!)


鄭の逃避行、偽りの跳躍の策は、結果もないままに終わるのか。

必死に虎を避けようとする、弱い人の、哀れな逃げの一手に変わるのか。


 ジャン!


首を百八十度捻りし牙は、虚空を咬むのみ。

(やっぱ虎じゃねぇ!首がありえないほどに回って!!!?)

「バオウ!」

 風が耳元で激しく唸りを上げ、血の飛沫が自分の頰や髪を叩く。

「めがッ!」

(しまった!)


ポン

「欲知後事如何、且聽下回分解。 ━━欲レ知後事如何、且レ聽下回分解。

(後の事を如何なるかを知らんと欲せば、且く下回の分解を聽け。)」

 「おおっと!」


「説明してくれよデリウンヌ!!」


 「ほう、異国の人だったか。」


「そうといえば、異国だが兄台、修行者でナジュアイって説話を聞いた事あんぜ、あれと同じじゃないか。」


「ほう〜となれば次ぐの度に聞きたいな」


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